水色のリボン
名無しは、何を考えているんだ。
そもそも名無しのことなんてロクに知らないが、今夜はおかしい。
左の手のひらの傷はもう癒えている。
「名無し、名無し、答えろよっ」
小声で呼ぶが、返事はない。
くそったれが。
あの忌々しい夜から、世界が終焉へと傾くたびに、俺は名無しに助言を求めてきた。ふざけた喋り方だし、なにかと小馬鹿にしてくるが、終焉を阻止するために知恵を与えてくれる。そういうやつだったはずだ。
その名無しが、なぜ今になってこんなことをするのだろうか。
名無しのことが、わからなくなる。
予期せぬ侵入者どもは、七人。おそらく、うち四人は竜族の若者たちだろう。
「……西風の息吹、ルグーの涙、愚者の足跡…………あっ! これ、今夜の星空だよ。春の初月19日に見える星たちだ」
高めの声が星の名前を読み上げている。水竜族の船頭の縁者だろうか。
「今夜の星空だって? やはり、未来を知るには星を読むことが鍵なのか」
「いや、アンバーがそう言ってたんじゃないか」
興奮しているのか。無理もないだろうが、さっさと出ていってほしい。
巨大な光石の上からでは、侵入者どもの姿を見ることはできない。
時間が遅々として進まない。
いら立ちだけが募るばかり。それは、侵入者だけに向けたものだけではなく、名無しにも向けられていた。
「名無し、名無し……」
小声で呼びかけるが、あいかわらず返事はない。
思えば、名無しは初めから言っていたではないか。
『名無しはねぇ、名無しの目的のために、ファビ坊に協力してあげてるんだから、お礼なんていらないよ』
そう言っていたではないか。その後にクスクス笑いながら、お礼をしろと言ってきたのも、思い出したが。
つまり名無しの目的のために、このタイミングで奴らの侵入を許したというのか。
なんのために。
そもそも、なぜ今ごろになって、黒い都を訪れるようなやつらが現れたのか。もう、八百年以上、この都を訪れるやつなどいなかったはずだ。どうやってかまでは聞く気にはならなかったが、名無しが手ひどく追い出してきたはずだ。
わけがわからない。
あいかわらず、時間は遅々として進まない。
「くそったれが」
名無しではなく、ユリウスさまだったら――。
「ユリウスさまだったら、俺の邪魔をさせなかっただろうに」
流星のライオスがいなくなった今、どれだけ世界が危ういのか、名無しはわかっているはずだ。俺なんかよりも、わかっているはずだ。
俺はただ、置き去りにされたこの命をまっとうして、ユリウスさまたちが待っている楽園へ行きたいだけだ。
そのためだけに、千年も生きてきた死に損ないだ。
なぜ、名無しはやつらを追い出そうとしない。
「っ!!」
光石の向こうからでもわかるほど、下から襲ってきた強い光の眩しさに両腕で目をかばう。
「……何が起きているんだ」
『お待たせっ! ファビ坊、さみしくて泣いてなかった?』
「誰が、泣くか!」
なりふりかまわず下に降りようとした矢先、名無しの上機嫌な声が聞こえてきた。
『クスクス。それは、ざぁんねん。ま、いいや』
「お前、何をした?」
『教えなぁい』
塔全体の装置が動き出している。これも、名無しの仕業だろうか。
『ファビ坊が世界を望んでくれないから、こうなったんだよ』
「……何を言っている?」
ひんやりと冷たいものが背筋をつたい、右足の古い傷跡がうずく。
なぜ、名無しは俺が世界を望まなかったことを知っているのだろうか。
名無しは生前、俺と関わりがあったのだろうか。
ガラガラと装置が激しく動く音が、やけに耳につく。
『はーい、よく聞いてねっ! 名無し、都を出ていくことにしました!』
「は?」
『フィオナ・ガードナー』
ガタンッ――。
ひときわ大きな音がして、静寂が訪れる。つかの間の静寂であることを、俺はよく知っている。
『名無しは、彼女とともに出ていくよ。探しにおいで。彼女がすべての鍵を握っているからさぁ』
「すべての鍵って、なんのことだ!」
クスクスと笑う声が遠ざかり、聞こえなくなる。かわりにいつの間にか聞こえなくなっていた、侵入者どもの悲鳴が聞こえる。
「しまった!」
色硝子の隙間を抜けて、飛び降りた時にはもう遅かった。
バタンッと音を立てて、元の位置に戻った床。
「くっそぉおおおおおおおおおお!!」
もう奴らを追うことはかなわない。
世界竜族にとって、地下こそが力の真髄。
この世界の中心の塔が建てられるよりも先に、世界中の地下にその力を張り巡らしてきた。
まるで、大木の根のように。
いずれ、奴らはどこかに姿を現すだろう。
それがどこかは、今はわからない。
「なんで、今ごろになって……」
頭上に目を向ければ、色硝子の星の配列がめちゃくちゃだ。
名無しの助言なくては、配列をなおすことは不可能。俺は、そのくらい無能で使えないやつだ。だから、死に損なったのだろうか。
「ははっ、はははっ、あはははははは……」
笑うしかないだろう。
千年経とうが、俺は無能のまま。
「はははっ、許さねぇ! 絶対に見つけ出してやる」
フィオナ・ガードナー。
彼女がこの世界にどんな意味をもたらす存在なのか、今は関係ない。
ただ彼女さえ、この都を訪れなければ、こんなことにはならなかったはずだ。
いつものように、誰にも気づかれることなく世界の終焉を防ぎ、楽園へ招かれるのを待つだけだったはずだ。
フィオナ・ガードナー。
俺は、絶対に見つけ出してやる。
無能な俺には、名無しが必要なんだ。
まだ、世界が終わってもらっては困る。
ならば、この忌々しい場所に留まることもない。
一歩、出口に向かって足をすすめると、何かを踏んだ。
「これは?」
水色のリボン。
どこにでもあるような、代物だ。
癖のある金色の髪が二、三本絡まっている。おそらく、髪を束ねていたのだろう。
片端に目立たない同じ色で刺繍が施されている。
「……『あたしの特別な妹、フィオナ・ガードナー』、か」
手がかりにもならないような、安っぽいリボン。
捨ててしまってもよかった。
なのにどうしてだか、俺はリボンを左腕に巻きつけている。
絶対に見つけ出してみせるという、決意だとすぐに理由を与えた。本当は、理由など必要なかったのに。
塔の外は、あいかわらず不吉な二つの満月が黒い都を照らし出している。
「絶対に見つけ出してやるよ」
黒い翼を広げ、不吉な夜空へと舞い上がる。
名無しが自分の目的のために、フィオナ・ガードナーとともに出ていったというなら、俺も俺の目的のために彼女を探し出そう。
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