馬車に揺られながら
馬車に野営で使った天幕やらを積みこんで、出発の準備が整う頃には、ずいぶん日が高くなっていた。
まだ若いウロコを輝かせて飛び去るアンバーを見送って、わたしたちは馬車に乗りこんだ。
「アンバーなら、ちゃんと戻ってくるさ。フィオが思っているより、あいつは前向きだからね」
そう言ってくれたのは、アンバーと元から親しかったヴァンだ。
彼がそう言ってくれただけで、なぜか戻ってくるような気がした。
出発までに時間を食ってしまったけれど、今日中に次の街に辿り着けそうだ。
以前、都市連盟をまるで一つの国のようだと言ったのは、ライラだった。
25の加盟している都市国家の間のつながりは、確かに一つの国に近いのだと、リュックベンを離れて、少しずつ分かってきた。
都市国家の境は、壁が築かれているわけでもなく、ただ石碑が街道の脇に置いてあるだけ。
都市連盟の間なら、自由に行き来できる。
例えば、これから向かうブラス聖王国の入り口となる橋の街モーガルでは、大河を渡れない者も多いというのが、わたしにはしっくりこない。
二頭の丈夫な馬を御しているのは、ターニャだ。
「それにしても、のどかだなぁ。うらやましいくらいだ」
そろそろ喉が渇いた頃だろうと、水筒片手に前の
「北の春は、まだ先だもんね」
「ああ。ありがと、フィオ。ちょうど、水が欲しかったところさ」
リュックベンを離れてしばらく続いた丘陵地帯も背にしている。わたしたちの馬車は左に海岸沿いに植えられた背の高い木立と水平線、右に春を待つ田園風景とはるか遠くのオーナ山脈の霞んだ稜線を望みながら西へ向かっている。
「北の春、かぁ。春って言っても、まるで違うよな」
「そうだね。
軽くなった水筒を返してもらいながら、ターニャが思いを馳せているだろう、北の地をわたしも思う。
竜の森の星辰の湖よりも北へ行ったことはなかったが、星辰の湖から北東にそびえ立つ頂きが一年中雪で白く染まっている山々を知っている。
いつか、行くこともあるかもしれない。そんなことを、旅立つ前も考えたことがあった。
「フィオ、そろそろ中に戻りな。いつどこから、奴らが襲ってくるかわかったもんじゃないからね」
「むぅ。わかった。ターニャも何かあったら……」
「わかってるよ」
荷台に戻る際、稜線が霞むオーナ山脈が、北の険しい雪山と重なる。
それほど遠くない未来に、わたしは北の地を踏むことになるだろうという予感に、少しだけ胸がざわついた。
モール商会から贈られた馬車は、外から見ると頑丈な荷馬車にしか見えない。天井と前後を
左右の板にある明り取りの小さな窓は、外から見えないようにいつも分厚いカーテンが閉められている。
外の景色を楽しめないのは、本当に残念だ。たとえ、それがわたしの安全のためだとしても。
天井から吊り下げられた光石ランプの灯りでも、わたしの不満そうな顔がよくわかったようだ。
左右に伸びる向かい合わせの長椅子――夜には窮屈なベッド――の中で、奥に座るローワンがヴァンとの間を、笑いながら叩く。
「可愛い顔が台無しだぜ、フィオちゃん。」
「むぅ」
可愛いと言われるのは、まだ抵抗がある。というよりも、つい反発したくなる。絶対に言いたくはないけども、わたしは美しいと言われたい。
ローワンの言うところの可愛い顔を台無しにしたまま、わたしは彼とヴァンの間にドスンと腰を下ろす。
向かいの長椅子に座るライラが、口元をおさえて笑いをこらえているのが、面白くない。
「むぅ……」
何か言い返さなければとしたけども、ヴァンに肩を叩かれてなだめられてしまった。
「フィオはまだいいよ。俺らは、結局目立たないようにしなきゃいけないんだから。リュックベンでやってきたのはなんだったんだろうって、たまに考えるくらいさ」
「それは言い過ぎではないかしら。リュックベンも都市連盟も、これからですわよ」
そうだけどさと、ヴァンがぼやきたくなる気持ちもわかる。
わたしもリュックベンでは、故郷だというのに自由に外出できなかった日々を送ってきたのだから。
あの日の襲撃があってもなくても、竜族の仲間たちは目立たいように旅を続けるように、この馬車が用意されていたのだから。
今向かっているスラドソン市の市街地でも、モール商会の支部にお世話になることになる。
「あーあ。たっく、アンバーじゃなくったって、面白くないぜ。地竜の奴らが、でかい顔して仕切ってると思うとよぉ」
「ローワンに同じく」
だろうと、憮然とした様子でうなずきあうアーウィンとローワン。水と火だというのに、あいかわらず二人は相性がいい。
そんな二人に対して、ヴァンは苦い笑いを浮かべた。
「一枚岩のヘイデンさまには、表と裏がある。見えているのは、ほんの一部の表。地竜族には気をつけろって、長に言われてたからね。今さらだよ」
「小ロイドさまが?」
ライラが首を傾げる。
地竜の一枚岩のヘイデンと風竜の小閃光のロイドが、互いを友と呼ぶほどに親しい間柄だということは、竜の森の外まで知られている。
その小ロイドが、地竜族に気をつけろと忠告するなど、意外でしかない。
わたしたち四人分の意外だという視線を、ヴァンは肩をすくめて受け止める。
「うちの長、ああ見えて、そうとう食えないジジイだよ。ヘイデンさまのことも、口では友とか言っているけど、本当のところはどうだか、ね。……だいたい、考えてもみなよ、
なんともいえない沈黙が、馬車の中に降ってきた。
どうやら、わたしたちは全員小ロイドを見た目通りだと思いこんでいたようだ。
このなんともいえない沈黙は、ヴァンのやれやれといった苦笑まじりのため息で破られた。
「ま、フィオの身を守るのが最優先だからね。面白くなくても、聖王国までは地竜族に仕切らせるしかないよ」
結局、そういう結論になるのだろう。
リュックベン市での襲撃も、そもそもヘイデンを始めとした地竜族が事前に把握していたことなのだ。
「僕が真理派だったら、こんなところでフィオを襲ったりしないよ」
意外なことに、つまらなそうにそう言ったのは、ライラの隣りに座っていたアーウィンだった。
首を傾げたわたしを一瞥して、彼は続ける。そのいらだった一瞥は、生意気な弟分だったとは思えないほど、鋭かった。
「こんな目立たないところで、フィオを襲っても意味がないってことさ。考えてもみろよ、リュックベンにいた時だって、奴らはフィオのことを知っていた。つまり、いつでも襲えたってことじゃないか」
「つまり、もっと目立つところで、世界竜族の花嫁の命を奪うことが、重要……ということですの?」
「そうだよ、ライラ。竜族だけじゃなくて、人間たちも揺さぶれるじゃないか。もっとも強き種族の王族たる世界竜族を完全に滅ぼせたってなったら、どっちつかずだった人間も真理派に同調しやすいだろう。だから、僕が真理派だったら、この間の声明のこともあるし、都市連盟の加盟都市じゃ何もしないよ。動くんだったら、橋の街だね」
胸元をおさえてしまうほど、アーウィンの考えは説得力がある。
パンッと、すぐ側で火の玉が爆ぜた。
「よくもまぁ、真理派だったらとか、胸クソ悪いこと言えるな」
ローワンだ。今にも向かいに座るアーウィンに殴りかかりそうなほど、赤い瞳は怒りで燃え盛っていた。
「いつどこで、真理派が現れたって、二度とフィオちゃんを危ない目にあわせねぇ。だから、二度と俺の前で真理派だったらとか、口にするな」
「……覚えておくよ」
ここでアーウィンが言い返したらどうしようと冷や冷やしたけれども、杞憂だったようだ。
ほっと胸をなでおろしつつ、わたしの中に無視できないほど凝り固まった黒いモノが生じていた。
張り詰めた雰囲気をなごませるためか、ライラの笑い声が鈴のように響いた。
「嫌な話はそこまでにしましょう。ところで、少し前から馬車の速度が落ちているようなのですが……」
「むっ?」
まったく気がついていなかったのは、ローワンとアーウィンも同じだろう。二人とも、ハッと腰を浮かしかける。耳ざといヴァンが大丈夫だと手をひらひら振らなければ、二人とも外に飛び出していたかもしれない。
「大丈夫だよ。どうやら、スラドソン市のモール商会の連中、俺たちが遅いからって、迎えに来てくれたらしいよ」
ニコニコ笑っているライラを見れば、彼女も気がついていたのだろう。
たしかに、外でターニャが誰かと話している声がしていた。しばらくして、馬車が完全に止まったかと思うと、彼女が御者台から幌を持ち上げて、荷台へと移ってきた。
「スラドソンの連中は、心配症だね。ちょっと遅れているだけだってのに。ま、御者を代わってくれたのは、感謝しないとね」
ライラの隣に腰を下ろしたターニャが疲れたと、手を組んで大きく伸びをする。
「それで、何の話をしてたんだい?」
仲間の中で、馬車を御せるのは、ターニャだけだ。だから、後ろでどんな話がされているのか、いつも気になっていたに違いない。
わたしが不信感を抱いていたのは、この馬車に揺られている仲間たち全員だったのだろう。
今、気がついたわけじゃない。本当は、ずっと前から気がついていたのだけど、目をそらしていただけだ。
ローワンなどは、アーウィンの言動に敏感に反応したようすから、やはり真理派が憎いのだと、気がついてしまった。おそらく、世界竜族が再び表舞台に立つことで、勢いづいている真理派をおさえたいのだろう。だから、花嫁の安全が第一なのだろう。
ここにいる仲間たちだけではない。
世界竜族の花嫁なら、しがないパン屋の娘フィオナ・ガードナーでなくとも、同じことをするに違いない。ずっと前から抱えている憂鬱の種が、ここ数日のうちに、どんどん膨れ上がって、無視できなくなりつつある。
この不安を打ち明ければ、きっとターニャのようにそんなことはないと言ってくれるだろう。でも、それでは駄目なのだ。
「早く花婿が見つかれば、こんなこと……」
「フィオ、何か言った?」
「ううん、ヴァン、何でもないよ」
耳ざとい彼にも届かなかった声。
もしかしたら、早く花婿に会って、この自分が嫌いになりそうになる不信感を拭い去りたいという思いが、今朝の夢で花婿を見させたのかもしれない。
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