客人
お姉ちゃんが飛び出していって、一人きりになった。
いつまでも、のんびりしているわけにもいかない。
お父さんとターニャは、ベーカリーの工房と売り場を掃除していると言っていた。
何かやることはないかと、そちらに足が向く。
几帳面なお父さんは、普段から店を閉めてから時間をかけて丁寧に工房と売り場を掃除をしている。だから、窯が冷えていること以外、普段と違うところはなかった。
「むぅ。二人ともいないじゃない」
お姉ちゃんに声をかけ忘れたのか、お姉ちゃんが聞いていなかったのか。
どちらにしても、お父さんとターニャはいなかった。
お母さんも買い出しに行っていない。
「お昼には、帰ってくるよね」
磨き上げられたカウンターを撫でる。
お父さんがパンを作るのをやめたら、誰がこのカウンターを磨くのだろうか。
「誰か、跡継いでくれるといいなぁ」
なんとなく、お姉ちゃんはパン屋で一生を終えるような人ではないと感じていた。
これで市長と上手くいけば、すぐにでもこの家を出ていくだろう。
わたしも、春になる前には再び故郷を離れ無くてはならない。
「むぅ」
ガードナーベーカリーのパンは世界一だ。それは、譲れない。
リュックベン市の特産品のオレンジで作られたマーマレードも、世界一だ。それも、譲れない。
「エルマー、戻ってくるといいのに」
わたしが知っているエルマーは、生意気な赤毛の少年だ。
数ヶ月前に失踪した徒弟の彼は、質の悪い人たちとつるんだりして問題を起こしていたそうだ。
お父さんは、若いからしかたがないと言っていたらしい。けども、お姉ちゃんとお母さんにとって、辟易するほどのろくでなしだったらしい。
「早く、新しい徒弟が見つかるといいのに」
カウンターの奥の椅子に座って店内を見渡す。
今日は店を閉めているから、目抜き通りに面したショーウィンドウから生成りのカーテンを透かした柔らかい日差しが、暖かく店内を照らしている。
なんとなくだけど、エルマーはもう戻ってこないと思う。本当に、なんとなくだけども。
ドアベルが鳴る。
誰かが帰ってきたと思って顔をあげるけども、灰色の頭巾をかぶった小柄な人影は見知らぬものだった。
「すみません。今日は休みなんで……っ」
言葉を失った。
杖をつく人影の危うげな足取りに、肝を冷やした。
考えるよりも先に、椅子を掴んで慌てて人影に駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「ええ。ありがとう。座らせてもらうわ」
わたしが差し出した手を掴んで、彼女――声はかすれていたけれども、言葉使いは女性のものだ――は、震える足をぎこちなく動かして椅子に座る。
彼女の顔は、うつむいているからよく見えなかったわけではなかった。灰色の汚れた頭巾の下の顔を、灰色の布を巻いて隠してしまっているせいだった。見えるのは、目元のみ。
「あなたが、フィオナさんね」
「は、はい」
「わたし、あなたとお話がしたくて、お邪魔しちゃったの。ほら、こんな体だから、あまり出歩けないのよ」
がに股に座った下半身を見下ろして彼女は、ため息をつく。紺色のスカートの上からでも、足は折れそうなほど細いことがよく分かる。おそらく、病気か怪我のせいで足を閉じることができないのだろう。
けれども――
「あの、わたしはあなたのこと知らないんです。だから、話がしたいと言われても……」
「困るわよね。でも、警戒しなくていいの。こんな体だし、あなたに危害を加えられないわ」
「警戒だなんて……」
していないとは言えない。
そもそも、わたしの名前を口にした時から、警戒していた。それでも言葉をかわしてしまったのは、彼女の痛々しい姿のせいだろう。
「わたしのことは、プリシラって呼んで。あなたのことは、ベンからよく聞かされてるの。嫉妬しちゃうわ」
「ベンって、あの……」
プリシラは、かすれた声でクスクス楽しそうに笑う。まるで少女のように。
「モール商会のベンよ。わたしもお隣りに住んでいるんだけど、外に出ないから誰もわたしのことを知らないの」
「そう、なの」
困惑するしかない。
そういえば、ベンの近くにいる人たちは、なぜか体が不自由な人ばかりだ。
ヒューゴという小柄な老人も、盲目で何も見えないと聞いている。
「ごめんなさい。こんな気味悪いお婆ちゃんと仲良くなんてなりたくないわよね」
プリシラはうなだれて、杖を持つ手に力を込めようとしていた。
わたしは、その手を両手で包む。
「そんなことないです。ただ、あまりにも突然だったもので、その……」
「ありがとう。本当に嬉しいわ」
もしかしたら、ベンのことで何かわかるかもしれない。
わたしはカウンターの奥から、もう一脚椅子を持ってくる。
確かに気味の悪い出で立ちだけども、不思議と彼女と仲良くなれそうな予感がしていた。
プリシラも、不思議な老婆だった。
声はしゃがれているし、手もシワだらけで骨ばっている。怪我か病気をしているのだろうけど、それなりに歳を重ねているはずだ。
けれども、彼女はまるで少女のようだった。
「……それでね、ベンはあなたのことを、すごく褒めるの。あなたのおかげで、入浴施設の計画が軌道に乗りそうだって」
「そんなことないわ。わたしなんか、ちっとも役に立っていない」
プリシラとのおしゃべりは、楽しかった。まるで同じくらいの年頃の少女と、しゃべっている気分だ。
「あら。フィオの思いつきのおかげで、地元の人たちが来るようになったのよ」
「そうだけど、あれは……」
あれは、ターニャの人気を利用しただけだ。
ターニャに言い寄る男たちに、祖国の湯治場のことをまじえながら仮設浴場に行くように勧めてもらったらどうかと、提案しただけだ。
一人でも興味を持ってくれればと思っていたけども、まさかあれほど効果があるとはと、わたしが一番驚いている。
男性客ばかりではなく、ターニャが美容にもいいとふれこめば、今では女性たちの方が仮設浴場に足を運ぶようになった。
「あれは、ターニャのおかげ」
「そんなことないわ。って、わたしが言っても説得力ないわよね。……そういえば、今朝、仮設浴場でボヤ騒ぎがあったらしいわ」
「えっ」
とんでもない話だ。
「知らなかったの? わたしも詳しいことは知らないけど、今朝早く、ベンが飛び出していってしまったの」
「そうなの……」
だとしたら、市長たちも大変なことになっているだろう。
お姉ちゃんの告白どころではないかもしれない。それは、別にいつでもいいのだけど。
「大丈夫よ。ベンたちも、想定内だっただろうし」
「えっ」
「人間と竜族が仲良くするのが、気に入らない連中もいるのよ。ほら……っ」
プリシラは苦しそうに咳き込み杖を床に落とした。
「……ごめんなさい。おしゃべりしすぎて、のどが渇いてしまったみたい。もう、帰らなきゃね」
「あ、わたしものどが渇いたから、飲むもの持ってくるわ」
母屋にヴァンがパナル草で作ったコーディアルが、残っていたはずだ。それを水で薄めて持ってこよう。
カウンターを抜けて、工房に足を運ぼうとした時だった。
激しいドアベルの音とともに、誰かがやってきたのは。
「プリシラ! ダメじゃないか、一人で出歩いたら。さ、帰ろう」
これほど取り乱したベンは、始めてみた。
「いやよ。まだフィオと話がしたいの」
「ダメだ!」
髪を振り乱したベンの尋常ではない取り乱した姿に、わたしは一瞬だけ肝を冷やした。そう、一瞬だけ。
「ベンさん、わたしもプリシラとまだおしゃべりしたいです」
抵抗する力もないプリシラを無理やり抱きかかえたベンは、血走った目で睨みつけてきた。思わずたじろいでしまったほどだ。
「僕のプリシラは、外に出られるような体じゃないんだ。フィオナさんのような人にはわからないだろうが……」
「ベン、やめて。お願い。わたしの楽しかった時間を、嫌なものにしないで」
プリシラのか弱い訴えに、ベンは我に返ったようだ。気まずそうに、わたしから目をそらした。
「すみません。我を忘れてしまって……」
それほど、彼女のことが大切なのだろうか。かなり歳が離れているだろうに、まるで恋人か何かのようだ。
彼女が一人で出歩けるような体ではないことは、この短い時間でよくわかっていた。
「いえ、いいんです。無理をさせてしまったなら、わたしのほうこそ、申し訳ないですし。……よかったら、遊びに行ってもいいですか?」
「もちろんよ」
ベンの胸に頭をあずけたプリシラの嬉しそうな声は、先ほどよりも弱々しく、苦しそうだった。やはり無理をしていたのだろう。
「……プリシラが、そういうなら」
渋々といった感じで、ベンは首を縦に振った。
近いうちに会いに行くと約束して、ベンはプリシラを連れ帰る。
ドアベルの音が、いつもよりも切なく聞こえた。
会いに行くときは、プリシラが大好きだと言ってくれた、お父さんのフカフカのパンとマーマレードを持っていくことにしよう。
「むぅ。ボヤ騒ぎのことは、お姉ちゃんに訊けばいいか」
やはり、真理派の仕業だろうか。
再び一人きりになった売り場が、少しだけ暗くなったように感じてしまった。
お姉ちゃんから聞く必要はなかった。
すぐに帰ってきたターニャが、被害は大したことなかったが、真理派の仕業だと教えてくれた。
それから、護衛として気が緩んでいたと彼女は、必要ないのに頭を下げてきた。
「真理派の連中は、なにがそんなに気に入らないんだ」
荷物を抱えてターニャと一緒に帰ってきたお父さんが、ぽつりと嘆く。
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