港町協奏曲

 朝刻の鐘が市庁舎から聞こえてくる。


 俺とニールは朝食を調達するために、目抜き通りを市庁舎に向かって歩いていた。

 マーガレットはずっとソワソワしていたが、受け付けの若者から番号札を受け取ると、いくらか落ち着いたようだ。

 もう一人で大丈夫だと言って、彼女は俺たちを買い出しに行かせた。


「しかし、すごい人だなぁ」


 ひょいひょいとニールが人を避けながら歩くと、金色の長い三つ編みが踊る。

 二日前におおやけに発表されたというが、そうでなかったらもっと人が集まっていただろう。


「俺が行きに目星をつけておいて正解だったろう? こんな人が多くてはのんびり探すこともままならない」


「まぁな」


 ニールが目星をつけたパン屋。

 ガードナーベーカリー。


 はたして、名無しが探せと言った小娘の手がかりを得ることができるだろうか。

 もし得られなかったら――いや、考えるのはよそう。

 どちらにせよ、この街で起きていることを見守らなければならない。

 世界の終焉を先延ばしにするためにも。


 とりとめのないことを考えるていると、自然と腰の豆袋に手が伸びる。

 昔からやめられない癖だが――


「……っ」


 俺とニールの間に無理やり割り込んできたガキにぶつかった拍子に、パラパラと豆がこぼれていく。


「おい、クソガキっ、何しやがる」


 振り返って呼び止めるが、茶色いコートを着たクソガキは人混みの中に紛れ込んでいった。


「諦めろ、ファビアン。それより、メシだろ。メシ」


「くっそ、次、見かけたらただじゃすまさないからな」


 豆袋を空っぽにされてはらわたが煮えくり返っているというのに、ニールは楽しそうにからかってくる。

 だが、それもそう長くは続かなかった。


「やってる、やってる」


 目抜き通りの途中にあったそのパン屋は、そこそこ人気があるのか開店間もないだろうに、そこそこ客が入っているのが店の外からでもわかる。


 チリンチリン……


 ガードナーベーカリーのドアベルの音が、素朴な店構えにふさわしい軽やかな音を立てる。


 体格のいい男が一人、磨き上げられた木のカウンターの奥に立っている。おそらく店主だろう。


「ファビアン、先にマギーの分も選んでくれ」


「おう」


 大陸南部特有の柔らかそうなパンが、陳列棚の籠に盛りつけられている。それから、自家製と書かれたマーマレードの瓶に、ロックビスケットという名前の堅焼きビスケット、フィッシュパイなどが並んでいる。


 フィオナという小娘のことがなくても、充分すぎるほど魅力的なパン屋だ。


 俺がいくつか品定めしている間に、先にいた客は帰っていた。

 そんな静かになった店の中に、ニールの芝居がかった声が不思議なくらい響く。


「店主殿、一つお尋ねしたいのだが、よろしいか?」


「ああ、かまわんよ」


 店主の反応は、実にそっけないものだった。

 今日の式典が気になるのか、他に気がかりなことがあるのか、どこか上の空だった。

 いつもなら相手の態度に反応するニールだが、この時は不思議と余裕のなさを感じた。


「店主殿に、フィオナという美しい響きの娘さんがおられるでしょう? わたくしは、娘さんにお会いしたく北の地から参った者です」


「……」


 まさかニールの口から聞くとは思わなかった名前に、俺は言葉を失った。

 俺だけではない。店主も目を見張って、言葉を失っている。


「こちらに、いると聞いてきたのですが……」


「帰れ」


 ニールの芝居がかった態度がいけなかったのか、そもそもフィオナという名前がいけなかったのか、店主の短いひと言には有無言わせない強さがあった。


「フィオナなんて娘はいない。帰れ」


 しかしニールも引き下がらない。


「俺は、娘さんに危害を加えるようなことはしない。一なる女神さまに誓ってもいい。だから、会わせてもらえないだろうか?」


「いもしない娘に、会わせられるわけがないだろう。帰れ」


 予想外ではあるが、ニールと店主のやり取りに聞き耳を立てる。このまま、名無しをつかまえられるかもしれない。


「いないわけがない。俺は、水竜族の……」


「帰れ。そっちの毛皮の連れも一緒に……」


 バタバタと騒々しい足音がしたと思ったら、カウンターの向こうの戸口に赤い頭巾の女が現れた。


「あんたたちみたいな怪しいやつに、フィオを渡すわけがないでしょう!」


「リーナ、下がり……」


「黙って、お父さん。いかにも怪しいやつら、とっとと追い返しちゃいなさいよ」


 リーナと呼ばれた娘は、何をそんなに興奮しているのだろうか。

 一瞬、あっけにとられたニールだったが、すぐにしてやったりと笑みを浮かべる。


「やはり、こちらにいるのですね。俺は……」


「黙りなさいよ。あんたたちが力ずくでフィオに会おうったって、そうはいかないんだから。リュックベンの女をなめないでちょうだい」


「いや、だから、話を聞いてくれ。俺は怪しい者では……」


「いかにも怪しいやつの話なんて、聞かないから!」


「リーナ、少し黙りなさい」


 父親の店主がなだめても、娘はまくし立てる。


「あんたの連れが怪しすぎるって言ってるの!」


「は?」


 どうしたものかとパン棚の前で横目で様子をうかがっていた俺に、娘はカウンターの向こうから指差してきた。


「怪しすぎるじゃないの。いくら冬だからって、最南端のこの街で、毛皮のコート。眼帯。ボサボサ頭。怪しくないわけないじゃない」


「黙っていれば、調子にのるなよ小娘っ」


 思わず手を出しそうになった俺を、ニールが両手で押し止める。


「まぁまぁ、ファビアン殿。怒りなさんな。ここはひとまず、出直すことにしよう」


「何言ってやがる。……ニール、てめぇ笑ってるんじゃねぇよ」


 こらえているつもりだろうが、ニールは笑っている。

 だが、このままでは埒が明かないのもまた事実。


 チリンチリン……


 不本意ながら店を出た後で、俺とニールは朝食を調達し損なったことに気がついた。


 なんて日だ。

 豆袋の中身はなくなるし、探し求めている小娘の手がかりを得ることができると思ったら屈辱的な邪魔が入る。その上、昨夜からまともな食事にありつけないでいた。


 しかし、これらがこの日降りかかる災難のほんの始まりに過ぎないことを、俺はまだ知らなかった。




 ――


 俺とニールが空腹を訴えてくる体をなだめながら、他に朝食を調達できる店はないかと人混みをさまよっていた頃、マーガレットは市庁舎の応接室に案内されていた。

 どうやら、俺たちが考えていたよりもずっとスムーズに手早く、押しかけてきた人々をさばいていたらしい。


 マーガレットは、怒っていた。激怒していたといってもいい。

 生まれ育った地を離れ、やっとたどり着いた見知らぬ地で、運命的に出会えた花婿に逃げられた。悲しむという選択は彼女になく、今にも爆ぜそうな怒りで体の内側から熱くなっている。


「それは、花婿に会わせてくれないってことですか?」


 ふざけんじゃねぇよ。


 マーガレットは出かかっている口汚い言葉を押さえるのに、苦労していたそうだ。十歳に直した男勝りの言葉遣いで、目の前の仮面の男を罵ることができたら、どんなにスッキリすることか。彼女にとって、それは限りなく魅力的な誘惑だっただろう。


「会わせないとは言っていない。ただ、時間を与えてやってほしいと言っているだけだ」


 灰仮面のクレメントは、仮面の下でうんざりしていたのかもしれない。

 何度も何度もローワンが目の前で逃げ出したことを育ての親として謝罪し、何度も何度も竜族にとって精神が成熟していない時期に花嫁に会うということがどういうことか説明した。

 しかし、マーガレットは今すぐ会わせろの一点張り。


 ローワンが世界竜族の生き残りの旅をしていなかったら、ここまで頭を悩ませることもなかっただろう。


 実はこの時、同性である女性のほうが話しやすいだろうとクレメントが気を利かせて、ディランの妻ナターシャが同席していた。

 クレメントの気遣いはまったく無用だったと、早々に傍観することに徹していた彼女だが、遅々として話が進まないことに苛立っていたらしい。もし、夫のディランだったら、容赦なく棍棒で叩きのめしていたことだろう。


「あーもう、見てられないね」


 マーガレットは、不意に口を挟んできたナターシャを睨む。

 水竜族の長の奥方と紹介されたが、マーガレットにしてみれば部外者だ。


「あたしがローワンとの話し合いにも同席してあげるよ。だから、マーガレットもローワンの話を聞いてあげなさいよ」


「……話?」


 話などないとマーガレットの琥珀の瞳が刃物のように輝く。

 強情な彼女の態度に、ナターシャは苛立たしく頭をかこうとしてやめた。式典で人前に立つとあって、いつもよりも丁寧に髪を編みこんであることを思い出したのだ。


「あの子にも言い分があるだろうさ。あたしがいれば、あんたの花婿だって逃げやしないだろうよ」


「……」


 マーガレットが押し黙ると、クレメントはいくらか安心して言い募ることができたらしい。


「納得がいくまで、話せばいい。俺は、ローワンの意志を尊重してやってほしいだけだ。あの子がまだ心の準備ができない間は、待ってやってほしい」


「……」


 迷いを見せ始めたマーガレットは、気がつかなかっただろう。ナターシャの踵が、クレメントの足の甲を思い切り踏みつけていたことに。

 よく言うよ。もし、目の前にマーガレットがいなかったら、ナターシャは彼に直接言っていたかもしれない。ついでに、棍棒でぶちのめしていたかもしれない。

 クレメントにとってローワンは、養い子であり、自分の二つ名の後継者であり、守り育ててきたフィオナの守護者だった。

 ローワンが自らやめない限り、クレメントは彼に旅を続けさせたかった。ローワンはおそらく、目の前の強情な花嫁を受け入れる事ができても、待たせることになるに違いない。


 クレメントの予想は正しかった。

 ただし結果として正しかっただけで、話し合いなどでは済まなかったのだが。


「わかりました」


 前向きな声ではなかったが、マーガレットはローワンと話し合うことに同意した。もしかしたら、内心ナターシャの同席を嫌がっていたのかもしれないが。


 なにがともあれ、クレメントは仮面の下で安堵の表情を浮かべていたに違いない。


「じゃあ、決まりだね。それから、真理派の嫌がらせのことは、早めになんとかするよ」


「……ありがとうございます」


 マーガレットは、急にのどがカラカラに渇いていることに気がついた。見ず知らずの地で火竜族の長と面会するのは、緊張するものだ。彼女は、冷めきったイムリ茶を一気に飲み干さずにはいられなかった。


「それで、よく来たね。あたし、ずっと疑問に思ってるんだけど、どうしてリュックベンに来たんだい? 聖王国から二日で来るなんて無理だ。他に目的があるんじゃないのかい?」


「それは、たまたまこの街で竜族の皆さんが、街の人たちと入浴施設を作っているって聞いて……」


 イムリ茶でのどを潤したマーガレットは、空っぽになったティーカップを覗き込みながらすべて話した。

 聖王国北部の港街ティンガルで二人の男に出会ったことから、ひと月におよぶ船旅を終えてたどり着いたのが今日の夜明け前だったこと。話しながら、彼女はいかに幸運に恵まれていたのか再確認したそうだ。極めつけは、初めて出会った火竜が花婿だったことだろう。逃げ出されたのは到底許せなかったが。


「あたしは運が良かったけど、他にもあたしみたいに嫌がらせされて肩身狭い花嫁は他にもいるはずなんです。本当は今すぐにでも、なんとかしてほしいんです」


 切実な思いで顔を上げると、ナターシャが形のいい眉が釣り上がっていた。仮面のせいでわからないが、なんとなくクレメントが居心地悪そうだ。

 どうもおかしい。――マーガレットが感じ取るのと、ナターシャが悪態をつくのとどちらが先だっただろうか。

 突然の悪態に、マーガレットはあっけにとられるしかなかった。


「今すぐ、そのニールって連れの顔を拝みたいね。ついでに、ひっぱたいて帝国に送り返してやる」


「ナターシャ、とりあえず落ち着け。まだ彼と決まったわけじゃないだろ」


「落ちついていられるかい。あのバカ息子がまた……」


 ニールと知り合いらしいが、とてもとても友好的とは言い難そうだ。

 困惑するマーガレットは、会わせないほうがいいのではないかと考え始める。とてもとても友好的とは言い難そうだからだ。


 控えめに叩かれた扉の音は、それどころではないという雰囲気の応接室でもしっかりと聞こえた。


「……失礼します。お取り込み中のところすみませんが……」


 やってきたのは水竜の少年アーウィンだった。彼も、この日ばかりは借りてきた猫のように礼儀正しく振る舞っている。


「クレメントさま、ナターシャさま、式典の準備の方をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか」


 ナターシャに同席をお願いしたことを後悔していたクレメントは、口調をやわらげて首を縦に振る。


「もちろんだ。マーガレット嬢、夕方には式典が終わる。それまで何か食べてゆっくり休むといい」


「……ありがとうございます」


 なにかまずいことになっているのではないかと、ニールの身を案じ始めていたマーガレットの声には不満の響きがあったが素直に頭を下げた。


 一足先に廊下に出ていったナターシャが、水竜の少年に言いつけているのが聞こえてくる。


「今すぐに、ドゥールを呼び出しな。今日中にリュックベンに来るようにってね。あのバカ息子……」


 一人きりになった応接室で、マーガレットは唇を引き結んで胸元のウロコを握りしめた。

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