隣人たち

 あの時、お姉ちゃんと一緒に馬車に乗っていたのは、市長のカルヴィンだった。

 自称しがないパン屋の娘のお姉ちゃんと、このリュックベン市の市長のカルヴィンの関係を知るのは、もう少し後のことになる。だから、この話はまた機会にしよう。


 さて、隣人の青年がなにごとかと様子を見に来るほど騒々しい再会に、カルヴィンも気がついていた。引き返させることはせずに馬車を降りた彼は、ガードナーベーカリーの前でわたしたちの会話にずっと耳をすませていたのだという。

 まったく、とんでもないことだ。

 市長ともあろう者が、市民の家の会話を盗み聞きとは。その前に、大都市ではないにしろ、市長が一人で夜道をふらつくというのもどうかと思う。

 お姉ちゃんからわたしのことを聞いていた彼が、いてもたってもいられなくなり、ガードナーベーカリーのドアを開けたというわけだ。


 若き市長のほかにもう一人、わたしたちの会話を盗み聞きしていた者がいた。

 カーテン越しとはいえ、灯りの届くところにいたカルヴィンとは違い、その人影は暗がりにうずくまっていた。まさに影のように、彼は暗がりに溶けこんでいた。

 ガードナーベーカリーの外壁に背中を預けてうずくまる姿は、乞食そのもの。


 カルヴィンの驚くべき提案を耳にしても、人影はピクリともしなかった。

 もしも、誰かが彼の前を通ったとしても、石像に見えたかもしれない。

 そのくらい、人影は動かなかった。


「それでは、また明日にでも」


 上機嫌なカルヴィンが、仮の宿にとわたしの仲間たちとともに外に出てきた時には、人影はもういなかった。




 ――


 目抜き通りに面した二階の部屋の中を、ベンは歩きまわっていた。時おり足を止めては、暗い窓の外に目を向ける。右の耳たぶに手をやるのは、彼が考え事をしている時の癖だ。

 灯りは、壁際のデスクの上のろうそく一本のみ。

 新品の白いろうそくは、半分以下の高さになっている。


 足を止め、耳たぶに手をやる時間が増えてくると、彼はぶつぶつと独り言を口にするようになった。


「……隣人の監視を強化するのは、もちろんだが、……は、もう用済みだろう。……会長の指示を待たずとも、処分しても問題ないだろうが……だが……」


 世界竜族の花嫁の予期せぬ帰還に、彼に落ち着きをなくしていた。普段決して見せない彼の姿に、部屋の隅で待機している部下たちは何を思っただろうか。ろうそくの頼りない灯りでは、二つの人影の感情を読み取ることは難しい。


 さらに夜はふけて、ろうそくの高さは半分の半分以下になろうというころ。

 廊下の奥にある階段を、コツコツと叩く硬い音が聞こえてきた。


 窓から差し込む星明りの中で、ベンのはしばみ色の瞳がギラリと光る。


 コツコツコツコツ……


 普段は気にもとめない音が、耳障りに感じるほど頭の中に響く。


 ガチャリとドアノブが回される音すらも、例外ではない。

 灰褐色の髪を振り乱して、ベンは杖を持つ人影に抱きつこうとして失敗した。実際、人影が曲がった腰を伸ばして杖で彼の足元を叩かなければ、抱きついて離さなかっただろう。


「ベンの旦那。あっしは、野郎に抱きしめられても、嬉しかねぇんですわ」


「ヒューゴ、どうだった?」


 興奮したベンは、ヒューゴのしわがれた呆れ声も届かなかった。

 両手で節くれだった杖に寄りかかったヒューゴが再び背中を丸めると、薄汚い物乞いの老人にしか見えなかった。


「一言ももらさずに、この耳でしっかり聞いてきましたぜ」


「それは重畳! それで、何を話していたんだ? 途中から、変わり者の市長も加わっていたようだが」


 部屋の隅から、呆れたようなため息が聞こえてきたかもしれない。

 興奮して我を忘れたベンの耳に届くことはなかったから、価値のないため息だ。そう、価値のないため息。

 ヒューゴは難儀そうに顔を上げる。険しいシワを刻んでいる肌は、赤黒く日に焼けている。大きな鷲鼻の上にある両目は、ベンの背後の虚空を睨んでいるようだ。それもそのはずで、もっと明るい場所で老人の白濁した両目を見れば、盲人であることがわかるはず。


「旦那。その前に座らせてもらえやしませんかね? あっしも歳をとったもんで、たったあれだけの時間、道端でじっとしているのも、疲れるんでさぁ」


「それもそうだな、おい!」


 部屋の隅に声をかけると、少年らしき人影が壁際に寄せてあったスツールを一脚部屋の中央においた。

 

 コツコツと杖を突きながらも、スツールに向かうヒューゴの足取りは盲人らしくない。まるで迷いがなかったのだ。


「いつもの竜殺しの火酒も、用意してある。後で好きなだけ飲むがいい。さぁ、全部、教えてくれ。花嫁たちは何を話していた?」


 窓際のデスクの肘掛け椅子に腰を下ろしたベンは、いくらか理性を取り戻したようだ。いつの間にか、ろうそくが新しいものに取り替えられている。部屋の隅にいた別の部下が取り替えたのだろう。


「旦那、あっしは酒ならなんでもいいんですぜ。それを、いつもいつも、竜殺しの火酒たぁ、旦那もなかなか……あぁ、怒らないでくだせぇ。旦那の怒気は、肌で痛いほど感じるんでさぁ。ほら、鳥肌が立っているでしょう。はいはい、話しますから、連中、半年も時を越えてたとか……」


 ガードナーベーカリーの前では、暗がりに溶けこんでいたことが信じられないほど、盲目の老人はよくしゃべった。

 黒い都の世界の中心の塔の地下水路の先が、リュックベンの港だったこと。

 老竜ライオスの死を知らなかったというくだりでは、ベンは二度三度ヒューゴに間違いないかと念を押した。予想していたよりも、事態は厄介なことになるかもしれないと、彼は嬉しそうに笑ったという。


「提案?」


「さいでさ。これがまた、とんでもない提案でしてね……」


 ベンは、いよいよ耳たぶから手が離せなくなった。

 とんでもない提案と、ヒューゴは言った。だが、彼にしてみれば、とんでもないどころではなかった。


 リュックベン市の春の大祭のために招かれる船頭のダグラスとの契約を破棄して、新しい竜と契約したい。そう切り出したという若き市長を、ベンは変わり者から評価を変えるべきかと半ば呆れながら耳を傾けた。


「あの市長、四竜族の誰でもいいっていうんでさぁ」


 阿呆。無謀。命知らず。愚か者。

 ベンの頭の中を、ありったけの不名誉な言葉が駆け巡り、頭痛すら覚える。


「……ありえない」


「ところがでさぁ。まぁ、相手があの人間びいきのドゥールだったこともありましてね。どうも、話がうまくまとまりそうな気配なんでさぁ」


「…………」


 耳たぶをつかんでいた右手で、こめかみをもまなくてはならないほど、ベンの頭痛は耐え難いものになっていた。


「つまり、こういうことだな。新しく契約する竜を決めるために、四竜族の中で一番町に貢献する竜族を選びたいと。花嫁と同行している四竜族の若い奴らを、竜の森の代表者として滞在させるというわけだな」


「さいでさ」


 そもそも、船頭のダグラスが非礼を理由に、市長が契約を打ち切るという段階から無理がある。

 取り立てて魅力のない街の市長と、竜族は対等ではない。それこそ、西の聖王国の国王、あるいは北の帝国の皇帝でも、対等とは言い難い。

 まともに取りあってもらえる話ではないのだ。


「いや、そうでもないかもな」


 ベンは右の耳たぶをつかむ。


「竜族への不満が募る今なら、四竜族も人間のために働くということを強調するいい機会になるはずだ」


 数日のうちに竜の森は、答えを出さなくてはならない。

 長い歳月の間に根付いた自尊心を折ってまで、世界竜族の花嫁のためにつくす。あるいは――

 四竜族は選択しなくてはならない。


「なるほど、面白くなってきたじゃないか」


 半分ほどの高さになったろうそくの灯りに浮かび上がったベンの笑顔は、とても楽しそうだった。


 盲目のヒューゴにねぎらいの言葉をかけて部下とともに下がらせた後、ベンは一人で部屋を後にする。


 ベン――モール商会リュックベン支部の支部長ベンジャミン・ヒルズは、二本枝の燭台を片手に一人で地下に降りていった。

 地上二階建ての家屋の何倍も広い地下の最下層にあたる地下三階は、廊下の両側に鉄格子や頑丈な鉄扉が並んでいた。


 湿った空気に交じる嫌な匂いにも、ベンは顔色一つ変えない。獣のうめき声のような音を聞いても、顔色一つ変えない。むしろ、歌いだしそうなほど、軽やかな足取り。実際、彼は上機嫌だった。


 途中、彼に鍵束をわたした灰色の頭巾をかぶった小柄な老婆は、上機嫌な彼に何を思っただろうか。感情を読み取る前に、多くの者は顔を背けるだろう。醜くただれたその顔から。

 しかし、ベンは鍵束を受け取ると愛おしげに両手で、彼女の手を包み込んだ。


「麗しのプリムローズ、待ちに待った世界竜族の花嫁が帰ってきたよ」


 ベンは愛おしい彼女の額に口づけをする。


「忙しくなるのね。それから、わたしはプリシラよ」


 かすれてはいるが、彼女――プリシラの声は老婆にはみあわない拗ねた響きがこめられていた。

 笑って受け流したベンは、彼女を抱きしめて耳もとでささやく。


「プリシラは、僕にとって美しい花なんだから、いいんだよ」


 知ってるとプリシラは、枯れ木のような両手でぎこちなく彼を抱きしめる。


 鉄格子や鉄扉の向こうから漏れてくる異臭も、うめき声も、奇妙な恋人たちは気にとめない。


「じゃあ、ちょっと楽しんでくるね」


「ええ」


 鍵束をジャラリと鳴らして、一番奥の鉄扉の向こうにベンが消えるのを、プリシラはじっと見つめていた。

 すぐに激しく鎖がジャラジャラと不快な音を響かせるのを聞きながら、彼女は廊下にあった椅子に座る。


「エドガー……、それともエルマーだったかしら? かわいそうに、ね。花嫁さんが帰ってきたら、処分されるだけじゃない。フフッ、フィオナ・ガードナーだったかしら? 会ってみたいわ」


 会長から指示が出されれば、徒弟として隣家に出入りしていた青年は、速やかに処分されるだろう。

 それまでせいぜい愛しい人を楽しませてほしいと、眠ることすらできない囚人たちに聞こえるように言い放ったプリシラは、どこか悲しそうだった。



 わたしは、そんな恐ろしいことが隣家の地下で行われているなんて、夢にも思わず、夢も見ずにお姉ちゃんと同じベッドで眠っていた。

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