港町遁走曲 〜前奏〜

 ハイドは息を呑んだ。


「どう、かしら。ベンは美しいって言ってくれたけど、彼、いつもそう言ってくれるから、あてにならないのよね」


 プリシラは無垢な少女のように、恥じらっている。

 たとえ醜い姿になろうと、彼女の内側はあの頃からほとんど成長していない。それがよいことかと問われれば、ハイドは迷うことなく首を横に振るだろう。

 けれども確かに、卑劣な連中がどんなに貶め辱めようとも、プリシラという魂は美しかった。もっとも、一度は壊れかけた彼女を諦めなかったベンという存在も欠かすことはできないが。


 なにがともあれ、ハイドは口元に優しい笑みを刻んでいた。


「ああ、美しいよ。プリシラ、今日という日を、ベンと一緒にいさせてあげられなくて本当に……」


「いいの。ベンは、ちゃんとわかってくれたから」


 リュックベンの花嫁衣装に似せて誂えさせたドレスは、下手をすれば醜さだけを引き立たせる可能性もあったが、ハイドが信頼する針子はそんな失敗しなかった。


 窓際の椅子に座る彼女の手をとり、ハイドはうやうやしく口づけた。うやうやしく、心からの敬愛をこめて。


「行こうか、プリシラ。あなたの命を価値のあるものにするために」


 彼女とベンの奪われた幸せのためにも、ハイドに失敗は許されない。




 ――


 俺とニールが神殿に戻った時には、マーガレットはいなかった。散々歩き回って手に入れた魚の串焼きを頬張りながら、目抜き通りを広場に向かって歩いている。別に式典が見たいわけではない。夜明け前でもあれだけの人がいたのだから、今さら行ったところで、広場に近づくことすらできないだろう。

 市庁舎も明日以降のほうが無難だと神殿で言われている。このお祭り騒ぎだ。無理もない。


 特にあてがあるわけではないから、転がる小石のように坂道を下っているだけのこと。


「今夜の宿は諦めたほうがよさそうだな」


「……だな」


 ニールはどこか心あらずといった感じだ。今も現に、子どもにぶつかりそうになっている。


「なぁ、ここで解散しないか。このひと月、苦楽を共にした友と別れるのは辛いが、マーガレット嬢も無事に火竜族の長とお目通りがかなった今、一緒にいる理由がない」


 マーガレットが市庁舎にいるということは、一番安全な場所にいるということだ。


 それにしても、強引に仲間と決めつけてきた本人が言うのか。

 今朝までの俺なら、是非もなくニールと縁を切ることができただろうが、今の俺にその選択肢はない。


「せめて、昼メシくらい奢らせてくれ。それから解散としよう」


 このひと月で、ニールがどんな奴かある程度学んだつもりだ。たとえば、金に余裕がるのに奢るという言葉に弱いところとか。


「いいね、いいね。さすが、ファビアン殿、お別れにパーッとやろうぜ」


「……ああ」


 もしかしたら、昼食から夕食、下手したら明日の朝まで付き合わされそうだ。

 それでも、フィオナ・ガードナーの情報が手に入るなら付き合うのも悪くない。


 俺たちがやってきたのは、魚の串焼きや煎り豆を手に入れた食堂だった。広場に近いこともあってか、店の中は客でいっぱいだ。想定内ではあったが。

 多めに食べるものを手に入れて、目抜き通りに腰を下ろす。

 普段のリュックベンなら白い目で見られそうだが、今日みたいな日は俺たちの他にも座り込んでいる人間はたくさんいた。朝から何度も見回りの奴らと、口論を繰り広げている光景を目にしている。


「それで、フィオナって娘は何者だ?」


「あー、さっきのあれかぁ」


 あれほど食い下がっていたというのに、ニールの反応はそっけない。


「実は俺もよく知らない」


「は?」


 焼肉を挟んだパンを頬張りながら、ニールは言葉を選んでいたようだ。


「いや、俺はそのフィオナって娘に用があるってわけじゃないんだ。彼女と一緒にいる知り合いに会いたくてさ」


「それじゃ、フィオナって娘については何も知らないのか?」


「……ファビアン殿には珍しく、食い下がってくるじゃないか」


 今度は俺が返事に困った。

 俺の正体をばらさずになんて説明すればいいのか、わからない。

 しばらく行き交う人々を所在なく眺めていると、ニールの方から大きな声じゃ言えないと顔を寄せてきた。


「大きな声じゃ言えないし、確かな話じゃないが、そのフィオナって娘、古の竜族の花嫁じゃないかって噂なら聞いたことある」


「………………ないな」


 古の竜族は、世界竜族。今現在、この世界に世界竜族は俺だけ。

 つまり、俺の花嫁。


「ありえないだろ!」


「いきなり大きな声を出すなって。噂だ噂。けどよ、フィオナって子が、竜の森で育てられたってことは、間違いないんだ」


「……なんて噂だ」


 噂とはいえ、生き残りがいるのではと探されることは、充分にありえる。

 この千年間。名無しに腹を立てながらも、世界の終焉を先延ばしにしてきた俺の存在がバレる。

 非常に困る。


 俺に花嫁がいるなら、とうに出会って結婚しているだろう。それが、千年だ。今さらありえない。


 少し考えれば、デマカセだとわかりそうなものだ。だが、噂というものはそんなものかもしれない。


「で、ファビアンはこれからどうする? 入浴施設の計画に加わるのか?」


「解散と言ってたくせに、気になるのか?」


「まぁな」


 自分から解散すると言ってたのに、ニールはまだ俺のことを気にしている。

 騒々しい上に馴れ馴れしい。今でも、ニールはそういうやつだと思ってる。それだけではないことも。


 ただし、深く関わるのは禁物だ。ろくな目に合わない。


 手にしていた焼き魚の串をもてあそんで適当な言葉を探していると、見覚えのある人影が通りの向こうの路地から目抜き通りに出てきた。


「あん時のクソガキっ」


 今朝、俺の豆を台無しにしてくれたクソガキに間違いない。


「おい、ファビアン、よせって、大人げな……あれはさっきの」


 立ち上がった俺の袖を引いていたニールの手が止まる。

 クソガキと茶色の外套の男の元に駆け寄ってきた女の赤い頭巾に、見覚えがあったからだ。

 通りを行き交う人の数が減っていたのは、式典が間もなく始まるからだろう。


 ニールと目配せして、様子をうかがう。

 身振り手振りしながら話しかける赤い頭巾の女は、やはりあのパン屋で俺を馬鹿にした奴に違いない。


「そうとう興奮してるなぁ」


 言葉こそは他人事のようだが、その表情は真剣そのものだ。


 しばらくして、通りの向こうの三人は再び路地の奥に姿を消した。

 俺とニールはうなずき合い、通りの人混みをかき分けながら目抜き通りを渡る。


 半分くらい進んだところで、明らかに荒事に慣れている輩が十人ばかりクソガキたちが奥に向かった路地に入っていく。

 真冬だというのに袖なしの胴衣を来た筋骨たくましい男の二の腕に、見覚えのある入れ墨があった。


「真理派、だな」


 ニールが気に入らないと鼻を鳴らして、足を速める。


「おい、ニー……ちっ」


 厄介事はごめんだというのに、俺はニールと並んで路地を走る。




 ――


 真理派を追って路地に駆け込んだ俺たちの背中を、じっと見つめていた人影があった。

 左の手首から先がない彼は、少し迷ったようだがすぐに別の路地に駆け込んだ。だが、そう長くは走らない。目抜き通りほどではないが、広い通りに止まっていた幌馬車の荷台にもぐりこんだのだ。


「旦那、計画通り嬢ちゃんたちを犬が追い立ててますッス」


「では、僕たちも始めようか。ポイント2に向かってくれ」


 動き出した馬車の荷台で、ベンはずっと耳たぶをいじっている。


「いいんスか? プリシラさん、かなりヤバイんスよね。こんなところにいて……。オイラたちにまかせてくだ……」


「ありがとう。でも、これでいいんだ。昨夜のような想定外に遭遇したら、どうするんだい?」


「……そうッスね」


 昨夜の想定外はよほどのことだったのだろうか、少年はきまり悪そうに笑って、不意に唇を引き結んだ。


「あ、想定外で思い出したッス。犬の後から、さっきパン屋に押しかけてきた例の連中が追いかけていきましたッス」


「はぁ。……ほらみろ、こういう日は想定外ばかりだ」


 だからこそ楽しむ価値があるとベンは笑うが、どことなく哀しげで疲れているように見えたのは、薄暗かったせいだろうか。

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