仮設浴場
お姉ちゃんのリーナは、思いたったら即行動せずにはいられないような人だ。後先なんて、まったく考えない。
昔から、そのことでお母さんによく怒られては泣いていた。
そういえば、わたしの手をひいてダグラスに会いに行った時も、そうだったではないか。
お姉ちゃんは、もう二十歳。
立派なリュックベンの女として、結婚してもおかしくない年頃だ。というか、すでに行き遅れそうで怖い。
「むぅ。お姉ちゃんたら……」
仮設浴場は、波止場の向こうにあると聞いている。古い倉庫をモール商会が買い取って、仮設浴場を作っていると。
リュックベン市の財政は、市民が学校に通う助成金にあてたり、新しい病院の建設を計画していたりで、入浴施設の方まで資金を捻出できなかった。そこで、モール商会のベンが今後の入浴施設で潤う財政の一部で返済することを条件に、多額な資金援助までしてくれることになったらしい。
なぜ、モール商会がそこまで力を入れてくれるのか、ずっと不思議だった。一度ベンに尋ねてみたいと思いつつ、ずっと機会を逃している。
それにしても、お姉ちゃんの暴走癖はどうにかならないだろうか。
「フィオ、遅いじゃない。心配させないでよ」
「むぅ。お姉ちゃん……」
案の定、波止場の手前にいたお姉ちゃんは、大事なことを伝え忘れたことにも気がついていないようだ。
仁王立ちしているお姉ちゃんと疲れのせいで、がっくりと肩を落としてしまった。
「とにかくっ、早く行くよ」
「むっ」
お姉ちゃんに腕を掴まれて、仮設浴場に連れて行かれる。そんなわたしの姿に、ターニャが苦笑いを浮かべながら歩いてくる。
本当にお姉ちゃんにはかなわない。
波止場の倉庫街の中に、仮設浴場はあった。
もともと倉庫だったものを改装しているから、外から見ても浴場だとすぐに気がつかない。
屋根と外壁の隙間からモクモクと立ち昇る湯気だけが、浴場だと教えてくれる。
きっかけとなったライラは、すでに中で待っていた。
「待ちくたびれましたわ」
奥の
この街に留まることに一番反対していたのは、彼女だったということを、忘れてしまいそうになる。
あらかじめ、男性は遠ざけてくれていたようで、お姉ちゃんがざっくりと仮設浴場の説明をしてくれる。
「衝立の向こうが、脱衣所になっているわ。かごも用意してあるから、脱いだ服とかを入れてね。脱衣所にもう一枚衝立があって、その向こうが浴室になってるわ。何かあったら声かけてね。あたしはここにいるから」
「む? お姉ちゃんは、入らないの?」
「な、な、何言ってるの」
お姉ちゃんは、腰に手を当ててわたしの顔を覗きこんできた。わたしに何か言い聞かせるときの癖だけど、顔が赤い。
「あたしはっ、ここでまだやることあるから」
別に顔を赤くするようなことではないと思うのだけど、その理由は後ほど知ることとなる。
「フィオ、早くおいでなさいなぁ」
「むっ! ライラ、今行く」
衝立の向こうから、ライラの待ちきれない声が聞こえてきた。先に入っていればいいのに。
二十人浸かっても、ゆとりのありそうな浴槽は、仮設浴場にしておくにはもったいなさすぎる。
「素敵ですわぁ」
結局、ライラは待ちきれずに先に湯船に浸かっていた。
よくよく考えてみれば、黒い都の竜王の館以来のお風呂だ。あの時も広いお風呂だと思ったが、この仮設浴場はもっと広かった。
「むぅうう」
癒される。熱すぎもせず、ぬる過ぎもしない。心地よい湯加減だ。
じんわりと体の芯まで温めてくれる。知らず知らずのうちに溜まっていた疲れが溶けていく。心もほぐれていく。
白く濁ったお湯は、ヴァンが用意してくれた薬草を溶かしているのだろう。
片手ですくったお湯を肩にかけているターニャも、心地よさそうだ。
「やっぱ、気持ちいいなぁ」
お姉ちゃんも入ればよかったのに。
茶色のタイルの浴槽の縁を撫でながら、ライラもうっとりとくつろいでいる。
「わたくし、ずっと楽しみにしておりましたのよ。三日前から利用していた殿方が気持ちよさそうな顔をして出てくるのを見る度に、うらやましくてうらやましくて……」
「なんだ。あたしたちが初めて使うのかと思ってたのに……」
「違いますわ、ターニャ。薬湯の準備にヴァンが手間取っている間に、波止場の殿方に先に利用してもらっていたのですわ」
許せませんわと、ワナワナと肩を震わせながら拳を握りしめるライラを、ターニャがまぁまぁと肩を叩いてなだめる。
ライラは、とてもお風呂が好きなようだ。
それにしても――。
「むぅ……」
それにしても、ライラとターニャは、女らしい体つきをしている。つまり、胸の膨らみが豊かだということ。
竜王の館の浴室よりも、光石ランプをふんだんに使った仮設浴場では、彼女たちの体型を余すことなく見せつけられる。
特にライラ。服を着ているときも気になっていたけども、脱いだら脱いだで目がいってしまう。
「むぅ…………」
自分の貧相な胸を寄せてみるけど、彼女たちのような谷間はできない。
「まぁ。フィオったら……」
「むっ! ライラっ、ちょっ……」
いつの間にか目の前に接近していたライラが不敵な笑みを浮かべながら、両手をわきわきと動かしている。
怖い。
急いで浴槽を出ようとしたら、横から伸びてきた淡い桃色に色づいた腕に絡め取られる。
「ターニャまでっ」
「フィオは、よく食べるのに意外と細いな」
「やめっ……きゃっ」
ターニャは背後に回りこんで、わたしの肉づきを確かめるように、肩や腕を触ってくる。時々、ターニャの柔らかい胸が背中にあたって辛い。
「観念なさいな、フィオ」
「ライラ、胸だけはやめっ……」
――
何のための入浴だったのか。
新しい服に着替えて、あらためて考える。
間違っても、ライラに胸を揉まれるためではなかったはずだ。
「むぅ……」
疲れた。
癖の強い髪の水気をあらかた拭って、脱衣所の向こう側にあった椅子に体をあずける。
「オレンジジュースは、おかわりも用意してあるから、遠慮なく言ってよね」
搾りたてのオレンジの色がよく映えるガラスのコップを配り終えると、お姉ちゃんは仮設浴場の感想を尋ねてくる。
「正直、もう少し熱くてもと思いましたけど、のんびり浸かっているとちょうどいい湯加減でしたわ」
「確かにな。時間によって湯加減は変わるかもしれない。あたしは、今日みたいにゆっくり浸かることは滅多にないからなぁ」
ライラとターニャの率直な意見を聞きながら、わたしはそこまで細かい意見を用意できなかったことに気がついた。
「……確かに、そこは改善したほうがよさそうね。で、フィオはどうだった?」
「むぅ……」
お姉ちゃんの真剣な顔つきに、なんて答えればいいのか。答えを探すうちに、不意にひらめいた考えに口元が意地悪く歪むのがわかった。
「お姉ちゃんは、入ってみたの? わたし、お姉ちゃんの意見も聞きたいなぁ」
「あたしの意見?」
ひどく驚いたお姉ちゃんは、とんでもないと首を横に振る。
「他人の前で裸になるなんて、無理。恥ずかしすぎるじゃない」
わたしにしてみれば、お姉ちゃんの答えは予想外だった。
「そうなのよねぇ。リュックベンの方々は、同性でも他人の前で裸になることに抵抗があるようなのよねぇ」
ライラが二杯めのオレンジジュースを飲み干して、もったいないとため息をつく。
どうやら、三日前から試験的に動かしている仮設浴場だけど、リュックベン市民は利用したがらなかったらしい。理由は、お姉ちゃんが言った通りだ。他人の前で裸になるなんて、想像すらしたことがない人たちが多かったようだ。
幼いころにリュックベンを離れたから、わたしは抵抗がなかった。けれども、生粋のリュックベン市民には、入浴施設の敷居は高すぎるらしい。
「むぅ。もったいない」
どうすれば、お姉ちゃんをはじめとした故郷の人々の抵抗をなくせるだろうか。
ふと、頭の片隅からぼんやりと浮かんできた方法がある。どうにか、はっきりした形にしなくては。
「リーナ、もうそろそろいいかい?」
「あ、いけない」
外で待っていた市長の声がした。
どうやら、女性のわたしたちのために、外で待っていてくれたらしい。お姉ちゃんは、パタパタと外に迎えに行った。
「わざわざ、迎えに行くことないんじゃないか」
「わからないの、ターニャ?」
「……ああ、なるほど」
ターニャとライラは、ニヤニヤ笑いながら何かを共有している。わたしが聞き出そうとすると、ターニャが目で『後で教える』と伝えてきた。
「ゆっくり、くつろいでいただけたようですね」
お姉ちゃんが連れて戻ってきたのは、市長の他にアーウィン、アンバー、ヴァンといったおなじみの顔ぶれがいた。
「ローワンはどうしたの?」
「あいつなら、後で来るよ、フィオ。モール商会のやつらと、ドレスガル市の視察団に木炭を売り込んでるんだ」
水竜のアーウィンの答えには、馴染みのない単語があった。わたしが不思議そうな顔をすると、彼は肩をすくめた。ローワンに訊けと言いたげな顔だ。
そんなアーウィンの代わりに、地竜のアンバーが鼻を鳴らして教えてくれた。
「燃料だよ。長時間燃えるし、煙も出ない。詳しいことまで教えてくれないけど、火竜族のやつら、あんな使える技術を隠してたなんて……」
アンバーらしい。悔しさを隠そうともしていない。
なだめるように肩を叩く風竜のヴァンの姿に、思わず笑ってしまう。
よくよく考えてみれば、こうして旅の仲間が顔ぶれを揃えるなんて久しぶりのことではないだろうか。
仮設浴場の意見は、ターニャとライラがお姉ちゃんに伝えてある。
ならば、わたしが思いついた作戦を口にする番ではないか。
「わたし、考えてみたんだけど……」
「待たせたなぁ」
ローワンが、赤い長衣をひるがえして勢いよくやってきた。待ってないとか、遅いと笑いながら好き勝手言われるが、鼻で笑い飛ばしてみせた。
「わりぃけど、ちょっと抜けてきただけで、すぐ戻らなきゃなんねぇんだよ。ドレスガルの連中、木炭に興味津々でさ」
嬉しそうに笑ったローワンは、どうしても言いたいことがあったからと、わたしの両肩を掴んで真剣な顔で覗き込んできた。
「フィオちゃん。気にしなくていいからな」
「む?」
「おっぱいはデカけりゃいいってもんじゃない。俺、貧乳が好きだ。だから、気にするな」
「…………」
これは、つまり入浴中の恥ずかしい会話を全部聞かれていたということだろうか。
ポンポンと肩を叩いてくれるローワンは、本気で励ましてくれたのだろうけど、嬉しくない。むしろ――
「ローワン、よぉく、わかったわ」
「そっか、じゃあ俺は……うぐっ」
みぞおちを押さえて体をくの字に曲げるローワンに、わたしの拳もしっかり通用したようだ。
まさか陽炎の荒野で身につけた護身術を、仲間に使うなんて思わなかったけど。
「あ、あ、悪いけど、まだやることあるから」
ヴァンがまっさきに逃げ出すと、我先にとアーウィンとアンバー、それから市長も続く。
もちろん、わたしもターニャもライラも逃がすつもりはない。
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