リーナ

 ユリウスから、夢見の乙女と教えられたせいだろうか。

 故郷のリュックベンに帰還してから、夢を見ている時に夢だと自覚することがで多くなった。


 今、世界の中心の塔の中にいるのは、どう考えても夢だろう。


 宙に浮かぶ巨大な光石こうせきの結晶がなかったら、暗闇に閉ざされて、どこにいるかわからなかっただろう。わたしが仲間たちと訪れた時は、無数の窓から光が差し込んでいた。今――夢の中――では、一つも窓はなかった。

 色硝子の星空の配置は、アーウィンならば、何か読み取ることができただろうか。あいにく、わたしはただ美しいとしか感じられない。

 光石と色硝子が作り上げる星空は、そう、美しい。幻想的で、どことなく儚げで、とても美しい。


「機は熟した」


 不意に背後から響いてきた声。

 振り返る前から、声の主はわかっている。ユリウスだ。

 けれども、振り返った背後から歩み寄るユリウスの顔は青ざめ、わたしの存在に気がついていないようだった。


「一なる女神よ、余を笑うがいい。我が一族が目を背け続けた罪への贖いではなく、余の――わたしの望みのためだけに、我が一族の命を犠牲にするのだからな。クククッ」


 乾いた笑い声が、塔内に虚しく響く。


「ユリウス?」


 近づいてくる彼は、わたしに気がついていない。

 もしかしたら――と、ある予感に胸がざわつく。胸元の小袋を握りしめても、なんの気休めにもならないほど、不吉な予感だった。


「クククッ……あー、こんな滑稽なことはない。間もなく、二つの満月が昇り、星の光は意味をなさなくなる」


 中央付近に立っていたわたしの側までやってきた彼は、肩を落とした。


「一なる女神よ、だがどうか、どうか、我が一族に楽園の憩いを与えてほしい。責め苦を負うのは、わたしだけで充分のはずだ」


 その青ざめた顔は、やりきれない苦悩が現れていたのかもしれない。


「機は熟した。もう繰り返すわけにはいかない」


 彼は腕輪をはめた左腕を、ゆっくりと横に持ち上げる。

 ガラガラと音を立てて、色硝子の星空は激しく様変わりしていく。

 地下に落とされた時よりも、激しく狂ったように塔が姿を変えていく。

 あまりの激しい光の奔流にめまいを覚えた。


「ユリウス! ユリウス、あなた……」


 めまいに頭を押さえたその一瞬、ユリウスの悲しげな金色の瞳に、わたしが写ったような気がした。




 ――


 斜めに傾くはりが、我が家だと教えてくれた。


「むぅ」


 やはり、あれは嘆きの夜の光景だったのだろう。

 ぼんやりと天井を見上げながら、夢を思い返す。


 顔の前に掲げた右の手首の黄金の腕輪に、そっと触れてみた。チリンチリンと鳴る軽やかな音は、ずいぶん前から気にならなくなっていた。


「世界竜族が目を背けてきた罪、かぁ」


 想像もつかないし、ユリウスとはあれから会話していない。たとえ会話できたとしても、いいようにはぐらかされるに決まっている。


「むぅ……」


 そろそろ起きなきゃいけない。

 天窓から差し込む日差しが、朝早くはないと教えてくれる。いつまでもベッドの中で過ごすわけにはいかない。


 この夢を、アンバーや地竜族の長ヘイデンにも相談したほうがいいだろう。

 身支度を終えて一階に降りると、珍しくお姉ちゃんがいた。


「おはよう、フィオ」


「おはよう。今日はまだ家にいるの?」


 お姉ちゃんは、きょとんとして瞬きを繰り返した。


「何言ってるの? 今日は秋の終月30日。一年の最後の日よ」


「むっ」


 そうだった。今日は、一年で最後の日。大抵の人々は、家でゆっくりと新しい年を迎える。


 お父さんとターニャは店と工房の大掃除、お母さんは朝市に買い出しに行っているらしい。


「ほら、お寝坊のフィオのためにとっておいた朝ごはん」


「別に起こしてくれてもよかったのに」


 お姉ちゃんに文句を言うが、軽く笑い飛ばされた。


「何言ってるの。起こしても起きなかったくせに」


「そうなの?」


 食卓について、一なる女神さまに祈りを捧げてから、ちょっと冷めたパンを手に取る。


「フィオは、昔っから寝起き悪いもの。今さらよ」


「今さら、かぁ」


 今さらといえば、わたしもお姉ちゃんに言わなければならないことがあった。


「わたし、ずっとお姉ちゃんに言いたいことあったんだけど……」


「ん?」


 お姉ちゃんが沸かしたてのお湯をポットに注ぐと、馴染みのある優しい香りがした。

 イムリ茶だ。

 沸かしたてのお湯ではなく少し冷ましたお湯が、正しい淹れ方なのに。しかも、あろうことか砂時計を用意していない。


「お姉ちゃん、それ、イムリ茶だよね?」


「そうよ。……はい、冷めないうちに飲みなさい」


「むぅ」


 楽園で憩うているライオスなら、容赦なく淹れ直しを命じるだろう。間違いない。

 素焼きのカップに注がれたイムリ茶は、予想通り薄い。


「それで言いたいことって、なに?」


「あのね、その……」


 言いたいことは、たくさんある。しかし、最後のパンのかけらとともに言葉を飲みこんでしまったようだ。薄いイムリ茶をすすりながら言葉を探す。

 向かいに座ったお姉ちゃんは、どこかぼんやりとしているように見えた。


「お姉ちゃんは、どうして市長の秘書をやっているの?」


「あー、それね」


 困ったように笑うお姉ちゃんは、なんとなく訊いてくれて嬉しそうにも見えた。


「あたしが、カルのこと好きだからよ」


「むぅ」


 イムリ茶が、ごくごく飲めないほど熱々でよかった。そうでなかったら、吹き出してしまっていただろう。

 そうだろうという気はしていた。けれども、あっさり認めるとは思わなかった。


 お姉ちゃんは、照れながらも市長との馴れ初めから嬉しそうに話してくれた。


 三年前に店先で行き倒れていた青年に声をかけたのが始まりだったというから、驚きだ。その行き倒れの青年が、半年後に市長になるカルヴィン・ワイズマンだったというのだから。

 留学先の聖王国から戻ってくる旅の途中で、所持金をほとんど失っていたらしい。そのせいで、満足に食事もできなかった行き倒れの彼にとって、お姉ちゃんはまさに命の恩人だったらしい。


「すごいのよ、カルは。みんなは、この街の生活で満足するのはおかしいって。誰も期待してなかったのに、学校や病院をつくらなきゃって。まだまだこれから、この街は良くなっていけるんだって……」


 恋する乙女とは、まさにお姉ちゃんのことだ。

 うっとりした顔で、熱のこもった声で愛しい人のことを語る。

 正直、うらやましい。

 わたしもいつか、まだ見ぬ世界竜の花婿をこうして語る日が来るだろうか。


「……で、カルに無理言って秘書やっているわけ。あ、ごめんね、フィオ。フィオが世界竜の花嫁だってこと教えたの、あたしなの」


「なんとなく、そんな気がしていた」


「そっか」


 ここで初めて、お姉ちゃんの表情が曇った。あーあとため息すらついている。


「ほら、フィオが旅立って半年も行方知れずだったでしょ。あたし、とっても心配したし、何かあったらどうしようって、不安になってたんだと思うの。それで、カルに話ちゃったのよ。あ、もちろん、カルにだけ。他の誰にも話してないから、安心してね」


 安心してはいけない気がする。あえて口にしなかったけども。


「もちろん、フィオのこと聞いて、カルも驚いていたわ。それこそ、しばらく口がきけなくなったくらい。で、プロポーズされたの」


「プロポーズっ」


 切ないため息なんて、つかないでほしい。好きな人からプロポーズされたのに、どうしてそんなつらそうな顔をするのか理解できない。


「世界竜の花嫁の姉と結婚すれば、箔がつくって考えたみたい」


「そんなの、ひどすぎる! あんまりじゃない」


「そうかなぁ。普通に考えたら、当たり前だと思うけど。ま、そんなことより、そのプロポーズがひどかったの」


 お姉ちゃんが両手で食卓を叩くと、素焼きのカップの中のイムリ茶が波立った。


「さっきも言ったけど、特別なフィオの姉として結婚するのは別にいいわ。それはいいのよ。結婚してからでも、愛を育めるはずだもの。それなのに、それなのにぃい」


 食卓に突っ伏したお姉ちゃんの声は震えている。


「カルの馬鹿が、リュックベン市と結婚してるくらいこの街を愛していることくらい知ってたわよ。そんなカルだから、あたしは好きなんだし。でも、でも、あたしに結婚しようって言ったその舌の根が乾かないうちに、あんなこと言うなんてぇええ」


 それほどひどいことを、言われたのだろうか。


「カルの馬鹿ね、結婚していい男が現れたら、不倫していいって……。子どもができても、養子にするって……。カルの馬鹿っ、あたしはあんたが好きなのに、なんでなんで……」


「むぅ」


 こういう時は、なんて言えばいいのだろうか。

 つまり、市長はお姉ちゃんの気持ちに気がついていないのだろう。

 わたしですら、気がついていたというのに。


「ねぇ、お姉ちゃん……」


「なによぉ。慰めてくれなくてもいいんだからぁ」


 食卓に突っ伏したお姉ちゃんの顔はわからないけども、泣いてはいない気がする。すねているのだろう。

 まったくこれでは、どちらが姉かわかったものではない。


「お姉ちゃんは、市長に気持ちを伝えたの?」


「…………」


 どうやら、伝えていないようだ。

 お姉ちゃんは、とてもわかりやすい性格をしている。だから、お姉ちゃんの好意に気がつかない市長に、期待しないほうがいいだろう。


「お姉ちゃんも、リュックベンの女なんだから、『好きだ』って言えばいいじゃない。そうすればきっと……」


「そうね、そうよ!」


 勢いよく食卓から顔を引き剥がしたお姉ちゃんは、若草色の瞳をキラキラ輝かせている。わかりやすい。


「やっぱり、フィオは特別よ! こうしちゃいられないわ。行ってくるね」


「いってらっしゃい」


 思いついたら即行動。

 それが、わたしの姉のリーナ・ガードナーだ。時に振り回されて腹が立つこともあるけれども、やはり大好きな姉だ。


 家を飛び出していったお姉ちゃんには、いつも元気に笑っていてほしい。


 きっとよい年を迎えられるだろう。

 お姉ちゃんの薄いイムリ茶を飲みながら、そう感じていた。


 けれども、この日。

 わたしは、この世界にはびこる悪意の存在を思い知ることになる。

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