第四部 追い求め続けること

第一章 港町からの脱出

地下牢

 ノアン大陸の北の地を支配するカヴァレリースト帝国は、始まりの女王リアが開いたブラス聖王国についで、歴史ある国だとされている。

 この通説は、誤りである。なぜなら、国として機能したのは、東の小国群の一つ、リャハン公国よりも後のことだからだ。

 北の地は、人間たちには厳しい環境だった。

 おそらく、一なる女神さまがこの地に降り立つより前の上古の時代には、厳しい北の地は人間でも竜族でもない失われた種族が支配していたのではないだろうか。

 豪胆な男たちが、女王が治める聖王国と袂を分かち、未開の地の開拓という試練に挑んだ理由は、今となってはわからない。

 帝国人に言わせれば、誉れというものらしい。

 我々竜族は、野心と呼ぶべきだ。

 なぜなら、嘆きの夜より続く混乱の時代。暴君イサーク帝が大陸統一を掲げ、西の聖王国はもちろん、よき隣人であったはずの星辰の湖にまで、侵略せんとしたのだから。

 暴君の野望は、聖王国と水竜族によって阻まれた。


 その時、暴君イサーク帝が聖王国への侵略の拠点としていた国境近くの城塞があった。


 今では、呪われた地として『灰霧城塞はいぎりじょうさい』と呼ばれるセルトヴァ城塞は、正気を失った暴君が自ら命を絶った時より、深い霧に閉ざされている。

 暴君の呪いともいわれる深い霧は、人間はもちろん、竜族すら城塞にたどり着くことを許さない。


 しかしながら、わたしはこの霧が、暴君の呪いだとはとても考えられない。


 なぜならセルトヴァ城塞は、時の竜王によって与えられたものだからだ。


 自由の民と称するならず者たちから帝国を守るために、与えられた守りの城塞を、侵略の拠点としたがために、誰も近づくことができなくなったのではないかと、考えたほうが自然ではないか。

 少なくとも、あの灰色の霧を間近で見ても、呪いと呼ばれるような負の気配を感じないのだ。


 『ある地竜の手記』より




 ―――


 俺は、その男のことを好ましく思っていた。世間が彼をどう言おうが、俺は彼の理解者だった。もっとも、俺が理解者だったと信じたいだけかもしれないが。

 彼が今際の際に、俺を呼んでくれたのは、信頼してくれたからだと、信じていたい。

 間もなく日が沈むという宵闇せまる頃、身を切るような風が容赦なく吹きつける城壁の上で、彼は待っていた。


「本当に来てくれるとはな」


「約束、しただろう」


 そうだったなと笑ってくれるが、以前のような自信に満ち溢れた力強さはない。

 彼は、年老いた。

 大陸統一を誇らしげに掲げたあの時から、もう三十年ほどたつ。年老いて当然だろうが、俺は彼の姿に胸を締めつけられた。


「俺らしい最期だとは思わないか?」


 眼下に広がる平原を見るまでもない。

 彼は負けたのだ。


「俺が、力になれたらよかったのだが……」


 つきあげてくる自責の念は、どんなに言葉にして吐き出したところで、この胸のうちにおりとなって俺をさいなみ続けるだろう。


「しかたないだろう。俺に力がなかっただけだ。なぁ、ファビアン……」


 頼みがあると、眼下の惨状から目をそらすことなく、彼は続けた。


 理解者であったと信じたかった俺が、彼の望みをきかないわけにはいかなかった。


 あいかわらず、身を切るような冷たい風が吹きつけている。




 また、昔の夢を見た。つまり、最悪な夢だったということだ。

 そして、目が覚めても、最悪だった。


 できれば、目の前の状況も夢だったらよかったのにと、頭のどこかで考えてしまう。


 豆袋を吊るしてある腰に手をやって、舌打ちをする。


「……最悪、だな」


 そういえば、この地下牢に放りこまれる前に、取り上げられた。

 豆袋だけではない。愛着のある袋も、毛皮のコートも、取り上げられている。取り上げられずにすんだのは、眼帯と擦り切れた服くらいだ。

 湿り気のある土壁から背中を引き剥がして、冷たい土の床に投げ出していた両足のうち片方の膝を抱える。

 穴ぐら特有の臭いが鼻につく。


「ん、つぅ……」


 うめき声とともに、誰かが身動ぎするのを肌で感じた。ニールだ。


 ようやくはっきりしてきた頭で、周囲を確認すれば、やはり三方を土壁に囲まれた穴のような地下牢だった。俺達の正面にある残りの一方には、鉄の扉がはめ込まれている。

 灯りは、ちょうど俺が背中を預けていた土壁の高いところにはめこまれていた光石ランプただ一つ。しかし、頻繁に太陽の光を蓄えていなかったせいか、あまりにも頼りない灯りだ。

 外からは、かすかに苦痛の声が聞こえてくる。

 おそらく、拷問でも行われているのだろう。

 不愉快極まりないが、地下牢に放りこまれただけですんでよしとする。


 真理派との交戦のさなかに、火竜の若造が無礼なクソガキを連れ去った後、まるで計算されていたようなタイミングで、真理派でも自警団でもない武装した集団に囲まれた。

 抵抗してもよかったのだが、おとなしくしたほうが賢明だというもの。俺一人なら迷うことなく逃げたが、ニールがいた。彼が、俺が考えているとおりの人物なら、真理派どもと同じ扱いは受けないはずだ。

 その予想は、半分当たり、半分外れた。


 それにしても、真理派はなぜあの二人を襲ったのか。

 小僧だとばかり思ってたが、あの茶色のコートのクソガキは、小娘だった。少年のようななりをしていたのは、真理派の目を欺こうとしたからではないか。そういえば、あのパン屋のふざけた女が接触していた。

 あの火竜は、小娘をなんと呼んでいただろうか。聞いていたはずだ。

 そう、確か飛び指す直前に――


「フィオ、そう呼んでいたな。あの小娘がフィオナ・ガードナー? まさか、な」


 眼帯をなでながら思案にふけっていると、部屋の隅から、小さなネズミが駆け寄ってきた。


「お前は、ここに住んでいるのか?」


 立てたほうの膝頭まで登ってきたネズミを撫でながら、小声で尋ねてみる。きっと、俺の口元は緩んでいることだろう。

 ネズミの短い鳴き声で、ニールが目を覚ましたようだ。


「ぅん? ここは……どこ、だ?」


 この地下牢に放り込まれた時に強く打った頭がまだ痛むようだ。


「お目覚めのようだな」


「いってぇ、ああ、お前も一緒だったな」


 頭をおさえながら横目で俺を見やって、ニールは落胆とも安堵ともとれるため息をついた。

 チチッと、ネズミがもっと撫でろと催促してきた。

 ニールは、俺がかわいがっているネズミに気がついたようで、うへっと顔をしかめる。


「ファビアン、お前、動物ならなんでもいいのかよ」


「どういう意味だ?」


「いや、なんでもない」


 乱れた背中の三つ編みに触れながら、ニールは俺から少し距離を置いて、胡座をかく。

 どういう意味だと尋ねたが、気味悪がっているのは、よくわかる。

 相手が、犬や猫、鳥たちなら、すごいと言っていたのに、ネズミとなるとたちまちこれだ。なにも、ニールだけに限った反応ではないが、面白くない。


「ネズミでも、今が昼か夜か、外に見張りがどれだけいるか教えてくれる。今は昼前だそうだ。ほら、少なくとも今のお前よりは役に立つ」


「言ってくれるねぇ」


 そもそも、ニールがあの時、真理派と一緒に捕らえられそうになった時に、彼自身の素性を明かしていれば、こんな場所に放りこまれずにすんだはずだ。俺が考えている人物ならば、だが。


 結局、俺たちが真理派と同じようなあつかいを受けなかったのは、傭兵たちが俺たちが真理派とやりあっているのを見ていたからだ。そう、あれは金で集められた傭兵だった。それでも、素性が知れないと、ここに放りこまれたわけだから、いつ、どんな疑いをかけられてもおかしくない状況ではある。

 光石ランプのない左右の壁には、頑丈な錆びついた枷が鎖で繋ぎとめられている。なにに使われるかは、想像もしたくない。

 ニールも、その禍々しい存在に気がついていたらしい。頼りない灯りでも、肌で感じて伝わるほどに、険しい表情をしている。

 チチッと気持ちよさそうなネズミの鳴き声に顔を緩めている俺にも、ニールはいらついていたのかもしれない。


「それで、どうする?」


「どうするって、何を? おわかりか、ファビアン殿。俺たちは今、牢獄に閉じこめられている。どうにかしたかったら、あの時、抵抗すればよかったのではないか?」


 どうやら芝居がかった物言いをするのは、彼に自信があるときだけではなかったようだ。その胸のうちに渦巻く激情を露わにしまいとしているのが、よくわかった。


 まったくもって、ニールの言うとおりだ。

 俺も、ニールも、行動をともにする義理は、初めからないのだ。できすぎた偶然だったフィオナ・ガードナーのことも、世界竜の花嫁ではないかと質の悪い冗談を言う。

 マギーを神殿に届けた段階で、縁は切れていた。

 チチッと鳴くネズミを撫でながら、慎重に言葉を選んだ。


「抵抗するよりもおとなしく従ったほうがいいときもある」


 ため息を一つついて、ネズミを両手で包みこみながら続ける。


「お前が腰にぶら下げていた氷鈴ひょうりんがあれば、こんなことにはならないと計算していた。……と、言えばわかるだろう」


「お前っ……」


 唇を歪ませて俺をにらんできたニールは、拘束される直前にこっそりと氷鈴を地面に叩きつけて割ったのだ。水竜族と縁のある人間だと証明できる氷鈴があれば、こんなところに、放りこまれずにすんだのだ。

 チチッと不安そうに鳴くネズミに大丈夫だと、笑いかける。


「ニール……いや、ニコラス殿下。俺はお前が噂の放浪の皇子だとばかり思ってたんだが?」


 狭い地下牢を支配した張り詰めた沈黙に、手の中のネズミが震える。


 やはり、この男は俺が考えていた通りの人物だった。

 そう、北のカヴァレリースト帝国第四皇子ニコラス・ルキーチ・フェッルムだ。

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