それぞれの思惑

 わたしが眠りについて、夢の中で深い深い森の中を駆け回っていた頃のことだったという。


 ヴァンは玄関ホールの壁に体を預けて夜の静寂しじまに耳をすませていた。

 奥の食堂の暖炉の火が爆ぜる音。

 反対側の壁際の椅子に座るアンバーが、例の日記のページをめくる音。光石ランプの灯りだけを頼りに、よくそんな速く文字を追えるものだと、呆れたかもしれない。

 再び食堂に意識を戻せば、アーウィンと微かな寝息と、ローワンのいびきが耳に届く。


「寝たようだよ」


「やっとか」


 アンバーが日記を閉じると、ヴァンは彼の隣に移動した。もう一脚の椅子には座らない。壁にもたれかかって、アンバーを見下ろす銀の瞳に、友好的なそれはない。


「で、話しってなんだい?」


 光石ランプの光の加減だろうか、対するアンバーのいつものニコニコした顔が、挑発的に見えたかもしれない。

 ヴァンは、そっと視線をそらした。


「フィオは、自覚が足りない。無防備すぎる」


「それが、フィオの短所であり長所だと、僕は思うけどね。高慢ちきで我がままなお姫さまになってもおかしくないくらい、僕ら四竜族は彼女を甘やかしすぎてきたっていうのに」


「確かに、甘やかしすぎてきたね」


 ヴァンは口元に苦い笑みを浮かべる。それもつかの間のこと。そらしていた視線をアンバーに戻した彼には、敵意すらにじみ出ていたという。


「だからこそ、つけ入ることができる。そうだろう? 一枚岩のヘイデンの息子アンバー」


「……何が言いたいんだい?」


 アンバーの穏やかな笑みが一瞬引きつったのを、ヴァンが見逃すわけがなかった。


「君には気をつけろって、長から口うるさく言われてたんだ。一枚岩のヘイデンほどの野心家を、長は知らないってさ。利用できるものなら、なんのためらいもなく利用する。その腹黒い野心家の息子が君だ。必ず俺らを出し抜いて、竜王の奥方になるフィオに取り入ろうとするだろうって」


「ずいぶん、ひどい言われようじゃないか」


 さすがのアンバーも、不機嫌を隠しきれなくなったのだろう。彼の茶の瞳にも、剣呑な光が宿る。


「奏者のヴィンセントの息子ヴァン、君は取り入ろうとしてないっていうのかい。フィオは、未来の竜王の奥方だ。世界中に、彼女の影響力が及ぶことになる。逆に、僕は彼女に取り入ろうとしない奴がいる方が不思議だよ」


「……その通りだ。俺も世界竜族の生き残りに、叶えてほしい願いがある。俺は君と手を組みたい」


 お互いの真意を探り合うような沈黙。

 食堂の暖炉の火が爆ぜる音だけが、かすかにヴァンの耳に届く。

 張り詰めた沈黙を破ったのは、アンバーだった。


「ずいぶん僕のことを高く買ってくれてるみたいだね。ヴァンも、小ロイドさまも。僕も、親父殿の手駒にすぎないっていうのに。……いいよ。手を組もう。僕ら地竜族も風竜族も、水竜族が調子に乗るのが気に入らないらしい」


「そのとおりだよ。北の老いぼれが生きている間は、どうしようもないと思ってたけどね」


 忍び笑いをもらす二人にとって、老竜ライオスを始めとする水竜族が竜族だけではなく、人間たちにも絶大な影響力を握っていることが不満だった。彼らもまた、地竜族と風竜族の中で選ばれた者だから、水竜族を目の敵にするのは仕方のないことだったかもしれない。


 ひとしきり二人が笑った後には、食堂の暖炉の火が爆ぜるかすかな音がアンバーの耳にも届いた。


 耳ざといヴァンだったが、完全に油断していたのだろう。

 扉一枚向こうの食堂のかたすみで、ローワンが耳をすませていたことに気がつかなかった。




 ――


 暖炉で火が爆ぜる音と、アーウィンの規則正しい寝息。

 それから、扉一枚向こうでかわされる会話に耳をすませる。


 四竜族の力関係など、ローワンにとってどうでもよかったらしい。

 彼がこの旅に加わった目的は、誰よりも明確で単純だった。だからこそ、つまらないことで足元をすくわれるわけにはいかなかったのだろう。

 胸の奥でくすぶり続けてきた思いを、まだ燃え上がらせるわけにはいかない。短気だと言われることの多い火竜族だが、虎視眈々と好機が訪れる時を待つことを知っている。

 それでも隠しきれなかった苛烈さが、赤い瞳に宿っていたことだろう。


 暖炉で火が爆ぜる音と、扉一枚向こうでかわされている会話に耳をすませる。

 いつの間にか、アーウィンの規則正しい寝息がやんでいたことに、ローワンは気がついていない。




 ――


 かすかな物音に、わたしは目を覚ました。


「……むぅ、もう朝?」


「まだですわ。起こしてしまって、ごめんなさいね」


 まだ寝ていても大丈夫だとライラが小声で囁いてくれたから、わたしは再び夢の中に戻っていった。


 下の段のベッドに横になったライラが、朝まで難しい顔をしていたことにまったく気がつかなかった。


 次に目を覚ました時には、無事に朝をむかえられた安心感でいっぱいだった。

 だから、ライラが夜更けに部屋を抜け出した可能性に気がつかなかった。


 もしも、わたしが自分の価値に気がついてたら、仲間たちの思惑に気がつくことができたかもしれない。

 気がつくことができたのならと、ずっと後悔することもなかっただろう。




 ――


 それから、最初に名無しと名乗った彼もまた、自分の思惑に世界を巻き込んだのだ。


 長い年月のほとんどを大半を孤独に過ごす名無しにとって、招かざる客たちをからかうことが、唯一の娯楽だったらしい。


『クスクス、名無しの勝ちだねぇ』


 招かざる客たちが青ざめて震えている様が、面白くてしかたなかったのだという。名無しに体があったら、お腹を抱えて笑ったことだろう。

 追い返すだけではつまらないから、何かしらのゲームをしていたらしい。隠れんぼに、鬼ごっこ、宝探しなど、思いつきでゲームをするのだと。

 もちろん、彼が勝つように仕組まれている。

 イカサマもいいところだ。


 それでも世界の中心の塔に来た招かざる客たちは、勝ち目のないゲームに挑む。挑むほかないからだ。


『じゃあ、帰ってねっ』


 狂ったように笑った後で、名無しは宣告する。

 この黒い都で見聞きしたものを、誰にも話してはならない。文字に起こしてもならない。もちろん、絵に描くこともしてはならない。

 彼の約束は、体を失っても絶対だ。命すら縛る。


『いいかい? 世界竜族と約束する時は、心するんだよぉ。ま、もう二度と、約束することなんてないと思うけどねぇ。クスクス』


 招かれざる客たちにとって、残りの生涯はさぞかしつまらないものになったことだろう。

 それがまた、彼は愉快で仕方がない。


 誰にも、自分の計画を邪魔させない。

 気の遠くなるような長い長い時間を要する計画だった。


 ようやく、待ちに待った少女が黒い都に足を踏み入れた。

 歓びに魂を震わせた彼だったが、なかなか世界の中心の塔に来ようとしないことに、いら立ちをつのらせていた。



 春の初月18日。

 黒い都に足を踏み入れて三日目だと言うのに、まだ竜王の屋敷に留まっている。

 風竜の若者が、パナル草を中庭に広げて乾燥させ始めているではないか。


 気の遠くなるような歳月、名無しは待ち続けたのだから、数日くらい待てそうなものだが、そうではなかった。


 名無しは、未来を読み解くことができた。世界の中心の塔は、そのための場所だから、驚くに値しないかもしれないが。


 時間がなかった。


 気の遠くなるような長い長い時間を要した計画を、今さら台無しにするわけにはいかない。

 すべては、待ちに待った少女のため。


 さらに一日待ったが、一向に来る気配を見せないわたしたちに、名無しは、とうとうしびれを切らした。

 春の初月19日。日が沈む前に、彼は動いた。


『しかたないなぁ。こっちから出向いてあげるかな。まったく、世話が焼けるなぁ』


 長い歳月の孤独の中で、名無しのひとり言は増える一方だったらしい。

 聞く耳が無ければそうなると、彼が言っていたこともある。


 名無しの目には、世界の中心の塔の上からでも、竜王の屋敷の中庭に一人現れたわたしが見えたらしい。


『お嬢さん。お嬢さん。可愛いお嬢さん』


 姿なき声に驚き、体をすくませるわたしの姿は、名無しにはさぞかし滑稽に見えたに違いないだろう。

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