第三章 故郷のために
故郷に足りないモノ
このリュックベン市は、変わらなくてはならない。
都市連盟に加盟している都市国家の中でも、向上心のない街だということを、僕は嫌というほど思い知らされた。
大陸最南端という要所にある都市国家だというのに、その利点を恐ろしく活かせていない。
街の人も、一度でもいいから街の外に出てみるといい。
そうすれば、気がつくだろうから。
もっと、この街は発展できるはずだ。そのことに気がついていないだけだ。
僕が市長になったら、街の人たちの意識を変えてみせる。そして、この街を豊かにしてみせる。
『カルヴィン・ワイズマンの手記』より
―――
予期せぬ帰郷から、ひと月後の秋の終月13日、昼過ぎ。
わたしは、ガードナーベーカリーのカウンターの隅で店番をしている。
「今日もターニャちゃん、キレイだね」
「馬鹿言ってるんじゃないよ。ほら、お釣り」
ターニャが男性客の相手をしている。護衛として我が家に居候しているから、一緒に店番をするのはしかたがない。
けれども、彼女が男性客にチヤホヤされているのは、非常に面白くない。
ターニャは綺麗な人だ。初めて会ったときから、知っている。
帝国人特有の雪のような白い肌に、癖のない細い金髪。
数々の武人が帝国で活躍してきた名門レノヴァ家の娘だからだろうか、引き締まった手足は細いくせに折れそうな弱々しさはない。
革の篭手や胸当ての旅装束から、リュックベン市の町娘の服に着替えても、彼女の魅力はまったく損なわれていない。
わたしは、今も活き活きと輝く彼女の藍色の瞳に魅せられている。
下心をのぞかせている男性客を明るくさばくなんて、わたしには無理だ。
「フィオ、どうしたんだい? ボーっとしちゃって」
「むぅ。ターニャはきれいだなぁって」
鼻の下を伸ばした船乗りたちが店を出ていくと、ターニャはわたしの隣りに座って首を傾げる。
「なに言ってるんだい。フィオが頭巾なんか被っているから、あたしのところによってくるんだよ」
「そんなことないと思うけど……」
母さんが新しく作ってくれた水色の頭巾に、思わず手をやる。それから、ターニャの胸の膨らみにも目をやってしまう。
絶対に、頭巾のせいではないはず。
明らかに、ターニャを目当てにやってくる男性客が多いし、その男性客に縁のある女性からどうにかならないかと押しかけられたことも一度や二度ではない。
そもそも、わたしたちは店番をしている場合ではないはずだ。
市長の公邸で、水鏡越しで話し合いが行われた翌日。
二十年以上、この街の春の大祭を盛り上げてくれた船頭のダグラスと契約を打ち切ることは、わたしが考えていたよりもあっさり行われた。
「老竜ライオス亡き今、人間と我ら四竜族の新たな関係を模索したい」
市庁舎の前に竜の姿で現れたダグラスが宣言した時の広場の光景が、今でも脳裏から離れない。
正直、もっと騒然とすると思っていた。けど、みんなの急に現れた水竜に驚くばかりで、彼が何を言ったのかすぐに理解できなかったようだ。
もしかしたら、それすらも計算していたのかもしれない。
そうでなかったら、入れ違うように飛来してきた四竜族の若者たちを受け入れることは、容易ではなかったはずだ。
わたしは、すべて広場の片隅で見ていただけだ。
当事者のはずなのに、故郷では北の帝国で養子に出されたパン屋の娘が里帰りしたことになっている。
護衛として、ターニャが一つ屋根の下で寝泊まりしてくれるのはありがたいのだが、こうして一緒に店番をしていると複雑な気持ちになる。
客の流れが止まったのを確認してから、わたしはカウンターに突っ伏した。
「むぅ。わたし、なにもしてないよね」
「また、そんなこと言って……」
ターニャの大きなため息が聞こえるけど、聞こえなかったことにする。
今こうして悶々としている間も、四竜族の仲間たちはリュックベン市のために忙しいはずだ。
ダグラスの代わりに竜の森から遣わされた若者たち。もちろん、わたしの仲間たちだ。
『まずは、あの市長の提案を成功させろ。いつか答えを見つけ、世界を導くその先で――あるいは、その途中で、お前は花婿と出会うことになるだろう。いいか? 必ず成功させるのだ』
ユリウスの言葉通り、わたしも何かしようとしたのだ。
けれども、何をすればいいのか、わたしはもちろん、仲間たちや、お姉ちゃんにもわからなかった。お粗末な話だけど、市長も具体的なことは考えていなかったのだ。
この街をよりよくするために、何が足りないのか。それは、この町で生まれ育ったお姉ちゃんたちには、すぐにわからないものだ。
きっかけとなったのは、ダグラスとの契約解除の翌日のライラのひと言だった。
「お風呂に入りたいですわ」
世界竜族の生き残り探しは、あてのない旅だ。聖王国の第三王女とはいえ、かなりの不自由は覚悟していただろう。けれども、今はリュックベンに数カ月滞在することになっている。
だからこれは、思わずこぼれてしまった愚痴といった感覚だったのだろう。
ローワンが目を輝かせるとは、ライラだって驚いたはず。
「それだ! ライラ、それだ」
あの時、ローワンがまた馬鹿なことを言っていると、誰もが思ったはずだ。みんなそういう顔をしていたし、そういう空気だった。間違いない。
「だから、風呂だよ。風呂。俺、聞いたことあるけど、帝国のどっかに、『おーじば』ってでっかい風呂があるって」
「湯治場、な」
ターニャがすかさず訂正する。
「……知らないのか? 湯治場っていうのは、特に体にいい温泉のことだ」
首を傾げていたのは、お姉ちゃんとわたしだけではないはずだ。
そもそも、リュックベンでは入浴という習慣がない。大陸最南端という暖かい気候のせいか、水浴びか濡らした布で体を拭くだけだ。
風呂というものを知っていても、この街をよくすることにどう繋がるというのだろうか。
「聞いたことがありますよ、ターニャさん。確か……」
市庁舎から戻ってきたばかりの市長が、説明してくれる。
温泉が天然の風呂のことだということは、わたしも知っていた。その温泉の中でも痛風などの病に効くと評判の湯治場は、帝国の外からわざわざ訪れる人も多いらしいと説明してくれる。彼は聖王国の大学に留学したことがあるそうで、わかりやすい説明だった。
うんうんと首を縦に振りながら、市長の話を聞いていたローワンが手を叩く。
「遠くから人が来るってことは、いいことだろ?」
「でも、このあたりに温泉なんてないが……」
「カルは、わかってないなぁ。だぁから、湯治場みたいなデカい風呂を作るんじゃねぇか。アーウィンは、水の調達。アンバーは、デカい風呂場を造る。ヴァンは、あるだろなんかこう風呂に使える体にいい薬とか。俺はもちろん、湯を沸かす方法。ちょうど、使えそうなやつがあるしな」
その気になっているローワンには申し訳ないが、誰もその気になっていない。
この部屋を満たしている冷めた空気を払拭してくれたのは、思いがけない来客だった。
使用人から来客の知らせを聞いた市長が連れて戻ってきたのは、灰褐色の髪の男と小柄な老人だった。
市民とはどこか違う身なりの良い灰褐色の髪の男は、まだ三十歳くらいのような気もするが、四十歳の若作りと言われても驚かないような気もする。そんな曖昧な印象を与えられた。どこかであった気がするのに、思い出せないでいるのは、その曖昧な印象のせいかもしれない。
灰褐色の男の後ろに控える老人は、節くれだった杖によりかかり背中を丸めうつむいているせいで、顔がよくわからない。ただ、灰褐色の男と同じくらい身なりを整えている。
隣りに座っていたお姉ちゃんがひどく驚いたのを、しっかりと肌で感じた。
「リーナさん、そんなに怖い顔をしないでください」
にこやかな笑みを浮かべた灰褐色の男の榛色の瞳は、笑っていない。作り笑いだとわかるのに、不思議と嫌な感じがしないのはなぜだろうか。
わたしも含め、みんな警戒している中、彼は市長よりも前に出て一礼する。優雅というよりも慇懃な振る舞いに、不遜さよりも実直さを感じてしまうから、不思議な男だ。
「はじめまして。僕はモール商会リュックベン支部の支部長ベンジャミン・ヒルズと申します。この度は、みなさまにご協力したく参上いたしました」
ようやくわたしは、この街に帰郷した夜に隣家の戸口から顔を覗かせた人影を思い出した。
ベンは、本当に不思議な男だった。
「昨日、実は僕もたまたま広場にいまして。四竜族の方々が街に貢献してくださるというのに、人間の我々が何もしないわけにはいかないと、いてもたってもいられなかったのです。ご存知でしょうが、モール商会は街の何でも屋。資金の調達、人材の確保、何でもいたします」
モール商会のベンの申し出に、誰もが戸惑った。
けれども、ローワンの馬鹿げた思いつきで具体的な計画を立ててしまうと、誰もがベンの有能さを認めた。
今では、モール商会のベンはリュックベン市に入浴施設建設計画になくてはならない存在。
市長も都市連盟に加盟する他の都市国家に、この試みを広めようと奔走している。後で知ったのだけど、ダグラスとの契約打ち切りの件で、そうとう神殿と揉めたらしい。神殿だけではない。波止場の有力者である船主と船乗りたち、市議会や商工会など、あちこちから市長を非難する声が上がったらしい。
今はなし崩し的に市長の提案を受け入れているが、もしも入浴施設の計画がうまくいかなかったら、市長は無事ではすまないだろう。
結局のところ、真理派の信者でなくとも竜族の介入を受け入れがたい人はいるのだと思い知らされた。例えば、自分たちの仕事が奪われるのではないかと不安にかられる者とか。
必ず成功させろと、ユリウスは言っていた。けども、わたしにできることなんて何一つない。
「むぅ。わたし、ほんとに情けないよねぇ」
「また、始まった」
カウンターに押しつけた頭を、ターニャにポンポンと叩かれる。
「フィオがいなかったら、市長だって馬鹿げた提案できなかったんだから、充分故郷のためになっているじゃないか」
「むぅ」
そう言ってくれるのは嬉しいけど、やはり納得できない。
お客さんがいないことをいいことに、勝手に落ち込んでいると、工房に通じている戸口から誰か来たのを気配で感じた。お父さんでないことは、すぐにわかる。わからなかったら、家族失格だ。
「あれぇ? お二人さん、まだいたんスか?」
カウンターから頭を引きはがして、声の主を見るとエルマーの代わりに臨時の徒弟に雇っていた少年がいた。わたしと同じくらいの年頃の彼の名前は、まだ覚えていない。だけど、左の手首から先が失われていなければ、徒弟にしてやりたいとお父さんが言っていたのは覚えている。
「早く行ったほうがいいですよ。どう考えても遅刻ッスよ」
「むぅ?」
困惑してたのはターニャも同じだった。
白い前掛けをした少年は、大げさなくらい口を大きく開けて驚いてみせる。
「リーナさんから、聞いてなかったんスか? 今日の昼から仮設浴場のお試しにお二人が呼ばれてるから、オイラが来たんスよ」
聞いていない。お姉ちゃんのことだから、言い忘れていたに決まっている。
わたしとターニャは顔を見合わせて、急いで前掛けを外す。
急がないと。今まで関わってこなかったのだから、この機会を逃す訳にはいかない。
「むぅ、お姉ちゃんたら、文句言ってやるんだから」
「後はよろしくな」
ドアベルを激しく鳴らして飛び出したわたしたちは、仮設浴場に急ぐ。
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