ターニャ

 ヴァンの父親は、奏者そうしゃのヴィンセントだ。

 風竜族が薬学と同じくらい長けているのが音楽。奏者は、とりわけ楽器の扱いに秀でた血筋に代々受け継がれてきた二つ名だ。

 けれども、奏者のヴィンセントの三番目の息子ヴァンは、音楽の才能がまったく備わっていなかった。

 幸か不幸か、ヴァンの兄たちと弟は、その才能に恵まれていた。音楽の才能だけで、風竜族のよし悪しが決まるわけではないけども、ヴァンは自分のことを落ちこぼれだと思うようになっていた。


 三年前に月影の高原で出会ったヴァンは、そういう少年だった。


『俺は落ちこぼれだから、料理作るくらいしか能がないから』


 わたしのために美味しい料理を作ってくれたヴァンが、恥じるようにそう言ってたのを覚えている。

 全然、恥ずかしいことではない。

 人間にとって、料理人が男性であることは珍しくない。お父さんも、パンを作っているとヴァンを励ましたこともある。


『そっか、恥ずかしくないんだ』


 照れ隠しだったのか、うつむきながらそう言った彼は嬉しそうだった。


 そんな大人しい控えめな風竜の少年が、まさか旅の仲間に選ばれるなんて、あの頃のわたしは夢にも思わなかった。

 だから、お父さんにパン作りの教えをうなんて、青天の霹靂以外の何物でもない。

 世界竜族の生き残りを探す旅をやめるのかと尋ねれば、彼は首を横に振った。


『もちろん、続けるさ。みんなを見返してやりたい。でも……』


 落ちこぼれのヴァンが、父や兄弟たちを見返してやりたいと考えていたことは、驚くことではなかった。

 けれども彼の心には、見返してなんになるだろうという迷いが生じていたらしい。


『この街で人間と一緒に仕事して、なんかこういうのもいいんじゃないかなって、さ。俺たちの竜の森じゃ、料理は人間の女が作るものだし。……上手く言えないけどさ、人間と竜族が同じ街に暮らすのもありなんじゃないかなって』


 わたしは知らなかったけど市長のあの提案は、彼の他にも多くの人間と竜族にあり方を考えさせていた。

 もしかしたらユリウスが導けと言った未来は、そういうものかもしれない。

 右の手首の腕輪にふれながら、わたしは心動かされていた。




 ――


「いいか、パンだねは生きている。呼吸しているんだ。このどっちが元気がないか、わかるか?」


 工房でお父さんの話を、ヴァンは真剣に聞いている。一言も聞き漏らすまいとしているのが、よくわかる。

 しばらくパン種の瓶を見比べて、ヴァンは片方の瓶を選んだ。


「こっちですね」


「正解だ。で、元気のないパン種には……」


 弟子入りに反対していたお父さんも、真剣にヴァンにパン作りを教えている。

 二人の邪魔をしないように、工房の片隅にパン籠を置く。


 わたしの口添えもあって、ガードナーベーカリーの徒弟になったヴァン。さすがに売り場に姿を見せるわけにいかないから、工房でひたすらパン作りを学んでいる。

 まだ五日目だというのに、もうパン種の管理まで教えてもらっているようだ。


 これからどうなっていくのだろうという漠然とした不安も、真剣な態度のヴァンを見守っているとやわらいだ。


「わかりました、親方。……あ、フィオ、帰ってたんだ」


「おかえり、フィオ」


 わたしがプリシラのお見舞いから帰ってきたことに、ようやく気がついた。


「うん、ただいま。今から店番するね」


 白い前掛けの紐を結んで、売り場に続く戸口に急ぐ。パン作りに情熱を燃やしている師弟の邪魔をしてはいけない。いけないとは思ったのだけど、売り場に出る前に足を止めてしまった。


「そうだ。プリシラが喜んでたよ。今日のパンも美味しいって」


 弾かれたように顔を上げたヴァンの銀色の目が嬉しそうに輝いていたのは、気のせいではないはずだ。すぐに恥ずかしそうにうつむいてしまったけど、自分の作ったパンが美味しいと言われて嬉しくないわけがない。


 売り場にいたお母さんと交代して、着替えているターニャが来るまで一人で店番だ。

 交代したのが、わたしだけであからさまにがっかりした若い男性客に、笑顔を作るのは難しい。


「あれ? ターニャちゃんは、いないの?」


「むぅ、教えません。いつものフィッシュパイ、どうぞ」


 残念と言いながらも、フィッシュパイの包みを抱えて彼はおとなしく店を後にする。

 ショーウィンドウの向こうに、今にも降り出しそうな鉛色の空が垣間見える。

 雨に降られないことのほうが、ターニャの顔を拝むことよりも大事らしい。

 所詮、ターニャ目当ての男性客なんて、その程度のものだろう。


 案の定その男性客が帰り、店に誰もいなくなると、ポツリポツリと雨が降り出した。


 護衛だからと、いつも着いてきてくれるターニャに、プリシラは会いたがらない。

 彼女の素顔を知った今なら、彼女を外出させたくないベンの気持ちもわかるような気がする。

 灰色仮面のクレメントの素顔を知っていたから、逃げ出さずにすんだのだろう。

 それほど、彼女の素顔は酷いものだった。いや、酷いなんてものではない。

 おそらく、生まれつきではないはずだ。

 顔の形が歪むほど暴力を振るわれたのだろう。竜の森で可愛がられてきたわたしでも、わかってしまうほど痛々しかった。

 それなのに、彼女との会話はとても楽しい。

 何気ない会話が楽しい。

 たとえば、今朝はよく冷えたとか。

 たとえば、庭に咲いた花が綺麗だとか。

 たとえば、可愛い人形を着せ替える服をああでもないこうでもないと話したり。


「なんでプリシラは、わたしなんかに会いに来たんだろう?」


 プリシラに会いに行ったのは、これで三回目。ずっと気になっている。何度か直接尋ねようとしたのだけど、尋ねられなかった。

 怖いのだ。

 うまく言葉にはできないけど、理由を知ってしまったら楽しいひと時が失われてしまうような気がするのだ。

 同じ理由で、ベンがなぜ協力してくれるのか尋ねられないでいる。


「むぅ」


「どうした? 浮かない顔して」


「あ、ターニャ、……天気のせい、かな」


 丈の長いスカートをはいてきたターニャは、わたしの隣に椅子を引っ張ってきて座る。

 彼女は、どういうわけかモール商会のことをよく思っていないようだ。

 理由は、よくない噂を聞いたことがあるからだそうだ。

 さっきもわざわざ動きやすいズボンをはいていたくらい、モール商会を警戒しているみたい。

 ベンの仕事ぶりは認めていても、街の便利屋を掲げてという印象は拭い去れないようだ。

 そんな彼女に、プリシラのことを考えていたなんて言えない。


「嘘だね。モール商会の連中のこと考えていたんだろう?」


「……」


 わたしも、そんなにわかりやすい性格をしているだろうか。お姉ちゃんほどではないと、思いたいけど。


「何度も言ってるけど、深入りするなよ。来月中には、この街を出ていくんだから」


「わかってる」


 そう、わたしたちは、来月中にリュックベンを離れ、あてのない旅を再開する。


 ヴァンが焦るように弟子入りしてきたのも、それが理由だ。いつまたこの街に戻ってくるのかわからない。

 旅立つその日まで、少しでも多くのことをお父さんから教えてもらおうとしているのだ。


 胸元の小袋を握りしめる。

 わたしの花婿となる世界竜は、今、どこにいるのだろう。

 最後の竜王ユリウスの息子。

 何らかの事情で幼少期を森で過ごし、竜王の息子でありながらおおやけには息子として認められなかった世界竜。

 わたしの夢からでは、その程度しか推測できない。それは、一枚岩のヘイデンでもかわらない。


 浮かない顔をしていたのだろう。

 ターニャが、椅子をさらに寄せてきた。


「不安かい?」


「……不安じゃないわけがないよ」


「そっか、あたしの話してもいいか?」


「もちろん。わたしもターニャの話、聞きたい」


 願ってもないことだ。

 外は、あいかわらずの雨。ショーウィンドウの向こうでは、無数の銀色の細い糸が通りを包み込んでいる。


 大きく伸びをしてから、ターニャは話し始めた。


「あたしには、許婚いいなずけがいるんだ。あたしが産まれる前から、決まってた相手がさ」


「それって……」


「そ、フィオたち竜の花嫁と同じさ」


 許婚がいることは、なんとなく知っていた。名家の娘となれば、ごく自然なことだとも。

 ターニャは笑っていた。どこか、すがすがしい笑顔だった。


「違うのは、物心ついた頃には、その許婚が誰でどんなやつか知っていたってことだろうな」


「へぇ、どんな人なの? やっぱり、貴族か何か?」


「貴族じゃないけど、似たようなものかな? そもそも、帝国じゃ貴族なんてほとんどいないけどね」


「あ、そっか」


 豪族たちの争いが絶えない帝国では、貴族という階級はほとんどいないし、軍人たちは彼らを腰抜け呼ばわりしている。そう、ナターシャに教えてもらった記憶がある。

 西の聖王国に対抗して、東方諸国の文化人たちを迎え入れた時に生まれた階級だと。


 ターニャは、その許婚に思いを馳せながら、故郷にも思いを馳せているのかもしれない。


「そいつ、放浪癖っていうのかな。じっとしてられなくて、すぐにあちこち旅して回るんだよ。で、あたしはいつもその話を聞かされてるんだ。それが、羨ましくてさ」


 許婚の名前は、教えてくれない。その必要がないと考えてたのかもしれない。

 彼女の目は、お姉ちゃんが市長のことを話してくれた時によく似ている。

 好き、なのだろう。


「あたしも一緒に連れて行ってくれるんじゃないかって、期待してたんだけど、あのぼんくら、なかなか誘ってくれない」


「む?」


 急にターニャの口調が厳しいものになった。


「ナターシャさまに、今回の話をもらった時は迷わなかったね。あいつと同じように、旅ができるチャンスだってね」


「…………じゃあ、ターニャはその許婚に憧れてこの旅に加わったの?」


「そうだよ」


 けろりとした表情で、ターニャは旅の目的を認めた。


「あたしを連れて行ってくれないニコラスが、悪いんだよ。あたしがいつまでも、待っていると思うなよってんだ」


 にやりと不敵な笑みを浮かべたターニャの話を聞いていたら、考えてもどうにもならない不安なんて忘れてしまっていた。


「なんか、悩んでるのが馬鹿みたい」


「だろう? フィオ、下心を持って近づく奴らばかりじゃないんだ。あたしみたいなやつもいる」


 もちろん、ターニャみたいな人ばかりでもないだろう。


 雨はまだ降り続いている。

 しばらくやみそうにない。

 それでも、銀色の細い糸が輝いて見えるようになった。


 と、馬車が店先に止まった。


 チリンチリン……


 わたしとターニャはおしゃべりを中断する。


「ここがガードナーベーカリー、か」


 黒いコートを着た灰褐色の髪の青年は、顎をさすりながら店内を見渡した。

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