胸騒ぎの朝

 ボサボサ頭の黒髪の男の子が床の上に何かを並べているのを、わたしは部屋の隅でただ眺めていた。


「ユリウス、ユリウス、……ユリウス?」


 汚れた絵本や、靴下、クッション、うさぎの縫いぐるみ……。

 それらすべてを、嬉しそうにたどたどしい口調で『ユリウス』と呼びながら床に並べている。


 また、わたしは過去の夢を見ている。

 かつてのように誰かを通してではなく、わたしの目で過去を見ている。


「ユリウス、うーーーう、……ユリウスっ」


 部屋の中を散らかしながら、衣装箪笥や机の引き出しをあさる。『ユリウス』と呼ぶもの以外は、雑に放り投げていた。

 黄色こんじきの瞳を輝かせながら、わたしよりも少し年下の男の子は部屋を散らかし続ける。


 夢を見ている時は、いつも頭の回転が鈍る。

 ここは竜王の屋敷の散らかった子ども部屋だと、ようやく気がつく。


「むっ」


 長衣の裾から覗いた右足の痛々しい傷跡に、思わず声を上げる。

 その瞬間、男の子は消えてしまった。


 ――チリンチリン

 とっさに口元にやった右の手首の腕輪が軽やかな音を立てる。


「可愛い息子だろう」


 先ほどまで男の子がいたところに、ユリウスが立っていた。

 なんて答えればいいのか、わからない。

 同じくらいの年頃のアーウィンの部屋だって、これほど散らかっていない。生意気なところもあるけど、彼はああ見えて几帳面なところもあるのだ。


 いくら待っても返事がないことに、ユリウスは気分を害したようだ。


「嫌そうな顔をするな、小娘。お前の花婿だぞ」


「そう、言われても……」


「あの子を見出みいだしたのは、このふた月前のことだ」


 シーツが乱れたベッドに腰を下ろし、彼は少年がいた場所を物憂げに見やる。


「もう、気がついているだろう? ここは、わたしの息子でお前の花婿の過去。まだ、まともに言葉を覚えていない頃だ。好きな物を、何でもかんでもわたしの名前で呼んでいた。……懐かしいな」


 細められた彼の目に宿る優しげな感情は、本物だろう。

 彼が現れたことで急に頭が冴えてきた。

 数多くある疑問の答えを聞き出すこのチャンスを、逃すわけにはいかない。


見出みいだしたって、……森で?」


「正確には、狩猟用の罠にかかった息子を保護した村で、だ」


 つまらなそうに答えた彼は、左手でパチンと指を鳴らす。


 散らかった子ども部屋が闇に飲まれた。上下もわからない暗闇の中で、ユリウスだけが見える。

 一つ目の質問をはぐらかされずに答えてくれたことに、そっと胸をなでおろした。彼の気が変わらないうちに、次の質問をぶつけなくては。


「でも、ユリウス、あなたの息子は生まれて間もなく死んだって……」


「クククッ……、ああ、わたしもそう思いこんでいたとも。まぁ、いい。そんなことは、今さらだ。過去は変えられない。これもまた、数少ない真理の一つだ」


 パチン。

 自らを嘲笑うかのように、ユリウスは笑いながら再び指を鳴らす。


 暗闇が拭い去られていく。


 景色が変わる。

 どうやら、わたしの夢だというのにユリウスはコントロールできるようだ。


「お前がまだ、わたしよりも夢をコントロールできないでいるだけのことだ」


 わたしの心の中を読んだのか、わたしの顔に書いてあったのかわからないけど、

こういうのは非常に不愉快だ。

 まだということは、いつかわたしもコントロールできるようになるということだろうか。


 暗闇が拭い去られた後、わたしたちは世界の中心の塔の中にいた。


「過去を変えることはできない。ならば、未来を変えるしかないだろう」


 未来を予見するために建てられたという塔の中では、どうしてもこの前見た夢を思い出さずにはいられない。


「この前、嘆きの夜の夢を見たわ。あなたの望みってなんなの? 犠牲を払ってまで……」


「ああ、叶えたいとも。叶えてみせるとも」


 ゆっくりと近づいてきたユリウスの黄金色こがねいろの瞳には、狂おしい光が宿りだす。

 息を飲むほど恐ろしいのに、体は少しも動かない。


「そのために、未来を書き換えたのだからな」


「未来を、書き換えた?」


 彼はゆっくりと口角を吊り上げて笑うと、足を止める。

 三歩も離れていない距離に、どうしようもないほどの圧迫感と戦わなければならなくなった。


「不思議に思わなかったのか? この千年の間、あの子の花嫁がいなかったのか。一度も疑問に思わなかったのか?」


「まさか……」


 疑問に思わなかったといえば嘘になる。

 この八年間、一枚岩のヘイデンを始めとした知識欲の塊の地竜族や、他の年老いた竜たちが真剣にこの疑問に挑んでいた。けれども、そんな彼らでも見当もつかない疑問を、わたしがどうにかできるわけがないと深く考えなかったのだ。


 ユリウスの答えなど、聞きたくない。

 心の底から、聞きたくないと願った。

 なのに、ユリウスは狂おしく瞳を輝かせている。


「そう、そのまさかだ。我が同胞はらからとその妻たち二千と八つの命を使って、我が息子の花嫁が現れるのを先送りしたのだよ。これがどういうことかわかるか、小娘」


「やめて、聞きたくない」


 激しく拒絶したつもりなのに、わたしの声は情けないほど弱々しかった。

 ククッと短い彼の笑い声が塔の中に響く。


「小娘、選択を誤るな。誤れば、世界は終わる。これほどの犠牲を払ったのだからな。すべては我が望みのため。世界をあるべき姿へ導くため。そして……」


「……っ」


 震える足でやっと後さずったわたしの右腕を、彼の左手が容赦なく掴んで引き寄せる。


「……愛する息子のため」


「え?」


 耳元でささやいたユリウスは、どんな顔をしていたのだろうか。

 はっと彼の顔を見ようとした時には、誰もいなかった。


「ユリウス? ユリウス!」


 頭上の巨大な光石の結晶の光が消える。

 闇に飲まれるその直前、ユリウスの声が頭の中に響き渡った。


「小娘、時間だ。今日は長い一日になるぞ」




 ――


「ユリっ…………」


 目が覚めた。

 いつも寝起きが悪いのに、はっきりと目が覚めた。


 まだ、夜が明けていないのだろう。

 天窓の鎧戸の隙間から漏れる光は朝日のそれではない。

 心臓の音がうるさい。


「……なんで、わたしだったんだろう」


 黒い小袋から取り出したウロコを強く握りしめる。


 わたしがこの家に生まれるために、多大な犠牲を払ったというのか。


「なんで……」


 お姉ちゃんはここ数日、今日の式典のために市庁舎に泊まり込んでいる。

 よかった。お姉ちゃんがいなくて。


「なんで、なん、でぇ……」


 お姉ちゃんがいたら、こんな風に泣くこともできなかっただろうから。


 なぜ、わたしがこの黒いウロコを握りしめて生まれてきたのか。

 その答えは、おそらく一なる女神さまにしかわからないだろう。


『一なる女神よ、だがどうか、どうか、我が一族に楽園の憩いを与えてほしい。……』


 嘆きの夜、青ざめた顔でユリウスが願ったこと。

 わたしも願わずにはいられない。


「一なる女神さま、どうか、どうか、わたしのために犠牲になった命を無駄にしないような、強さをください」


 強くなりたい。

 仲間たちに守られてばかりで、情けないわたしのままでいられない。

 だから、いつまでも泣いているわけにはいかない。


 今日は大事な式典の日。

 竜の森の四竜族の長たちがそろって、人間たちの前に姿を見せる日だ。

 若き市長が提案し、一枚岩のヘイデンが少々提案に無茶を付け加え、ローワンの馬鹿馬鹿しい思いつきで始まったリュックベン市の入浴施設建設計画は、今日、大きな節目を迎える。


「早く着替えなきゃ」


 無理やり元気な声を出せば、鬱々としていた気分も少しは楽になった。


 犠牲になった命のためにも、わたしは今できることをするしかない。

 ユリウスが言っていた世界のあるべき姿は、ヴァンが望むように人間と竜族の距離が近いものかもしれない。

 ただ、まだ迷っている。

 実際、このリュックベンでも入浴施設建設計画に竜族が協力するだけで、竜族が市民になるなんて、考えられない者たちのほうが多いはずだ。


 迷いながらも今日の式典を見届けて、十日後に再びこの故郷を離れなくてはならない。


 用意してあった晴れ着を広げてみる。


「むぅ、お姉ちゃんのおふるでいいって言ったのに……」


 カモメやオレンジの花、錨などの刺繍をふんだんに施された晴れ着を、お母さんはわざわざ新しく仕立ててくれた。

 もちろん、嬉しい。嬉しいけど、素直になるのは恥ずかしい。


 こんな素敵な晴れ着を前に、いつまでも鬱々としていられない。


 笑顔を作って晴れ着に袖を通そうとした時だった。


 ドンドンっ


 すくみ上がるほど、勢いよく屋根裏部屋の戸が叩かれた。


「フィオ、フィオ、起きてるかい?」


「起きてるよ。お母さん、どうしたの?」


 用心のためと掛けていた鍵を外して開けると、ひどく焦った顔のお母さんが入ってきた。その手には、薄汚れた服らしきものがある。


「フィオ、今日はこれを着な」


「でも、晴れ着が……」


「晴れ着なんざ、また帰ってきた時に着ればいいのさ。それよりも、ターニャとヴァンがどこにもいないんだよ」


「え?」


 手にしていた晴れ着がスルリと足元に落ちる。


「今日は、あの二人と市庁舎の長たちのところに行くはずだったろ。なのに、二人ともいないんだよ。あたしたちに何も言わずにいなくなるなんて、おかしいだろう」


「まさか……」


 ターニャとヴァンの身に何かあったというのか。そんなこと、考えたくもない。けれども、わたしを守るための二人が黙っていなくならなければならないような事態が、昨夜起きたのだろう。


 着るようにとわたされた服は、着古された男物だった。おそらく、失踪したエルマーの着替えだろう。


「フィオに何かあってからじゃ遅いから、アーチと相談して決めたんだ。あたしがフィオを神殿まで送り届けるって。市庁舎よりも、神殿の方が近いし、あそこなら竜族の誰かが守ってくれるだろう。うちなんかより、ずっと安全だ」


「……じゃあ、わたし、今日でこの家とまたお別れだね」


「すまないね。あたしらが、ちゃんと娘を守れればよかったんだけどねぇ」


「そんなことない」


 お母さんを抱きしめる。

 たくさんの命を犠牲にしていたからって、お母さんの娘でよかったという気持ちは変わらない。

 そっと癖の強い髪をなでつけてくれる手が大好きだ。


「じゃあ、あたしは食堂で待ってるから、早く着替えて降りてきな」


 わたしの家族は、何も悪くない。

 けれども、ターニャとヴァンがいなくなった今、わたしがいるだけで家族も危険にさらされてしまう。


 一人きりになった屋根裏部屋。

 次に帰ってくる時は、いつだろうか。もしかしたら、その時にはお姉ちゃんはここにはいないかもしれない。


 ダボついた裾を折り曲げたりして、どうにかエルマーの古着を着て屋根裏部屋を後にする。


「いってきます」


 ユリウスの言っていた長い一日は、もうすでに始まっていた。

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