名無し、あるいは――
竜王の屋敷を調べ始めて、三日目の春の初月19日。
アンバーは昨日から、書斎にこもりがちだ。
初日に見つけた使用人の日記には、二階の子ども部屋のことが何も書かれていなかったと、アンバーが首をひねっていた。
「むぅ。どうしたら、あんな汚い部屋になるんだろう?」
中庭で天日干ししているパナル草を籠に集めながら、わたしは南側の子ども部屋を見上げてため息をつく。
この日は、竜王の屋敷だけではなく、通りの向こうの
台所から美味しそうな匂いが、漂ってくる。
もうすぐ日が沈み、二つの満月が昇り始める頃だ。
今はまだ、何事もなく黒い都で過ごしている。やはり、世界の中心の塔に何かがあるのだろうか。
窓ひとつない黒い塔が、ますます不気味に見える。
「むぅ、行かなきゃいけないのかなぁ」
胸元の小袋を握りしめる。
ウロコは何も語ってくれない。
でも、何かを忘れていることを思い出させてくれる。一体何を、忘れているというのだろうか。
パナル草でいっぱいになった籠から、軽くツンとする匂いがする。これでも、干す前よりも匂いは弱くなっているはずだ。
『お嬢さん。お嬢さん。可愛いお嬢さん』
それは、あまりにも突然のことだった。
耳元で声がした。
もちろん、中庭にはわたし一人しかいないはず。
周りには誰もいない。
『クスクス。そんなに怖がらなくていいよぉ。食べたりしないからさぁ。名無しは、体がないから直接危害は与えられないんだよぉ』
からかうような男性らしき声。
何処かで聞いたことがあるような気がする。
クスクスと笑う声が、怖くてしかたない。
悪意に気をつけろと忠告してくれたのは、誰だっただろうか。
人を呼ばなくては。
ヴァンでも、アンバーでも、ライラでもいい。誰でもいいから、呼ばなくては。
頭ではわかっているのに、体は強張って動いてくれない。
『まずは、深呼吸した方がいいよ。可愛い顔が台無しだよ。はい。吸ってぇ、吐いてぇ、吸ってぇ、吐いてぇ』
考えることを放棄した体が、言われるがままに勝手に深呼吸を繰り返す。
悔しいことに、深呼吸を繰り返すうちに平静さを取り戻すことができた。
『もう大丈夫だね。あ、そうそう、誰か呼ぼうとしても無駄だよ』
「むっ」
なぜ、わたしの行動を先読みすることができたのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。無駄というのは、どういうことだろうか。
『周りをよぉく見てみようね。ここは、名無しが創った現実からちょっとずれた空間なんだよぉ』
「……っ!」
愕然とするわたしに、クスクス笑う声だけが響く。
夕暮れ時の中庭にいたはずだ。
なのに、これはどういうことだろうか。
周りには何もなかった。薄闇に囲まれて何もなかった。
地面も空も薄闇で、わたしのつま先、指先より先は何も見えない。
しかし、一度取り戻した平静さを失うことはなかった。そのかわり、怒りが体の内側からふつふつと沸き起こってきた。
「あんた、なんなのよ!」
『プッ、クククッ、アハハハハハ……』
何がそんなに面白いのだろう。
『面白いよ。最高じゃないか。名無しをあんた呼ばわりしたのは、お嬢さんが初めてだ』
「あんた、心が読めるの?」
どう考えても異常な事態だと言うのに、わたしが恐怖を感じずにすんだのは、黒いウロコの入った小袋を握りしめていたおかげかもしれない。
『その気になれば、相手が何を考えているかくらい、手に取るように知ることもできるよ。でも、お嬢さんはわかりやすすぎて、もぅ……クスクス』
こんな誰かを馬鹿にするような奴を、わたしは知らない。どこかで聞いたことある声だというのも、気のせいに決まっている。
『あ、ごめんごめん。自己紹介がまだだったね。わたしのことは、名無しって呼んでほしいんだ』
「ななし?」
『そう、名無し。体を失って、名前なんてどうでもいいやぁって時に、あの子が名無しって名付けてくれたんだぁ。名前が無いなら、名無しって。結構気に入ってるんだぁ』
あの子――と口にしたときだけ、彼の口調が一瞬だけやわらいだような気がした。
『で、お嬢さんのお名前は? お嬢さんは、あの子の花嫁さんなんでしょ。教えてほしいなぁ』
「あの子の花嫁って!」
よほど、わたしの反応が滑稽に見えたのか、名無しはクスクス笑い出した。
『お嬢さん、お嬢さん。先に名前を教えておくれよ。そうすれば、名無しも、あの子のことを教えてあげるかもしれない』
「……フィオナ・ガードナー」
『フィオナ。フィオちゃんかぁ。あの子のこと、気に入ってくれると名無しも嬉しいんだけどなぁ』
クスッと名無しは笑って続ける。
『名無しは、フィオちゃんにお願いがあるんだ。そのついでに、あの子を探す手伝いをしてあげてもいいかなぁって』
「お願い? そもそも、あんたがわたしの花婿を知っているって、証拠がないわ」
『あれれ? フィオちゃん、意外と警戒するんだね。まぁいいや。でも、証拠って言われると困るなぁ。そこは、名無しを信じてもらうしかないんだけど』
うーんと、考え込む声はすぐ側で囁いているようだ。
自分の体以外何も見えない薄闇に、いつの間にか慣れきってしまっている。と言うよりも、不思議と怖くないのだ。
『名無しは、元々この都に住んでた世界竜族なんだけど、それも体がないから証明できないしぃ』
「体がないって、死んでいるってこと?」
『そうそう。世界に還っちゃったからね。ちなみに、この都に留まっている魂は、名無しだけ』
つまり、名無しは自ら命を絶ったということだろう。
嘆きの夜は、世界竜族の集団自殺ではないかという話も聞いたことがあるが、どうやら違ったようだ。
『とにかく、名無しがフィオちゃんのお手伝いをしてあげるって言っているんだよ。名無しを一緒にこの都から出してくれるだけでいいんだよぉ。簡単でしょ?』
「むぅ」
やはり、説得力がない。
そもそも、わたしは夢を見ているのかもしれない。
右手の中の小袋の感触と、左手で持つ籠の中のパナル草のツンとする匂いが、それを否定しようとしているけども。
『あのね、あのね。フィオちゃんには、どの道選択肢はないよ』
「む?」
『だって、フィオちゃんがいいよって言ってくれるまで、名無しはここから出してあげないもん。仲間たちのところに、帰してあげないからね。クスクス……』
名無しは楽しそうに笑う。心の底から、楽しそうに。
「なにが、お願いよ。脅迫じゃない!」
『クスクス、そうとも言うね。どうしても、いくつか名無しと約束してほしいから、仕方ないんだよ』
「約束?」
――世界竜族と約束する時は、心せよ。その約束は、決して破ることはできない。
竜の森で過ごした八年の間に、耳にタコができるほど聞かされてきたことだ。
わたしの顔に浮かんだ警戒の色を読みとってか、名無しのため息が聞こえてきた。
『そうやって、みんな警戒してくるから、名無しも脅すようなことしなきゃいけないんじゃないかぁ。名無しだって、嫌なんだからね、こういうのぉ』
「むぅ。先にその約束の内容だけ聞かせてもらえたりするの?」
『もっちろん! やったぁ、やっとフィオちゃんがその気になってくれたぁ』
まだ約束するとは言っていないのに、名無しは機嫌をよくしたようだ。
疲れる。夢なら、早く覚めてほしい。
初めは得体がしれなくて怖かったけど、彼の小馬鹿にした態度と気分の浮き沈みの激しさに、疲れてきた。
もちろん、名無しはそんなことお構いなしで続ける。
『まずは、世界の中心の塔に来ること。そこでフィオちゃんに渡したいモノがあるんだ。きっと気に入ってくれると思うよっ』
なぜだろう。絶対に気にいらない気がする。
『次に、名無しのことを誰にも教えないこと。声に出すのはもちろん、文字にしたり絵で表現するのも駄目だよ。とりあえず、今のところ、この二つだけ』
「むぅ。これから、増えることもあるの?」
『名無しが必要だと思ったら、追加するよ。でも、フィオちゃんの花婿探しだって、いろいろ力になってあげられるしぃ。なんなら、フィオちゃんの不利益になるような約束はしないって、先に約束するよ』
そもそも、この名無しがわたしの花婿を知ってるとは限らない。嘘をついている可能性だって、充分すぎるほどある。
「ねぇ、先にわたしの花婿の名前を教えてくれたら、あんたを信用してあげてもいいわ」
『…………フィオちゃんって、可愛いと思ったけど、全然可愛くないね』
「む?」
ものすごく、勝手なことを言われている。
そもそも、名無しから勝手にこんなわけの分からない空間に引きずり込んだのではないか。それなのに、可愛くないとか余計なお世話だ。
夢なら、本当に早く覚めてほしい。
『なーんか、気が強すぎるっていうか、なんていうか。全然、名無しのこと怖がってくれないし、調子狂っちゃうんだよなぁ』
「わたしは、しがないパン屋の娘だから、可愛いわけがないでしょ! ほら、さっさとわたしの花婿の名前を教えなさいよ」
『わぉ! 名無し、怒られちゃった』
クスクスと笑う名無しの声は、高すぎもしないし、低すぎもしない。子どもっぽいやかましい口調だが、大人の声だ。とても聞きやすい声なのに、言っている内容がひどすぎる。ひとしきり笑い続けたと思ったら、今度は大きなため息をついてきた。
『あのねぇ、名無しはフィオちゃんの不利益になるようなことはしないって。信じてよぉ。今、フィオちゃんにあの子のことを不用意に教えすぎると、世界が終わっちゃうかもしれないんだからぁ』
「世界が終わる?」
『そうなの。世界が終わっちゃうの。嫌でしょ?』
「わけがわからない。なんで、そういう話になるの? わたしは、花婿のことが知りたいだけなのに」
『だぁかぁらぁ……』
名無しは、いら立ちを隠しきれていない。最初の小馬鹿にした態度を保てなくなっているようだ。
いい気味だ。
『フィオちゃん、ホントに可愛くない! 全然、可愛くない!』
「リュックベンの女をなめないことね。こうと決めたら、簡単には譲らない頑固者だからね」
『もぅ! 世界が終わっちゃってもいいの?』
「だから、その世界が終わるっていうのも、わたしの花婿のことも、全部教えなさいって言ってるの! それからなら、約束してあげる」
名無しに目があったら、睨みあっていたに違いないだろう。
根比べなら、自信がある。なにしろ、わたしはリュックベンの女だからだ。
案の定、先に根を上げたのは名無しだった。
『せーっかく、機は熟したってのに、フィオちゃんのわからずや!』
――ドクン。
「……機は熟した?」
『そうだよぉ。名無しは、ずーっと待ってたん……』
名無しの声が聞こえているはずなのに、何を言っているのか理解できなくなっていく。
――”機は熟した”とは、なんのことだったのかしら。
アンバーが読み上げてくれた日記の一部分がよみがえる。
――機は熟した。黒い都で待っているよ。
ずっと思い出せずに悶々としていた夢の中の黒衣の男の声がよみがえる。
それから――。
『ねぇ、聞いてる? さっきから、ボーッとしちゃってるけどぉ』
「む? 聞いてる。ちゃんと聞いてる」
嘘だ。
名無しが何を言っているのか、聞こえてなんかいない。
そんなことよりも、わたしは名無しの正体に気がついてしまった。
こんなこと、あっていいのだろうか。
こんなやつを、ライオスさまは尊敬していたのだろうと思うと、いたたまれない。
もし夢だったら、早く覚めてほしい。
『とにかく、フィオちゃんは、名無しと約束すれば……』
「名無し、一つだけ教えて欲しいの」
『またぁ? さっきから、質問ばかりじゃないかぁ』
夢なら早く覚めてほしい。
できることなら、否定して欲しいと願いながら、ウロコの入った小袋をさらに強く握りしめる。
「名無し、あなたは最後の竜王のユリウスさまじゃないの?」
わたしの周りの闇が濃くなったような気がした。思い過ごしにすぎなかっただろうが、息苦しいほど張りつめた沈黙に襲われた。
それも、一瞬のことだったはずだ。
『クスッ……クククッ、ハハハッ、ハハハッ』
何がそんなにおかしいのだろうか。
今までの、馬鹿にしたような笑い方ではない。心の底から、おかしくてたまらないという笑い声だ。
『後学のために、教えてもらえないだろうか。なぜ、わかった? 誰にも……あの子ですら、わたしがユリウスだと気づかなかったというのに』
笑い終わった彼の声には、ふざけた響きも、小馬鹿にした態度もなかった。
姿なき最後の竜王が、確かにそこにいた。
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