約束

 また、右足が痛む。

 夕暮れ前に果樹園の中で見つけた納屋の中で、俺は傷跡すら残ってない右足をさする。


「ぅん……」


 奥に積まれた藁の上で丸くなっていたマギーが、寝返りをうつ。


「ぁんのバカ……ぶっとば……す」


 どうやら、寝言らしい。

 ほっと息をつくと同時に、口元が緩んでしまう。

 おそらく、夢の中でも花婿の火竜を追いかけていることだろう。


 足元で弱々しく光る光石ランプは、その役割を壁板の隙間から差し込んでくる月明かりに奪われている。

 今夜は、銀のシャール月も黄のムスル月も、明るく夜の世界を照らしてくれていた。

 ニールは、しばらく前に用を足しにくと言って出て行ったきり、戻ってこない。彼も、たまには一人になりたい時もあるだろう。

 意外なことに、俺たちがマギーを神殿に届けてから、まだ二日もたっていない。

 そう、今日はまだ冬の中月2日。

 大陸最南端の港町リュックベンの波止場に上陸したのは、昨日の夜明け前。

 神殿の前でマギーと別れ、ニールとフィオナ・ガードナーの手がかりを求めてパン屋におもむいて、それから、それから――

 どう考えても、多くのことが一度に起こりすぎた。


「あの小娘が、フィオナ・ガードナーとわかっていれば……」


 左目の眼帯を撫でながら、唇を噛む。


 すんだことと言ってしまえばそれまでなのだが、あの時つかまえることができたならと、考えてしまう。


 口の中に、じわりと血の味が広がる。


 何度目かの寝返りを打ったマギーが、この納屋で聞かせてくれた話を、頭の中で繰り返すのは、これで何度目だろうか。




 ――


 オレンジ色の夕日が壁板に隙間から漏れてくる納屋で、マギーが市庁舎でくすねてきたわずかなパンで空腹をなだめていると、堰を切ったようにマギーは、俺たちと別れたあとのことを話し始めた。

 安全だろうひと気のない納屋を見つけるまで、俺たちは黙々と歩き続けた。その反動か、マギーはこちらが尋ねなくても話したくてしかたなかったようだ。


「実は、神殿で会ったんです」


「誰に?」


「ニールっ、あたしの花婿に決まってるじゃないですか」


「お、おう」


 マギーの顔が赤いのは、おそらく照れているからだろう。

 フィオナ・ガードナーの旅の仲間だと、ドゥールがちらりと言っていたような気もするが、苦労してやって来た港町でいきなり会えたのは、幸運に違いない。


 それにしても、マギーの言葉づかいが随分くだけたものになっている。それだけ、俺たちの距離が縮まったということか。


「神殿で受け付けてくれた人に、火竜族の長に会って、あたしみたいな花嫁を助けてほしいって言ったの。そしたら、すぐに火竜に会わせてくれることになったんだけど、そいつが花婿だったの」


「それは本当か! すごい幸運じゃないか!」


 ニールが我がことのように喜びの声を上げる。だが、マギーの反応は思いもよらないものだった。


「逃げられたってのに、なにが幸運だよ! あー、思い出しただけで、ムカムカしてきたぁあ」


「マギー?」


 突然、マギーの口調が荒々しくなる。


「あいつ、あたしを見た途端にバケモノと出くわしたのかってくらい、逃げ出しやがったんだ。くっそ、腹立つぅううう。あー、あん時、椅子に足引っ掛けなけりゃ……」


 いくら、ひと気のない果樹園とはいえ、大声で喚かれては困る。

 俺とニールが、マギーを怒らせないほうがいいと、あらためて学んだのはこの時だった。

 口調もガラリと変わったマギーを、なだめるのは隣であっけにとられているニールより俺のほうがいいだろう。


「なぁ、マギー。心の準備ができてなかったんだろうよ。竜族ってのは……」


「伴侶として女を受け入れるには、心の準備がいるって何度も聞かされたよ。それこそ、耳にタコだよ」


「……すまん」


 なぜ、俺は頭を下げたのだろう。

 だが、彼女も気がすんだらしく、大きく息を吐きだして肩を落とした。


「ファビアンとニールに怒ってもしかたなかったね」


「で、その後どうしたんだ?」


 今のうちに話を進めようと、ニールが急いで先をうながす。


「市庁舎でクレメントさまに会った」


 さすがに、もうニールは口を挟まない。


 マギーは、市庁舎に行った後のことを、なるべく感情的にならないようにつとめながら、聞かせてくれた。


 水竜族の長ディランの奥方ナターシャの立ち会いのもとで面会が行われたと耳にしたニールの顔が強張ったのは、気のせいではなかったはずだ。

 火竜族の長クレメントは、花嫁を真理派から守ることはすぐに約束したものの、花婿とすぐに合わせられないと言い出したらしい。

 クレメントにしてみれば、その花婿の精神が整うまで待ってほしいと願うのは、当然のことだっただろう。火剣の二つ名を捨て、灰色の仮面をかぶる前から、彼はずっと同族を思いの良き長であった。その同族を思う気持ちが、あの悲劇の原因となったのだが。

 目を閉じなくても、あの日の業火が目の前に蘇る。しかたのないことだったとはいえ、避けられなかったのかと、また自分に問うている俺がいる。後悔ばかり重ねてきた。

 そう長く感傷に浸っていたわけではないが、フッと我に返ったように耳に届いたマギーの声が懐かしく感じられた。


「……それで、ニールのことを話した途端に、ナターシャさまがものすごい剣幕でバカ息子とかなんか言い出して」


「うへぇ」


 ニールが思わずうめく。


「そうこうしてるうちに式典の時間になって、それからはもう……」


 大変だった、と彼女はため息まじりに続ける。

 そもそも、式典そのものが番狂わせだったらしい。


「市庁舎の部屋から、式典を見ていたんだけど、すぐにひどい野次が飛んできたの。真理派に決まってる。そしたら、一枚岩のヘイデンさまの奥方が、その……こんな言い方したくないけど、醜い老婆を連れてきて演説させたの。真理派にひどい目に合わされたって、言ってた」


「その老婆も花嫁だったんだな?」


 俺の問いに、マギーは複雑な顔で首を縦に振る。


「野次もやんだし、涙流す人もいた。けど、あたしは、ずるいって思った。だって、竜族がしっかり守ってくれたら、あんなことにならなかったはずでしょ」


 震えるほど拳を握りしめる資格が、彼女にはある。


「式典の後は、あたしをほったらかして、長たちが揉めだして……」


 彼女のため息が納屋に響く。


「あたしもわけがわからないから、簡単に説明すると、ヘイデンさまがニールの剣をディランさまに突きつけたり、ローワン――あたしの花婿が、姫さまと一緒に先に街を出ていったとか、すごくヤバイってことだけはわかったの。正直、ほったらかしにされてムカついていたのもあって、昨夜遅くに呼び出されてきたドゥールを、ディランさまたちよりも先につかまえて事情を話したの」


 一気に話してくれたが、簡単なことではなかったはずだ。

 そこから先は、ドゥールと二人で俺たちを助けたということになる。


「大変だったんだから。二人ともどこに閉じこめられているのかとか……本当に、大変だったんだから」


「言い尽くせないほど、俺もニールも感謝しているよ」


 それが、俺の嘘偽りのない本心だった。

 マギーの感情が昂ぶってしまったわけも、たとえ言葉にされなくても充分すぎるほど理解できた。


「あたし、何が何でも、あんの失礼な花婿捕まえて、ガツンと言ってやらなきゃ、気がすまないの」


 おそらく俺たちを助けてくれた理由も、その失礼な花婿のことが大きいのだろう。それはそれでかまわない。むしろ、下手な義理や善意だけよりも、よほど好ましい。


「それで、フィオナ・ガードナーとその一行は、どこへ向かったんだ?」


 おそらく、一番したかっただろう質問を、ニールは身を乗り出して尋ねる。

 マギーは、もう一度胸元に手を当てて答えた。


「ブラス聖王国です」


 ニールは、うめきながら天を仰いだ。

 それはそうだろう。どう考えても、追跡は厳しい行き先だったのだから。




 ――


 また、藁の上でマギーが寝返りをうつ。

 眼帯を撫でていた手を離して、ゆっくりと握りしめる。


「なぁ、イサーク。もう二度と、友人は作らないと決めたんだ」


 後にも先にも、たった一人だけの友と決めていた男の快活な笑い声が聞こえてきそうだ。


 それから、ユリウスさまの困りきった声も聞こえてきそうだ。


『世界を望むということは、簡単なことだよ。お前が見たい世界を言葉にすればいいだけなのだから』


 俺にも、望む世界はあった。

 だが、どうしても言葉にできなかった。もし、あの時言葉にすることができたら、こうして置き去りにされることもなかったのだろうか。

 何度も何度も繰り返してきた問いの答えを探すことの虚しさに、決して慣れることはない。


 握っていた手をゆっくりと開く。

 迷うことなど、はじめからなかったのかもしれない。

 とうにわかっていたことだが、臆病者と俺自身を笑ってやりたくてしかたない。


 だが唇を歪める前に、足音を忍ばせながらニールが戻ってきた。


「マギーは……寝てるな」


 起こさないように気をつかいながら、ニールは俺の隣に腰を下ろす。


「なぁ、ファビアン」


 そのまま寝るかと思っていたが、違ったらしい。

 ニールにしては、珍しくためらいがちに続ける。


「ドゥールが言ったからって、俺たちと一緒に来ることはないだろうよ」


「ニール?」


 それはどういうことだ。


「お前だってわかってるだろ。聖王国への追跡が難しいことくらい。だから……」


 ついてこなくていいと、ニールが続けようとしたから軽く頭を小突いた。


「悪いが、ニール。俺も、フィオナ・ガードナーを探している」


「はぁ? あ、わりぃ」


 素っ頓狂な声を出しかけたニールは、すぐに身動ぎしたマギーに謝る。


「どういうことだよ。ファビアン、お前、そんなことひと言も……」


「ああ、言わなかった」


 決して言うこともないと思っていた。


「北のティンガルの宿で、俺をからかったリボン。あの持ち主を探していて、それがフィオナ・ガードナーだったというわけだ」


 何か言おうと口を開いたものの、何を言ったらよいのかわからないといった様子で、ニールは口を閉じる。それが、おかしくてしかない。


「ひどい顔だな、ニール。……マギー、起きているんだろう?」


 背中を向けて丸くなっていたマギーは、ゆっくりと上体を起こした。


「ごめん。盗み聞きするつもりなかったけど……」


「いや。逆に好都合だ。俺から、二人に提案がある」


 一度、眼帯に触れてから大きく息をはく。


「ニールはわかっているだろうが、聖王国への追跡は厳しい。大きな街道だけでも三つもある。真理派を用心して、他の道を選ぶことも充分考えられる」


 何を言い出すのかと不思議そうな顔をする二人に、俺は続ける。


「だから、先を行く姫さまたちを追いかけるのではなく、聖王国の入口となる橋の街に先回りするほうが確実だ」


 そう、西の聖王国と南の都市連盟を隔てるゼラス大河の上にある橋の街モーガル。船で大河を渡るにしても、一度モーガルで許可証を取らなければならない。


 だが、ニールは腕を組み難しい顔で首を横に振った。


「ファビアン。大事なことをお忘れか? 俺たちは、無一文同然だ。どこまで本気で竜の森の連中が俺たちを捕まえようとしているかわからないが、路銀を稼ぎながら、先回りは無理だ。断言してもいい」


 伊達に放浪の皇子と呼ばれているわけではないらしい。


「だな。俺も断言できる。さて、ここからが俺の提案だ。俺は、確実に橋の街に先回りできる道を知っている」


 押し黙って話を聞いていたマギーが、生唾を飲みこんで身を乗り出す。


「そうだな。十日あれば、モーガルだ」


 ニールが低い唸り声を上げた。


「普通に考えて、ひと月はかかるはずだ。それが、十日だと?」


「信じないならそれでかまわない。俺は、一人でモーガルに先回りさせてもらうだけだ」


 いつの間にか、光石ランプの光が消えていたが、壁板から漏れる月明かりのせいで気がつかなかった。


「俺の正体を誰にもバラさないと約束してくれるなら、今は俺だけが知っている抜け道を通ることができる。どうする?」


 ニールがちらりと見やったマギーの琥珀色の瞳には、強い意志が光っていた。

 息を吐き出しながら、ニールは組んでいた腕をほどいた。


「どうやら、俺もマギーもお前を信じるしか選択肢がないらしい」


 苦い笑いを浮かべるニールと、真剣に首を縦に振るマギー。


 眼帯の紐にやった俺の手は、マギーの不思議そうな声に一度止まる。


「でも、ファビアンの正体ってなんなの。まさか、ニールみたいに北の帝国の皇子とかないよね?」


「ない」


 俺とニールの声が重なる。

 それがおかしくて、俺もニールも吹き出してしまった。


「さすがに、それはないな。ニールには地下牢で言っただろう」


 ふさいでない右目を閉じて、眼帯を外す。

 すぐに襲ってきためまいに、目元を手で覆ってしまう。

 このひどいめまいに慣れることは決してないだろう。

 ゆっくりと手を離してまぶたを押し上げると、ニールとマギーは目を見開いて俺を凝視していた。


「世界竜族の生き残りだと、言っただろう」


 弾かれたように首を横に振るニールの目にも、今なら黒い髪と金色こんじきの瞳の俺が映っているはずだ。


 完全にめまいがおさまるのを待ってから、俺は口を開いた。


「世界竜族と約束する時は、心せよ。その約束は、決して破ることはできない。――あらためて尋ねるが、どうする?」


 今、ユリウスさまに世界を望むかと問いかけられれば、俺は間違いなく望むと答えただろう。

 一なる女神さまの導きとしか言いようのない出会いを果たした仲間の二人が、幸せだと喜べる世界を。

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