昼下がり我が家

 思いがけない帰郷の翌朝――ではなく昼過ぎ、わたしは懐かしい屋根裏部屋で目を覚ました。


「むぅ」


 夢を見ても、見てなくても、わたしは寝起きがいいとはいえない。

 ボンヤリと斜めに傾いている板張りの天井を眺めながら、自分というものを体になじませる時間が必要なのだ。

 しがないパン屋の娘で、世界竜族の花嫁であること。

 四竜族の若者たちと、北の帝国の女戦士、西の聖王国の姫君と旅をしている。

 黒い都でいろいろあって、我が家に帰ってきたのが、昨夜遅く。

 ライオスの死を知り、若き市長がとんでもない提案をして、返事は翌日ということになった。

 わたしの仲間たちは、とりあえず市長の公邸に泊めてもらって、わたしはお姉ちゃんと懐かしい屋根裏部屋で同じベッドの中で眠った。


「お姉ちゃん?」


 寝返りを打って、初めてお姉ちゃんがいないことに気がついた。


「お姉ちゃんっ」


 勢い良く上体を起こすと、ヒラリと床のキルトマットの上に紙きれが落ちた。

 ベッドから身を乗り出して、メモを拾い上げる。


「むぅ? 『フィオ、おはよう。ぐっすり眠れた? カルと一緒に、昨日の話をまとめてこなきゃいけないから、あたしは出かけるけど、フィオはしっかり休んでね。お父さんとお母さんと、ゆっくり過ごしなさいね。リーナ』……お姉ちゃん、ひどいよ」


 ひどすぎる。

 どうして、当事者のわたしをおいていけるのだろうか。


「もう、お昼じゃな……くっしゅん!」


 お姉ちゃんのスリップ一枚で寝てしまったせいで、体が冷えてしまった。早く着替えなくては。


 いくら最南端の港町とはいえ、秋にスリップ一枚で寝るのはよくなかったかもしれない。


「っしゅん! むぅ……」


 脱ぎ捨てた服は、洗濯に出してくれたのだろうか。狭くなった屋根裏部屋のどこにもない。しかたがないから、お姉ちゃんの服を拝借することにした。


 部屋の隅にある衣装ダンスの中から、下着から上着まで適当に見繕うだけで、懐かしさで胸が一杯になる。太めの糸で刺繍された赤や青の鳥や花は、着古された服を補強するためにお母さんが刺したものだ。

 お母さんの刺繍は、あいかわらず見事だ。


「やっぱり、お姉ちゃんの方が大きいのね」


 袖も身頃も、全体的に大きい。黒の巻きスカートの裾を引きずらないだけマシだろう。お姉ちゃんは、肩のあたりで癖の強い金髪を切りそろえていたからか、髪を結う物がない。しかたないから、オレンジ色の頭巾だけかぶることにした。

 しかし、丈の長い巻きスカートで梯子を降りるのは苦労した。

 いっそのこと下履き姿で、と考えが頭をよぎったのは、ほんの一瞬のことだ。さすがに、羞恥心くらいはある。


 母屋の一階にお母さんのゲルダはいた。

 明るい窓辺で、明るいオレンジ色の布に針を刺している。


「おはよう、お母さん」


「おはよう。ゆっくり休めたかい? スープを温めるから、待ってなさい」


「うん。ありがとう」


 八年前はしていなかった丸眼鏡を外して立ち上がるお母さんは、やっぱり痩せたんじゃないかと思う。もともと、ふっくらした体型だったから、不健康というわけではなさそうだけど。


 子供用の椅子は、当然ない。三脚ある椅子の中から適当に選んで座る。


「やっぱり、リーナの服は大きかったみたいだね」


「うん」


 お母さんは、かまどに置いた鍋の蓋の上にパンを並べる。


「しばらく家にいることになるって、聞いたからね。後でリーナのお古を直さないと。本当に突然帰ってくるんだから……」


「びっくりした?」


「当たり前だよ」


 フンと鼻を鳴らすお母さん。騒々しいくらい、再会を喜んでくれたお姉ちゃんとは違って、ちょっとそっけなく感じる。でも、お母さんもわたしが帰ってきたことを喜んでないわけがない。そのくらい、ちゃんと知ってる。


「竜の森で美味しいものを食べてきたんだろ? うちの料理が口にあうかどうか、わからないけど。お食べ」


「お父さんのパンより美味しいパンなんて、食べたことないわ。ガードナーベーカリーは、世界一のパン屋よ」


 ジャガイモのスープに、フカフカの我が家のパン。パンには、もちろん自家製のマーマレードをたっぷり塗らなくては。

 口にあわないなんて、とんでもない。

 こんな美味しい幸せな食事、ヴァンの料理でも味わえないのだから。


「フィオの食いしん坊は、昔から変わっていないねぇ」


「むぐっ」


 まさか、食いしん坊だなんて思われていたなんて。

 ショックが大きくて、パンを喉につまらせそうになった。


 お母さんは、窓際でまた針を動かし始める。


「しばらくいるって言っても、また出ていっちまうんだろう?」


「うん。……旅の途中だし」


「そっか。しかたないね。リーナが、もう少しうちのこと手伝ってくれたらいいんだけどねぇ」


「む?」


 そういえば、お姉ちゃんは8年間どう過ごしてきたのだろう。

 手紙や水鏡を通じてのやり取りでは、いつもわたしのことばかり話していた。


「ねぇ、お母さん。お姉ちゃん、今、何をしてるの? あ、お勤めに出ているのかとか、そういう意味で」


「おや、知らなかったのかい?」


 お母さんは、針を動かす手を止めて、眼鏡を外した。


「リーナなら、二年くらい前から、あの変わり者の市長の秘書だかなんだかで、よくわからないことやっているよ」


「むぅ?」


 市長の秘書というのは、立派な学校で優秀な成績をおさめて、それでもなれるかなれないかくらい、頭のいい人がなる仕事ではないだろうか。


 わたしの知るお姉ちゃんは、勉強嫌いだったはず。読み書きだって、わたしと手紙のやり取りがあったから覚えたようなもの。とても、市長の秘書という感じではない。


「まぁ、リーナはリーナでいろいろとあったんだよ」


 どこか苦々しそうにつぶやいて、お母さんは針仕事を再開する。


 パン籠いっぱいあったパンも、あっという間に食べ終えてしまった。食器をまとめて席を立つ。


「片付けはいいから、お父さんのところに行ってあげな。アーチも、ずっとフィオのこと心配してたんだから」


「ありがとう、お母さん」


 工房に行く前に、お母さんを抱きしめてもらった。やっぱり、お母さんは痩せてなんかいない。懐かしい匂いがする腕の中で、心から安心した。


 小さな中庭の向こうの工房は、香ばしい匂いで満たされていた。

 幼いころ、一度だけお姉ちゃんと小麦粉まみれになったことがあった。もちろん、こっぴどく怒られてからは、工房で遊ぼうなんて考えなくなった。

 その時怒られたせいもあってか、作業台に向かっているお父さんの背中にかけた声が強張ってしまう。


「お、お父さん……」


「フィ、フィオ! 起きたのか。まだ休んでなくていいのか?」


 お父さんのアーチボルドは大きな体に似合わないくらい、オロオロとわたしを気遣ってくれる。笑ってはいけないと思えば思うほど、ちょっとおかしくて笑ってしまう。


「う、うん。しっかり寝たから、大丈夫だよ」


 変な声が出てしまったのは、笑いをごまかしたからだ。


 お父さんは、パン種の管理をしていたらしい。瓶の中でパンになる時を待っているパン種を、棚に戻している。


「そういえば、エルマーがいなくなったとか……」


「ああ」


 そっけない返事は、その話題を避けたがっているのかもしれない。わたしに向けた大きな背中が、そう言っている。


「そんな顔しなくていい」


「むぅ」


 振り返ったお父さんの笑顔は、根拠もないのに安心してしまう。


「お隣のベンさんのおかげで、なんとかなってるからね」


「お隣のベンさん?」


 昨夜、戸口から顔をのぞかせた青年のことだろう。

 お父さんが売り場から持ってきた木のスツールに座って、工房の中を動き回る彼からお隣さんの話を聞いた。


「モール商会?」


「知らないのか。まぁ、しかたないか」


 お父さんがいうには、かなり有名らしい。


 三十年くらい前に、東の小国群のどこかで繊維を卸すことから始めたというモール商会。今では、都市連盟の都市国家や西の聖王国の各地に支部を構えるほど、大きな商会となっている。街の何でも屋として、売り出しているらしい。

 モール商会リュックベン支部の支部長ベンジャミン・ヒルズは、隣を事務所としているけども、波止場にも倉庫を持っていたりと、やり手らしい。


「今は、昼休みってことでいないが、忙しい時は人を貸してくれたりもするんだよ。もちろん、お金を払ってだけどね」


「むぅ。それは助かるだろうけど……」


 根本的な解決にはならないような気がする。新しい徒弟を雇わないと、ガードナーベーカリーがやっていけなくなるのではないか。

 言えるわけがなかった。わたしが跡取りになれなかった後ろめたさのせいで、言えなかった。


 わたしのことで、竜族から金銭的な不自由はしなくてすむことを知っている。

 それでも、ずっと素朴なこの店を続けてきたお父さんにとって、エルマーの失踪は大問題なのだろう。


「……早く、エルマーが見つかるといいね」


「エルマーのことも、新しい徒弟のことも、ベンさんに頼んではいるんだけどなぁ」


 思うようにいかないらしい。

 深い深いため息をついたお父さんは、店をたたむことも考えていたのかもしれない。


 思いもよらない形で跡取りが見つかることになるのだが、それはまだ先のことだ。


 ドアベルの音が売り場から聞こえてきた。

 お父さんが売り場に出る前に、赤い頭巾のお姉ちゃんが駆けこんできた。


「お父さん、フィオはまだ寝てるのかなぁ? 長たちが、フィオの意志が知りたいらしくって……」


「……お姉ちゃん」


 やはりお姉ちゃんが市長の秘書だなんて、信じられない。


「フィオ! 起きてたんだ。あたしの服、やっぱり大きかったね。お母さんがなんとかしてくれるよ。とにかく、来て。表に馬車待たせているから」


「むぅううう」


 半ば強引に連れて行かれるわたしに手を振るお父さんが、どこか悲しげな表情をしている。

 リュックベンの女は、強い。

 ドアベルの音を聞きながら、あらためてそう思った。


 二頭立ての四輪馬車に乗りこんで、お姉ちゃんが話し合いについてざっくり教えてくれた。


「……カルの提案が最善策だって、長たちもわかっているはずなのに、なかなか首を縦に振らないのよ。その挙句、フィオの意志だなんて、まったく、もう!」


「お姉ちゃん、落ち着いてよ」


 長たちにだって、自尊心というものがあるだろう。一族の父としての自尊心が。

 お姉ちゃんは落ち着いていられなかったようで、子どもっぽく頬を膨らませて身を乗り出してきた。


「で、フィオはなんて答えるつもり?」


「それは……」


 ――ィリンチリン


 右の腕輪が立てた音が、やけに響いた。


『どう答えるつもりだい?』


「……ユリウス」


 指先までしか見えないあの暗闇の中に、わたしはいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る