ローワン
お母さんが送ってくれると言っていたけど、わたしは一人で神殿に行くことにした。
もし何かあっても、お母さんまで危ない目に合わせてしまう。頼りないとかそういう問題ではなく、現実的に考えて身を守るすべがないのだ。
それに、お父さんとお母さんが二人一緒にいてくれたほうが安心する。
「本当に、大丈夫か?」
「大丈夫、お父さん。あえて、人混みの中に突っこんでいくから」
ブカブカの服に、お父さんのよそゆき用の帽子に髪の毛を押しこめば、少年に見えなくもない。
「絶対に、立ち止まるんじゃないぞ」
「うん。お父さん、ありがとう」
これでもかというくらい力いっぱいお父さんを抱きしめる。
焼き立てのパンの匂いがする。
朝刻の鐘の音が聞こえてくる。
街が動き出す時間だ。
お母さんと一緒に、裏口から目抜き通りに出ると、いつもよりすごい人が行き交っている。
これなら、なんとか神殿まで行けそうだ。
神殿についたら、まず我が家を守ってくれるようにお願いしなくては。
「じゃあ、行ってくるね」
「ちょっとお待ち。……これでよし」
わたしの右の手首にある輝く腕輪を、コートの袖口から折り曲げて隠してくれた。
「ありがとう。お母さん」
「ああ、行ってきな。神殿に無事についたら、誰かに無事だって知らせておくれよ」
「わかってるよ。じゃあ、行ってくるね」
お母さんに手を振って、わたしは人混みの中に駆け込んだ。
神殿に向かう人、式典のある広場に向かう人。
この街の人、この街の外の人。
春の大祭でも、これほどの人は集まらない。
あえて人の間をかき分けながら進むのは、思っていたよりも大変だった。
何度も何度も人にぶつかったけど、こんな日だからかそうそう文句は言われなかった。
一度だけ、毛皮のコートの男性にぶつかった拍子にパラパラと何かを落としてしまった時だけ、ものすごい剣幕で呼び止められたけど、立ち止まっていられない。
神殿にたどり着いた頃には、もうクタクタだった。
それでも、どうにかローワンを捕まえた。
わたしが一人でやってきたことと、少年ぽい格好にひどく驚かれたけど、それどころではない。
「ターニャとヴァンなら、アンバーと一緒にヘイデンさまの用で何かさせられてるって話だけど、聞いてなかったのか?」
「むぅ。聞いてない」
ローワンも困惑しているけど、わたしの方が困惑しているはずだ。
わたしたちは今、お姉ちゃんに連れられて初めてダグラスと話しをした神殿の離れにいる。
あの頃よりも狭く感じるのは、わたしが成長したからだけではない。今日のための資料だろうか、紙束の山がそこかしこにある。
「ヘイデンさまって何考えてるのか、よくわからないよね」
「フィオちゃんも、そう思うか。実は、俺も」
壁に背中を預けた彼がニヤリと笑うと、本当にふてぶてしい猫みたいだ。
彼は竜族に会いたいと押しかけてきた人々の中で、長たちに話を持っていくかどうか意見するためにいる。まずは、モール商会が集めてくれた人間たちが話を聞くことになっているらしい。本来なら、アンバーもこちらで待機するはずだったという。
「アンバーの奴も、しょっちゅう愚痴ってるしな。よっぽどだぜ」
「他の一族の長を悪く言うものじゃないよ」
肩をすくめたローワンをたしなめた水竜は、何か食べる物を持ってきてくれた船造りのキールだった。
水竜の長ディランの叔父になる彼は、ライオスの葬儀の時に送りの船を作ったことをきっかけに、船大工の二つ名を孫に譲ったそうだ。
「姫さま、こんなものしかありませんけど、食べてください」
持ってきてくれたのは、籠いっぱいの焼き菓子。ビスケットやメレンゲ菓子たちに、お腹の虫が黙ってくれなかった。
間抜けな音に、ローワンは吹き出し、キールは不自然な咳払いをする。
「むぅ」
「今、お茶を淹れますね」
キールが慌てて、茶器に手を伸ばす。お茶は、もちろんイムリ茶だ。
顔をほころばせながら、干しぶどうのビスケットを口に運ぶ。ローワンが笑っているけど、気にしていられない。わたしはまだ、朝ごはんを食べていないのだから。
「ヘイデンさまのことですが、わたしは不器用な方だと思うのですよ」
白砂の砂時計をひっくり返したキールは、苦い笑いを浮かべる。
「彼の兄君が失踪されなければ、長になることはなかったのですから」
「む?」
ヘイデンに兄がいたなんて、初耳だ。それも、失踪とは穏やかではない。
壁際のローワンは知っていたらしく、わたしと目が合うと肩をすくめる。
「姫さまは知らなくても、しかたないでしょう。姫さまが生まれる前のことですから」
「俺だって生まれてなかったぜ」
砂時計の砂がすべて落ちきった。
キールは、静かにポットを傾ける。
「どうぞ、姫さま、ローワンも」
「どうも」
わたしの隣りに座ったローワンは、どうもキールのことが苦手らしい。
イムリ茶をすすりながら、わたしはキールの話の続きを待った。
「先代の長だった彼らの父、砂塵のエオルさまは、端から見ても兄君を溺愛していましたからね。年の離れた弟のヘイデンさまが、考えを素直に示さないのもなんとなくわかるんですよ。……わたしも、大おじいさまの血を引いているとはいえ、三男坊でしたからね」
生まれるのが早いか遅いかだけで、周囲の見る目が変わることはよくあることだ。
「じゃあ、ヘイデンさまってひねくれてるだけだったりするのかよ」
「そうかもしれないね」
ひねくれてる――言い方はひどいかもしれないけど、わかるような気がする。そう考えると、なんだか苦手だったヘイデンを好きになれそうな気がする。
メレンゲ菓子が、イムリ茶によく合う。
「それで、キール。そのヘイデンさまのお兄さんは、なんで失踪なんか……」
「俺は、花嫁探しに行って帰らなかったって、聞いてるぜ」
チビチビとイムリ茶をすするローワンが、そっけなく答えた。
「わたしもそう聞いている。いろいろと嫌な噂もあったけどね」
キールがイムリ茶のおかわりはと尋ねてくるが、わたしもローワンも軽く首を横に振る。
「ふぅん。で、ヘイデンさまのお兄さんは、どんな方だったの?」
「先代の溺愛は抜きにしても、なかなかいい奴だったと思うよ。数えるほどしか会ったこともないが、人形遣いの……」
トントン……
控えめなノックの音に、キールはカップを置いて戸口に向かう。
「何かな?」
やってきたのは、神殿に押しかけてきた人々の対応をしていた少年だった。
「あのぉ、ローワンさんいますか?」
「いるよ」
戸口で相談を受けるローワンと入れ替わるように戻ってきたキールは、わたしの耳元でそっとささやく。
「姫さま、今日は彼と一緒にいなさい。わたしも呼ばれれば、行かなければならない。こんな年寄りよりも、クレメントの後継者が頼りになるだろう」
縦に首を振って、行ってくると言ったローワンの後についていく。
少年がわたしを見て一瞬だけ怪訝そうな顔をしたけど、ローワンがいいならそれでとでも勝手に納得してくれたようだ。
どうやら、遠方から来た火竜の花嫁だという女性が、長のクレメントに会わせてほしいと言っているらしい。なんでも、真理派の嫌がらせのせいで家にいられなかったそうだ。
「ひでぇ話だよな」
奥方と息子を殺されたクレメントに育てられたせいか、ローワンは怒りを込めて吐き捨てる。
彼の怒りは、案内してくれている少年の顔が強張ったほどだ。
押しかけてきた人々は、一度神殿の前庭で要求を聞いてから、竜族に会う必要がありそうだと判断された人が神殿の中に案内されるようだ。
わたしたちは、この神殿で一番広い祈りの間まで案内された。
普段は二列に並んでいる木の長椅子は片付けられ、衝立で仕切られた四つのスペースに机を挟んで椅子が一脚ずつおいてあった。
「えっと、あの赤毛の人です」
「了解。…………っ」
少年に教えられた女性は、わたしと同じくらいの年頃で、少年と見間違えそうなほど短い赤い髪とよく日に焼けた肌を持っていた。
「むぅ? ローワン、どうしたの?」
「なんでだよ……なんで……なんでだよ」
うわ言のようにブツブツとつぶやくローワンに、わたしの声は届かなかったようだ。
胸元に手をおいて落ち着かない様子だった赤毛の少女も、ローワンに気がついた。
「あっ」
彼女の短い驚きの声が、祈りの間に響く。
その次の瞬間に起きた出来事を、わたしはすぐに理解できなかった。
気がついたら、隣りにいたはずのローワンがいなかった。
祈りの間を飛び出していく、彼の背中を追いかける。
「ちょっと、ローワンっ」
「待ってください! ……きゃっ」
赤毛の少女も慌てて立ち上がるけど、慌てすぎたのか机の脚に足を引っ掛けて転んでしまうのを視界の端でとらえる。
「ローワン、ローワンったら!」
神殿の裏に走るローワンを追いかける途中でキールとすれ違う。
「ローワン!」
裏庭の楡の木の下で、彼は足を止めた。
「なんで、なんで、俺の……」
いったい何が起きたというのだろうか。
「ローワン、どうしたのよ? 彼女がどうかしたの?」
「どうかしたのだって? あいつ――マーガレット・メイジャーは、俺の花嫁だ。なんでだよ、なんで……」
「ちょ、ちょっと、ローワン、なんで頭を抱える必要があるの。花嫁って、いいことじゃない」
花嫁に出会えたのに、なぜ頭を抱えてうろたえる必要があるのだろうか。
「それが、いいこととは言えないのですよ」
「キール」
いつの間にやってきたのか、やれやれとため息をついたキールが教えてくれた。なぜ、花嫁の方から竜の森に花婿を求めてきてはいけないのかを。
「我々竜族は、オスしかいません。生涯のパートナーとして、人間の女性を受け入れるには、
「そう、だったの」
頭を抱えているローワンは、
「とりあえず、マーガレット嬢はクレメントさまに任せることにするよ。市庁舎に行ってもらうように手はずを整えてくるから」
鬱陶しそうに前髪をかきあげながら、キールは続ける。
「ローワン、君も落ち着いたら姫さまと一緒に市庁舎に行きなさい。ここは、わたしがなんとかする」
キールがいなくなっても、ローワンはまだ動揺している。
「ねぇ、ローワン。ここにいてもしかたないと思うけど……」
「……だよな」
なんだか、ここまで元気のない彼は初めてのような気がする。
「離れに戻る?」
「いや。市庁舎に行ったほうがいいだろ」
ローワンは両手で顔を叩くけども、いつものふてぶてしい笑顔は戻らない。
離れで茶色の外套を羽織ったローワンと、人の多い目抜き通りではなく別の道を行く。
わたしの知らない道だ。我が家からほとんど離れることができなかったから、彼がこの街に詳しくてもしかたない。悔しいけども。
「悪いな。みっともないとこ見せちまって」
「ううん。ローワンは悪くないよ。もちろん、花嫁さんも」
外套のフードを目深にかぶっていても、ローワンが浮かない顔をしているのはわかる。
「フィオちゃん、あのさ……俺、おふくろいないだろ。親父も、俺が生まれる前に死んじまったし……」
「うん」
彼の両親のことは、もちろん知っている。クレメントさまに育てられたのも、そのせいだ。
「俺にとって、クレメントさまが親父みたいなもんだし……だからかなぁ、俺、息子がいっぱいほしいんだ」
「は?」
どうして、息子がほしいという話になるのだろうか。
わたしの間抜けな声から疑問を感じ取ってくれたのか、ローワンがようやく笑った。
「プッ、そっか、フィオちゃん、気がついてなかったのかよ。だよな、だよな、そうじゃなかったら、落とし穴なんて掘らないよなぁ」
「ローワン、その話は……」
どうやら、クレメントをはめようと掘った落とし穴から出られなくなったことは、思っているよりも語り草になっているらしい。
恥ずかしくて、ローワンの背中をバシンと叩く。手加減なんて馬鹿馬鹿しい。
「それも、落とし穴を掘った理由が、クレメントさまの素顔にビビって泣いた自分が悔しいとか……クレメントさま、あの後、本気で落ち込んでたぜ」
「……うそ」
知らなかった。
灰色の仮面のせいで、気がつかなかった。
そもそも、大丈夫だとわたしが自惚れていたのがいけなかったのだ。竜の森で守られて育てられているうちに、クレメントの素顔を見ても大丈夫だと自惚れていた。好奇心に負けて、こっそり素顔を見てしまったのだ。けれども泣いてしまった自分が、腹立たしくて、悔しくて、掘ったのが落とし穴だ。
まさか、落ち込んでいたなんて知らなかった。
「クレメントさま、子どもが好きなんだよ。けど、あんな顔になっちまって、子どもが泣くから、被りたくもない仮面被ってんだよ」
「……全然、知らなかった」
クレメントが子ども好きだとは知らなかった。
「俺、クレメントさまのぶんまで、たくさん息子がほしいんだ」
「じゃあ、さっきの花嫁さんと結婚するんだね」
そして、それはおそらく彼が旅の仲間をやめるということ。
寂しい気持ちで、つぶやくとローワンはわたしの帽子を取り上げて、ふてぶてしく笑う。
「フィオちゃん、俺の話聞いてたか? 俺は旅を続ける。クレメントさまには面倒かけるけど、花嫁には陽炎の荒野で待ってもらう」
「むぅ、それはちゃんと花嫁さんと話し合ったほうがいいと思う」
「……だよなぁ」
外套のフードの中に手をやって、彼は頭をかく。
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