変わりゆく思い
統一歴3459年 冬の
一枚岩のヘイデンは、腕の中で眠る妻を起こさないように、そっと起き上がる。
脱ぎ捨てたナイトガウンを気だるそうに羽織ると、静かに寝室を後にした。
まだ夜明け前。
玲瓏の岩窟の最奥にある
寝室の燭台を片手に訪れたのは、貴重な書物が納められている書庫だ。
光石ランプを惜しみなく使用された書庫には、一人の地竜が待っていた。
「やはり、兄さんだったのか」
「夜更けに、我らが父なる長の館に忍び込むようなやつ、僕の他に誰がいるっていうんだ」
ひと昔前に東の小国群のどこかの国で人気を集めた大衆小説を閉じ書架に戻して、壁にもたれていた彼は顔を上げる。兄と呼ばれた彼は笑っていたが、目は鋭くヘイデンをとらえている。
机に燭台をおいたヘイデンは、気だるそうに近くの肘掛け椅子に体を預ける。
「あいかわらず、奥方と仲がよろしいようで」
情事の名残りを隠そうともしないヘイデンは、彼の嫌味を鼻で笑う。
「兄さんにだけは、言われたくなかったな」
彼の顔が不愉快だと歪む。
「それで、何しに来た? 新年のあいさつなどと言ってくれるなよ」
「もちろん。価値のある情報を持ってきたよ」
ヘイデンには、わかりきった答えだっただろう。
書架を背にした彼は、弟に対して複雑な感情を抱いていたのだろう。小さくため息をついた。
「計画通り、やつらは仮設浴場でボヤを起こしてくれた」
「もう聞いている」
「……だろうね。もちろん、本題はそれじゃない」
どこにも二人の会話をとらえる耳がないことを知りつつも、彼は声のトーンを落としてヘイデンに真理派のリーダーの情報を与える。
彼が報告を終えてしばらく書庫を沈黙が支配する。
あごをさするヘイデンの顔は、さすがに険しいものに変わっていた。
「……予想はしていたが、できればそうであってほしくなかったな」
「まったくだ。ヘイデン、次の一手はどうする? このまま計画通りにすすめるかい?」
「いや。俺が直接次の一手を打つ」
「わかった。いけ好かない我が弟よ」
話はすんだと、彼は書庫を後にしようとして不意に足を止める。
「そうそう、アンバーには真実を教えなくていいのかい? このままでは、あの子、傷つくよ」
答えはなかった。どのみち、彼も答えを待たずに書庫を出ていく。
ヘイデンもまた、長になるはずだった兄に複雑な感情を抱いていたのだろうか。
いくら自らが望んだ結果だったとはいえ、後ろめたさはあったのだろう。
「真実にどれだけの価値があるというのだ」
知の象徴ともいえる膨大な数の書物たちにすら、ヘイデンは嫌気がさしていたのかもしれない。
――
遠く離れた玲瓏の岩窟で、ヘイデンが暗澹たる気分で新たな年を迎えたことを、もちろんわたしは知る由もなかった。
仮設浴場のボヤ騒ぎは、お姉ちゃんの告白の機会を奪っただけではなかった。
「これ、ください」
市庁舎前の広場にあった露天に並べてある真鍮のブローチを、わたしは指差す。
露天商の男性は、わざとらしく目を見開いた。
「嬢ちゃんには、ちょっとおとなしすぎやしないかい?」
「人にあげるものだから、これでいいの」
「そうかい。じゃ……」
お代を突き出すようにわたすと、露天商はもう何も言わなかった。
「行こう。ターニャ」
「ああ」
あれから、わたしは外出を控えるように指示され、外出する時はいつもターニャと一緒だ。
年が明けて、もう5日。
仲間たちや市長は、竜の森の長たちと毎日のように会議を開いているようだけど、わたしを参加させてくれる様子はない。
その理由は、わたしを守るためだとしても、不満なものは不満だ。非常に面白くない。
「フィオ、そろそろ戻ろう」
「むぅ……」
久々の外出をもっと楽しみたかったのに、ターニャは用を済ませたならと、つまらないことを言う。
確かにプリシラへの贈り物が欲しいからとお願いして、広場にやってきた。
けれども、それだけで帰るというのは面白くない。
ムスッとしていると、ターニャもやれやれとため息をつく。
「まぁ、フィオの気持ちもわからないでもないけど……」
「なら、もっと……」
「だめだ」
「むぅ。わかった」
ターニャは、きっぱりとお願いを却下してきた。
あいかわらず、彼女はリュックベン市の町娘の丈の長いスカートを履いている。愛用の戦斧を持ち歩くのは不自然だから、帯に短剣を差している。帝国の女としてのたしなみだといえば、納得してもらえるそうだ。なんとも物騒なたしなみだけども、遠い北の帝国の人々が血を好む野蛮な印象を、リュックベンの市民たちは抱いているのだ。
わたしもこの街で一生を終えたら、その印象を変える機会に恵まれなかっただろう。
非常に面白くない気分で、上り坂になっている目抜き通りを歩く。
「そういじけなくても。もうしばらくの辛抱だからさ」
「それって、この街を出て行くまでって意味でしょ。むぅ」
ターニャは否定しなかった。ただただ、困った顔をするだけだ。
「わかってるわよ、ターニャ。みんなが、わたしのためにしてくれてることくらい」
わかっている。頭では、わかっている。
道に落ちていた小石を蹴る。蹴る力が弱かったせいか、ほんの少しだけわたしの前を行き、コロコロと足元に戻ってきた。その小石を追い越して、足取り重く家路を進む。
「わかっているの。わたしのためですらないってことも」
「フィオ!」
ターニャが咎めるような声をあげるけども、一度吐き出し始めた思いは止まらない。
「わたし――フィオナ・ガードナーじゃなくても、世界竜の花嫁なら誰だっていいのよ」
「フィオ!」
「むっ」
ターニャに手首をつかまれたと思ったら、彼女の腕の中にいた。
「誰かに聞かれたらどうするんだ」
「……ごめん」
素直に謝ったのに、ターニャは抱きしめる腕に力を込める。
「あたしは、フィオだからこうして一緒にいるんだ」
「……」
「花嫁なら誰でもいいなんて、あたしは考えていない。今だから言えるけど、会う前は、フィオのこと竜の森で甘やかされた嫌なやつだと思ってたんだ。なのに、フィオは全然嫌なやつじゃなかった。すごく可愛くて、人も竜も動かす魅力があるんだ」
「ターニャ」
彼女にも、わたしには言えないことがあったんだ。
打ち明けてくれたことを嬉しく思いつつ、同時に恥ずかしくなった。
「ターニャ、ごめん、恥ずかしい。うん、気持ちはすごく嬉しいけど、みんな見てる」
「あ……」
抱擁から解放してくれたターニャの顔が赤い。きまり悪そうな彼女の腕を、今度はわたしが掴む。
「帰ろか」
家から出られなかったことが、面白くなかったのではない。
きっと、胸に不満や不安をたくさん溜めこんでしまっただけだ。少し吐き出しただけで、こんなにも気分が軽くなる。
踊りだしそうなほど足取り軽く、目抜き通りを登っていく。
お姉ちゃんがわたしの手を引いてくれたように、わたしはターニャの手を引いている。ターニャは――いや、わたしの旅の仲間たち、家族、竜の森で世界竜族の帰りを待つみんなが、わたしにとって特別なのだ。
「フィオ、どうしたんだ、急に」
「むぅ。なんでもないの」
きっと、お姉ちゃんにとって市長がもっと特別な存在になったら、とても素晴らしいことだ。
細い路地にある裏口から、人目を避けるように我が家に帰ってくるなり、お母さんが工房から顔を覗かせて手招きしてきた。なにやら、ひどく困っているようだ。
ターニャと顔を見合わせて、工房に急ぐ。
「ターニャちゃん、お客さん来たらお願いしていいかい?」
「は、はい」
いつもと違うお母さんの様子に、ターニャは慌てて白い前掛けをして売り場に急ごうとした。
「ああ、お客さんが来たらでいいんだよ。あんたら二人に聞いてほしいんだ」
わたしとターニャは、顔を見合わせて首を傾げる。
そういえば、お父さんの姿が見えない。まさか、お父さんの身に何かあったのだろうか。
「あー、違うんだ、フィオ。アーチなら、ピンピンしてるよ。丈夫だけが取り柄だからね」
わかりやすく顔に書いてあったのだろう、お母さんは不安を否定して深いため息をついた。
「ヴァンとか言ったかね。ほら、風竜の……」
なぜ、お母さんの口からヴァンの名前が出てくるのだろうか。わたしの旅の仲間で、この街の入浴施設の建設計画に関わっているけども、お母さんとあまり関わりはなかったはずだ。
困り果てた顔でお母さんは、ヴァンが来ていると教えてくれた。
「むっ? うちに来ているの?」
「そうだよ。なんか、アーチに弟子入りしたいとかなんとか……」
「むぅううううう?」
「はぁあああああ?」
わたしもターニャも、思わず声を上げてしまった。店先にお客さんがいなくて本当によかった。
「ゲルダさん、意味がわからないんだが……」
「あたしもだよ。まったく、なんかよくわからないけど、アーチと話がこじれて、母屋で話ししてもらってんだ」
「お母さん。それで、まだ母屋にいるの?」
お母さんは大きく首を縦に振った。
「フィオやターニャちゃんの仲間なんだろ? フィオ、あんたからもなんか言っておくれよ」
「お母さん、わかった」
ターニャはついて来なかった。わたし一人で充分だろうと判断したのだろう。
ちょうど、ドアベルが鳴ってお客さんがやってきたのもあるかもしれない。
工房を飛び出して母屋に急ぐと、一階の食堂でお父さんにヴァンが頭を下げていた。
「駄目なものは駄目だ」
「なんでですか? 俺は親方の……」
「親方って呼ぶんじゃない」
お父さんは、怒っても声を荒げたりはしない。静かに、相手に言い聞かせるように、怒りを伝えてくる。だから、一見すると怒っているのかどうかわからないと思う人もいるかもしれない。でも、丸太のようにたくましい腕を組んでいるお父さんは、たしかに怒っているのだ。
「君を徒弟に雇うわけにはいかないんだ。だから、親方なんて呼ぶんじゃない」
「俺は、どうしても弟子になりたいんです」
どちらも引かない。お父さんも頑固なところはある。けれども、ヴァンも我の強い風竜だということを、わたしは忘れていた。
「フィオ、帰ってたのか」
「う、うん」
顔を上げたヴァンの銀色の瞳は、強情とも言うべき強い意志が宿っていた。
「お母さんから、だいたい話は聞いたから、ヴァンと二人きりで話したいんだけど……」
お父さんは、しばし考えてわかったと出ていった。
さて、この際だからヴァンの旅に対する気持ちもしっかり聞かせてもらおう。
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