父と子 〜刃と縄〜

 氷刃ひょうじんのディランが、長の館である明け星の館に移り住んでからまだ一年も経っていない。

 かつて、ライオスとイムリ茶をすすっていた私室の小さなテーブルに、今はディラン一人。


「やはり、おおおじいさまのようには、いきませんねぇ」


 ディランはティーカップに目を落とす。飲みかけのイムリ茶には、彼のしかめっ面が映っていた。


「まだまだ、馬鹿息子に甘いようです」


 もういないとわかっていながら、ディランはライオスに語りかけずにはいられなかったのだろう。

 覚悟していたであろうが、およそ千年ぶりの新しい長だ。その重圧はさけようもなかっただろうし、また、誰とも分かち合うこともできない。


「つい、大おじいさまなら、と、考えてしまうのですよ」


 ぬるくなったイムリ茶を飲み干す気分にならなかったのか、彼はため息をついてティーカップを置いた。


 一人息子のドゥールがしでかしたこと。そのことよりも、なぜこうなってしまったのかと、悔やんでも悔みきれない思いに、彼はさいなまれていたことだろう。


「俺があの時、断ち切らなければ……」


 馬鹿息子と呼び、二つ名もまだ許していない一人息子のドゥールが、ディランのたったひとつの泣き所であった。


 忙しかったのは、言い訳にすぎない。

 むしろ、彼は忙しいことを言い訳にして、息子と距離をおいてしまった。

 そう、幼い息子が父を引き止めようと右の手首に結んだ水の縄を断ち切った、あの日から。


『父さん……』


 遊びにすぎないだろうと簡単に断ち切ってしまった時の、息子の声が忘れられなかった。

 唇を噛み締めてうつむいた息子の姿が、忘れられなかった。


 あの日から、一人息子のドゥールがディランの泣き所であった。


 そのドゥールは、かねてから親しかった帝国のニコラスに、守り育てて来た世界竜の花嫁の情報を与えた。それだけでも、充分すぎるほどの罪だ。

 その上、リュックベン市での式典の翌日に、拘束したニコラスと同行者、そして火竜の花嫁が姿を消した。同じ日に、行方をくらましたドゥールが無関係であるわけがない。


 鉄枷てつかせだけは、はめさせたくなかっただろうが、ドゥールはそれだけのことをしてしまった。


 ディランの耳に、よく聞き知った足音が届いた。

 時間だ。

 待っていた報せ――であると同時に永遠に届けられなければと願わずにはいられない報せが、足音とともに近づいてくる。


「わかっていますよ。大おじいさま、今度こそは俺も逃げません」


 かつて、この館の主だった偉大な老竜によく似た伏目がちな穏やかな笑みを浮かべて、ディランは立ち上がる。

 振り返れば、最愛の妻が厳しい顔で立っていた。


「それで、あの男の返答は?」


「『今まで通り、息子の行動に責任を負わない』だってさ。ルカらしいよ、まったく」


 北の皇帝を軽々しく呼び捨てにするのは、彼女くらいだろう。

 いつものことなのに――いや、いつものことだから、ディランは笑みを深めてしまう。


「ありがとう、ナターシャ。行ってくる。ロイドも、待ちくたびれているだろうから、な」


 息子ということもあるし、同族ではない火竜の花嫁の失踪にも関わっていることもあって、ディランは鉄枷をはめるその場に、風竜族の長ロイドに立ち会いを求めた。

 ライオス亡き後、長老格となった小ロイドは、嫌そうな顔をすることもなく、ただ鷹揚に首を縦に振っただけだという。


 穏やかな笑みの中に、自嘲の色を見つけたナターシャは、愛用の棍棒を振るう。


「しっかり、ケジメつけてきなよ」


「いって。うん、ありがとう、ナターシャ」


 嬉しそうに緩んだ顔で棍棒で殴られた後頭部に手をやるディランが、ナターシャにとって一番彼らしい姿なのだろう。

 彼女は一番大好きな顔の夫を見送りたかったのかもしれない。


「まったく、世話が焼ける旦那だよ」


 私室を出たディランは、さざなみきらめく湖面に立ち、天を仰いだ。あるいは、はるか遠い楽園を。


 一度、断ち切ってしまった絆を取り戻すことは、容易なことではないだろう。そもそも、取り戻せるかも危うい。


「それでも、ケリをつけるしかないだろうよ」




 ――


 ドゥールは、リュックベン市で行方をくらましてから、星辰の湖にほど近い人間の森にある小さな小屋に身を潜めていた。

 その古い小さな小屋は、彼の子どもの頃からの隠れ家だった。


 頭の下で手を組み、天井の蜘蛛の巣を眺めていたドゥールは、待っていたのかもしれない。

 父が鉄枷を手に捕まえに来るのを、ただ待っていたのかもしれない。


「ニコラス、無事だといいんだがな」


 ため息をついた彼は、小屋のすみにある雨水をためた水瓶みずがめのほうに右手を伸ばした。右の人差し指で、ぐるぐると宙をなぞる。雨水の縄が踊った。

 水の縄で遊ぶことを覚えたのは、いつの頃だっただろうか。


「メアリー、ブライアン……すまない」


 妻と息子なら、心配することはないだろう。

 きっと、母のナターシャが守ってくれるはずだ。だが、星辰の湖で肩身狭い思いをさせているだろう。それだけが、気がかりだ。


 ぐるぐると、水の縄をもてあそぶ彼は、もしかしたら手繰り寄せたかったのかもしれない。あの日、父に断ち切られた絆を。


 彼が隠れ家に選んだ小屋は、家を留守にすることの多かった父を求めて家出した時に見つけた。

 まだ変化へんげすることもできなかった幼い彼は、星辰の湖を出ることは禁じられていた。

 そう、最初は純粋に父を求める気持ちがあったのだ。それが、いつしか危険だとわかっていながら、人間たちと関わるうちに、反抗心へと変わってしまった。


『自分の身も守れない子どもが、竜の森を出ていいわけがないだろう』


 本当は、ただかまってほしかっただけかもしれない。

 子どもも竜の森を出るべきだと言えば、父が黙っていられないと知ってしまったから。


 もしあの時、行かないでと言えたら、こんなことにはならなかったのだろうか。


「今さら、だな」


 妻も息子もいるというのに、父に認めてもらいたいという子どもじみた思いを、彼は捨てきれないままだ。


 ぐるぐると水の縄をもてあそぶ彼は、けたたましい鈴たちの音を聞いた。


「っ!」


 水の縄を右手首に巻きつけながら、ドゥールは跳ね起きる。

 小屋の周囲の木々に吊るした氷鈴ひょうりんの音は、鳴り止む気配はない。それから不自然なことに、小屋がまるで揺れない。


「立ち会いは、小ロイドさま、か」


 そして、それは父のディランがやってきたことを意味する。

 父を待っていたドゥールだったが、おとなしく捕まるつもりはなかった。

 外に飛び出したドゥールの足元に、氷のやいばが突き刺さった。


 足を止め、見上げてきたドゥールの視線を、頭上のディランはまっすぐ受け止めた。その心までは、受け止めたかどうかは、お互いにわからないまま、ディランは口を開いた。


「その一振りは、警告だ。自分が何をしたのか、わかっているならおとなしく着いて来い」


「警告に、わざわざ一振り使うとは、ずいぶん、なめられたものですね!」


 ディランは挑発するように笑う息子に、無言で左腕を振り下ろす。

 たちまち宙を駆ける氷の刃を、ドゥールが振るった右手の縄が絡め取り粉砕する。


「一振りずつではなくて、一気にやったらどうですか」


「…………」


 押し黙ったまま、ディランは陽の光にウロコをきらめかせながら、左右交互に腕を振り下ろす。四振りの刃が立て続けに宙を駆ける。

 二つ名の由来ともなっている彼の氷の刃は、切れ味よりも触れたものを瞬時に凍らせるほうが恐ろしい。もっとも、水を操る水竜族であれば、気絶程度ですむだろうが。


「四振り、か。俺が何も準備せずにこの数日過ごしてきたとでも?」


 ドゥールは頭上高くあげた両手を、交差するように大きく勢い良く振り下ろした。

 迫りくる四振りの刃と彼の間に、網のように無数の水の縄が張り巡らされる。


 鋭い氷の刃の致命的な欠点は、その脆さだ。

 張り巡らされた縄をたわませつつも、粉々に砕けた刃にディランは軽く目を見張った。


「っ!」


 その表情は、もしかしたら息子の成長に驚いた父親のそれであったかもしれない。


 氷刃のディランのやいばは八振り。

 一度、八振り使い果たせば、次の刃を繰り出すまでに時間が必要となる。

 ドゥールは、その時を待っていた。水竜族一の翼なら、今ひとたび逃げることができるはずだと。

 すでに六振り、ディランは消耗している。


 網のように張り巡らした縄の下で、ドゥールは笑った。


「親父殿、もう二振りしかないじゃないですか!」


 ディランは何も答えずに、青いウロコをきらめかせながら両手を振り下ろした。

 二振りの刃を絡め取り粉砕したドゥールが、すかさず変化して翼を広げる。

 逃げ切れると、二振りの刃を同時に粉砕したドゥールは確信した。


 父のやいばは八振り。

 その八振りすべてを使い切らせる自信など、ドゥールにはなかった。いわゆる、賭けだった。いや、意地だった。

 おとなしく捕まりたくないという、子どもじみた意地。

 笑いだしてしまいそうな高揚感をおさえ、地を蹴ったドゥールは網のように張り巡らした縄を一本にまとめ上げて鞭のように父めがけて振るう。

 足止めのつもりだったのだろう。

 だから、渾身の縄をディランが避けもせず、右手に絡ませて受け止めた時――その右手のウロコが鮮血とともに弾け飛んだ時、ドゥールは動けなくなった。

 一瞬にも満たない刹那の間、水竜の親子は世界が止まったように感じられたに違いない。


「馬鹿息子が」


 ドゥールが見開いた青い瞳には、父が振り上げた左手にあるが映った。


「はは……そっか、そうだよな。かなうわけ、なかったよな」


 氷刃のディランの刃は八振り――誰が言い始めたのかも定かではない話を、ドゥールは信じきっていた。

 竜族は、その秘術を秘め隠す。ドゥール自身もその例に漏れず、親友のニコラスにも秘術の全容を見せていないというのに、彼は父のことを信じきっていた。

 そして、これから先も――


 振り下ろした刃を、目を閉じその背に受けた息子の体から力が抜ける。

 右手に絡まった縄が主の力を失い霧散する前に、ディランは凍らせた。

 息子の体が隠れ家としていた小屋を押しつぶさないように、彼は抱きかかえる。


「重いな」


 ディランは、その小屋の存在を知っていた。ずっと以前から。

 この小屋を隠れ家にして、息子がどんな冒険をしてきたのか、知っていた。その笑顔を、絆を断ち切ってしまったあの表情かおで曇らせまいと、見守ってきた。


 深く長い息を吐いて、木立の上にたたずむ小ロイドを振り返った。

 少年の姿の風竜族の長は、つまらなそうに鼻を鳴らした。


「どうせ、灰色仮面のお気に入りの花嫁の居所も知らんじゃろ。さっさと、枷をはめて、火竜どもから守ってやるんじゃな」


「言われなくとも」


 吹き抜ける風とともに小ロイドが去ったのを、ディランはウロコで感じた。

 本来ならば、鉄枷をはめたドゥールを竜の森の檻に閉じ込めるまで、見届けなくてはならないはずだというのに。

 他者に振り回されることを嫌う風竜らしいといえば、それまでだが、ディランはその気遣いに自然と頭が下がった。



 星辰の湖が茜色に染まる頃、多くの同族が見守る中、ディランは明け星の館に戻ってきた。

 絡め取り凍らせた右手の縄は跡形もなくなっていたが、剥がれたウロコの傷はまだ癒えていない。

 館の前の湖面に降り立った彼を、ナターシャは廊下の手すりから身を乗り出して出迎えた。


「終ったかい?」


「とりあえずは、ね」


 遠巻きに彼が戻ってきたのを見守っていた若い水竜たちの中には、落胆の色を隠せなかった者も多い。

 最恐の水竜と恐れられていたディランに対立する意思を示してきたドゥールは、多くの若い水竜たちから慕われていた。

 だから、いくら竜の森で守り育ててきた姫さまの情報を外部にもらしたとしても、彼が鉄枷をはめさせられるようなことを避けたかった者は、少なくなかったのだ。


 息子を慕っている若いものたちを納得させられるようなことを、この場で言うべきだっただろうが、ディランは何も言わずに、人間の姿へと変化して館の奥に行ってしまった。


 傷の手当をしてくれたナターシャに、ディランはため息をつく。


「いいんだよ、これで。ナターシャ、俺は所詮、大おじいさまの影だ。長として、どうかと思われるくらいが、次の長がやりやすいだろうよ」


 ナターシャは包帯をきつく縛り上げながら、鼻で笑う。


「もう投げ出すのかい? 誰も承知しないよ。やることはしっかりやりきってから、そういうことは言うもんだよ。いいかい? 今日のところはこの傷のせいにしておくけど、明日にはちゃんと若い連中を納得させるんだ」


 いいねと強く念を押す妻に、ディランは痛そうに顔を歪ませながらも、首を縦に振った。


「ところでナターシャ。メアリーとブライアンは、もう夕食をすませたのかな?」


 ドゥールが行方をくらませてから、明け星の館で守ろうと決めた嫁と孫を、ディランは息子に対する後ろめたさや気遣いやらで、一つ屋根の下にいながら避け続けてきた。

 そんな夫が話がしたいと言った時には、ナターシャはこれでもかと目を見張り、続いた言葉に呆れるしかなかった。


「二人とも、俺を憎んでいるかもしれない。いや、馬鹿息子のことも、もしかしたら……向き合うべきだと思ってね。それに馬鹿息子のことをよく知らない。……いや、ナターシャの知らないことだってあるだろうし、その、な……あいつの好きな食べ物くらいは、知っておきたいんだ」


 ナターシャは、もちろん息子の好物くらい知っていたが、あえて自分の口から言うこともないだろうと肩をすくめた。


「好きにしなよ。あんたはライオスさまの影じゃない。長なんだ。湖が曇るようなしこりを、もう増やすんじゃないよ」


「もちろんだよ、ナターシャ。……姫さまのためにも、船頭の息子のためにも」


 西日が差し込む一室で、ディランは最大のしこりとなりゆる船頭の息子の身を案じずにはいられなかったかもしれない。




 ――


 冬の中月7日。

 俺とニール、マギーの三人は、オーナ大隧道を出て、山脈の裾野に広がる田園風景の向こうで茜色に染まった大河の美しさに圧倒されていた。

 茜色に染まったゼラス大河は、他ならぬ星辰の湖を水源としている。

 そして、その大河の流れの先には、橋の街モーガルがある。


「きれい……ここからじゃ、モーガルは見えないみたいね」


「そうだな、マギー」


 そう、この冬の終わりに世界を大きく揺るがすこととなる橋の街モーガルが、俺たちを待っていた。

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