放浪の皇子
放浪の皇子の噂を聞いたのは、何年前のことだっただろうか。
とにかく数年前から、北の帝国の第五皇家フェッルム家の人間――それも現皇帝ルカの息子――が、単身で各地を旅して回っていると、時おり噂を耳にすることがあった。
千年以上死に損なっている俺ですら、聞いたことのない話だ。
そもそも、帝国人は帝国に生まれ帝国で死ぬことをよしとしている。厳しい北の地で育ったという自尊心のせいなのかどうかはわからないが。
外交貿易等の役目としてでしか、国境をこえたがらない帝国人で、単独で旅をして回るような奴は、たとえ皇子でなくとも噂になったことだろう。
もし、本当に放浪の皇子がいたら、そうとうな変わり者だろうと、噂を聞いた時は思ったものだ。
今、暗い地下牢で険しい顔で俺をにらみつけている彼は、確かに変わり者だった。
怯えるネズミを膝の上におろしてやると、彼はふっと表情を緩める。
「いつから気がついていた」
「ティンガルで、見当はついていた」
そう、俺たちが出会ったあの北の港街。彼の腰に氷鈴がぶら下がっているのを知ってから、見当はついていた。
水竜族が人間と連絡を取るために使う、氷の鈴。それは、水竜族の信頼の証においてほかない。
ひとり旅の帝国人で、なおかつ水竜族とつながりの深い者となれば、どうしても放浪の皇子の名が導かれる。
ひと通り俺の話を聞くと、ニールはうなじをかきながら困ったように笑う。
「ファビアン、一つだけ訂正させてくれ。帝国人だからとって、国を出ないというのは、偏見だ」
「そうか? まぁ、そういうことにしておこうか、ニコラス殿下。話を戻すが、その氷鈴があれば、こんなところに放りこまれずにすんだ。なぜ、割った?」
「ニール。殿下はよしてくれ」
顔をしかめて背中を丸めた彼は、まだ膝の上のネズミを気味悪そうに見る。
「お前、本当に謎だよな。ただの旅人が氷鈴なんて知らんだろうが」
「謎は謎のままにしておいたほうが、お前のためだ」
俺が片方の唇の端を吊り上げると、彼はわざとらしく腕を抱えて震え上がった。
「おー、怖い怖い。まぁ、こんなところで喧嘩してもしかたないな。俺は、今のところ、お前がいい奴だって信じてるしな」
「いい奴、か」
ネズミがニールに同意するように、膝頭に頭をこすりつけてくる。ずっと気味悪がっていた彼も、ネズミの可愛い鳴き声に、気を許し始めているようだ。
「俺の正体がバレているなら、すぐにわかるだろうが、あの氷鈴の持ち主はドゥールさ」
「人間びいきの?」
「ああ。ドゥールには、俺が子どもの頃からよくしてもらっている。こうしてあちこち歩いて回っていられるのも、ドゥールが父を説得してくれたおかげさ」
どことなく元気のない様子で、ニールはゆっくりと話し始める。
「ドゥールのやつが俺に面白おかしく帝国の外の話を聞かせてくれるから、この目で確かめたくなってさ。まぁ、あいつの説得とかいろいろあって、六年前の二十歳の時に国を出たわけ」
もしかしたら、ニールも投獄されるのは初めてではないかもしれない。
地下牢で、胡座をかいて背中を丸めて体を楽にしようなど、なかなかできるものではないだろう。
「一年か、一年半に一度くらいは、帰国しては放浪してたんだけど、去年の春、結婚して帝国で腰を据えることにしたのさ」
「……去年の春?」
「俺が帝都に帰還したのは、去年の春の
千年以上生きた老竜ライオスの訃報のせいで、慌ただしく数日を過ごしたと、ニールは言った。さすがに、星辰の湖までおもむくことはかなわなかったものの、偉大な水竜の訃報を無視できなかったのだろう。
結局、彼が許嫁のいるレノヴァ家に赴いたのは、ひと月半以上たってからだった。
「俺も、先にターニャのことを聞いておけばよかったのだ」
「ターニャ?」
どこかで聞いたことがある。珍しい名ではないはずだが、なぜか引っかかっる。
ニールが、どんなに素晴らしい許嫁かという熱弁を適当に聞き流しながら、眼帯に触れて思案にふける。
「おわかりか? 俺の愛しのターニャが、いなかったのだ。あの美しくて強い俺の婚約者が、いなかったのだ」
「お前が嫌だったのだろう?」
「いいや、そんなはずはない。ターニャも俺を愛してくれている。間違いない。お前のような奴にはわからんだろうが、俺とターニャはたとえ離れていても、心はつながっているのだ」
「……」
言い返したいことは山のようにあった。それらを、すべて飲みこむのにどれほど苦労したことか。
「そんな彼女が、俺にひと言も断りもなくいなくなったのだ。レノヴァ家の奴らも、父も何も教えてくれない。そのうち帰ってくるの一点張り。どうかしている。そこで俺は、竜族が関わっているのではないかと考えた」
婚約者の親戚が今の水竜族の長である氷刃のディランの奥方だと、彼は得意げに語る。
「すぐにドゥールとも連絡を取ろうとしたが、ライオスさまがお亡くなりになって、星辰の湖も慌ただしかったらしい。愛しい人の手がかり一つつかめないまま、半年ほどたった」
その半年の間に、家出するように帰国したばかりの祖国を出ていたという。
帝位継承権のある皇子をほったらかしにしておく帝国にも、問題があるだろう。
だが、あの皇帝なら好き勝手させる気がする。たとえ、息子がどうなろうと、その責任を負うのは息子だと割り切ってしまう。昔から、現皇帝はそういう男だった。
「やっと、ドゥールから聞き出した手がかりが、この街のパン屋にいるフィオナ・ガードナーの名前だったわけさ」
リュックベンの入浴施設建設計画を知ったのは、そのついでだったらしい。
俺はようやく、ターニャという名前に感じた引っかかりの正体に気がついた。
「……そうか、そういうことか」
「何か言ったか?」
「いや、なんでもない」
そうだ。
俺が名無しにすら置いてけぼりにされたあの夜。世界の中心の塔に現れた一行の中に、帝国の女もいた。そう言われてみれば、ターニャと呼ばれていたような気がしてきた。
眼帯をなでていた指を離した俺は、心の底からニールと出会えたことを一なる女神さまに感謝した。
「そのフィオナ・ガードナーって
「竜の森で育てられた子ども?」
そういえば、そんなことを言っていたな。すっかり忘れていたが。
「ニール、他にあの小娘について知っていることは?」
「……ファビアン、なぜそこまでフィオナ・ガードナーのことを知りたがる?」
さすがに、ニールも怪訝な顔をして口を閉ざす。
チチッと不安そうに鳴くネズミをひとなでして、再び耳につく外の苦痛の声を打ち消すようにと口を開いた。
「世界竜族の生き残りだから」
「は?」
「お前が言っただろう。フィオナという娘が、古の竜族の花嫁じゃないかと」
「あ、え? は? うぇ……」
ニールのうろたえぶりがおかしくてしかたない。思わず声に出して笑ってしまった。
笑う俺に、彼は顔を歪めて舌打ちをする。
「なんだよ、からかうなよ。ほんのちょっとだけ信じそうになったよ。だよなぁ、古の竜族は、黒髪に
「さあな。なぜお前が信じそうになったのかは、知らん。俺はな、ニール」
ふうっと息をついてから、俺は続けた。
「天涯孤独の身なんだよ。生まれてすぐに、森に捨てられ、育ての親は狼。だから、行くあてもなければ、目的もない。面白そうなことがあれば、見過ごす手はあるまいよ」
「ファビアン、お前ってやつはぁ……」
声が震えていると思ったら、ニールが両腕を広げてせまってくる。
「おいっ」
狭い牢獄では逃げ場所などなく、力いっぱい抱きしめられることになった。膝の上にいたネズミは慌てて俺の袖の中に避難してくる。
「俺が悪かった。そんな辛い話させて悪かった」
「……」
馬鹿なのか。
前から思っていたが、ニールは情にほだされやすい。マギーの時もそうだった。
嘘はついていないから良心は痛まないが、暑苦しい。
すぐに俺を解放してくれた彼の目元に光るものは、見なかったことにする。
「ニール。それで、ドゥールから婚約者と一緒にいるフィオナ・ガードナーを探しにここまで来たのはわかった。だが、氷鈴を割る理由がわからない」
「ああ、それな。ドゥールの奴が親父さんと仲が悪いからだよ。今回もドゥールは親父さんに内緒で俺にターニャの居所を教えてくれたんだ」
「人間かぶれのドゥールの父となると、氷刃のディランか……」
「そ、水竜族の長で最恐の氷刃のディラン。俺、たぶん、このままだと明日には、あのおっかない方の前に引き出されるんだろうな。あー、想像しただけで寒気がする」
とは言うものの、ニールが氷刃のディランを怒らせたのは、これが初めてのことではなさそうだ。その言葉には、恐れというよりも、諦めの響きが色濃い。
確かに、氷刃のディランは水竜族でもっとも恐ろしい竜と恐れられている。とはいえ、若き日の流星のライオスほどではないが。
「それはつまり、やばいってことじゃないのか?」
「ようやく、おわかりか? ファビアン殿」
ニールがおどけてみせたのは、どうしようもない状況での、せいいっぱいの強がりだっただろう。
おそらく今日明日中にでも、この地下牢よりもまずい状況に俺たちは陥ることになるのだ。
気を紛らわせるためだろうか、彼は暗い天井を見上げてボヤく。
「そういや、マギーはどうしてるだろうな」
「さぁな。火竜族の長と面会ができたなら、俺たちが心配するようなことはないだろうよ」
それもそうかとニールは視線を落とす。どうしようもない現実からは、そう簡単に逃れられるはずもない。
袖口から顔を出したネズミが、そのまま腕をつたって肩まで登ってくる。可愛い奴め。
フィオナ・ガードナーが俺の花嫁という話は、単なる噂だとしても、竜の森で育てられた娘というのは、確かに気になる。
名無しが探せと言ったのも、そこに理由があるのかもしれない。
ユリウスさまの待つ楽園で憩うためにも、なんとしても世界の終焉だけは防がなくてはならない。
こんなところで、いつまでもじっとしているわけにはいかない。
ニールには悪いが、今すぐにでも俺は――
かすかに甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
「っ!」
と、ネズミが肩から落ちる。
「ニール、息を止めろっ」
「え?」
戸惑う表情を見せたものの、ニールはすぐに厳しい表情で口元に手をやった。
俺たちが息を殺す地下牢に響いていた苦悶の声が、小さくなっていく。
不気味なまでに静まり返った地下で、俺とニールは目を合わせた。
拾い上げたネズミは、すやすやと眠っている。
いったい、何が起こっているというのか。
息を殺した緊張感は、時の流れの感覚を狂わせる。
耳が痛いほど張り詰めた静寂の中に、足音が聞こえてくるまで、どれほどの間があったのだろうか。
ニールと目を合わせて、近づいてくる足音は、おそらく一人分。
様子をうかがっているのか、何かを探しているのか、何度も足を止めながら近づいてくる足音。
いよいよ俺たちの番かとニールとうなずきあって、鉄の扉に目をやったその時だった。
「くっ!」
光が俺たちの目を焼いた。
鉄扉には中の様子をうかがう覗き窓があった。頼りない光石ランプの灯りのせいで気がつかなかったし、突然の眩しい光に止めていた息を吸ってしまう。しかし、甘い匂いはしなかった。
覗き窓はすぐに閉じられた音がしたかと思うと、ガチャガチャと乱暴な音がして頑丈そうな鉄の扉が開かれた。
「ドゥールっ! ドゥールじゃないか」
ニールが驚きと歓喜の声を上げる。
光に目が慣れた俺が見たのは、靄の外套を羽織った水竜の青年と抱擁を交わすニールの姿だった。
短い時間ではあったが、二人はしっかりと再会の喜びを分かちあった。
先に抱擁をといたドゥールは、帝国人の母の血を色濃く継いだせいか、その細身な体にしなやかな強さを備えていた。
「久しぶりだな、ニコラス。お前のための気つけ薬が無駄になったが、まあいい……」
浮かべていた喜びの表情から、厳しいそれへと変えて、ドゥールはニールの両肩に手を置いた。
「ニコラス、時間がない。今すぐに、この街から脱出するんだ」
やはり、氷刃のディランの息子ドゥールはまっとうな手段でニールを迎えに来たわけではないらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます