竜王の屋敷 〜日記〜
竜王の屋敷の一階は、二階よりも広くて部屋数も多い。
使用人向けだったと思われる浴室の浴槽は、三人が同時に入っても余裕があった。
汗や汚れを洗い流すことが、こんなに心地いいなんて知らなかった。まさに夢見心地とはこのことだ。
「いい匂いですわねぇ」
疲れも洗い流したわたしたちのお腹を刺激する匂いに、ライアが相好を崩す。どうやら、彼女はすっかりヴァンの料理の虜のようだ。
食堂は、あの鍵のかかった部屋の真下にあった。
一足先に、食堂に足を踏み入れたライラの歓声が聞こえてくる。
食堂はさほど広くない。七人で黒檀の一枚板の食卓を囲んでしまうと、やや窮屈に感じるほどだ。
しかし、そんなことはどうでもいい。
食卓の上に並んだできたての料理が、どうでもよくさせてくれる。
昼食らしい昼食を食べていなかったこともあるが、これはもうご馳走と言ってもいいのではないだろうか。
ヴァンがほんのり湯気が立ち上っている山積みのパンを食卓において、席についた。
「仕込みしてあったのが、そのままだったからね。手間がかからなかったよ」
そんなことは関係ない。
鶏のシチューや、林檎のコンポートとか、わたしは仕込みしてあっても作れない。
ヴァンの料理の腕は、一流だ。
はやる気持ちを抑えて、両の手のひらを捧げる。
「楽園に坐す一なる女神さま。今日という日に、感謝を。明日という日に希望を、お与えください」
まずはパン。フカフカのパンさえあれば、わたしは幸せ。
みんながシチューやマリネに舌鼓を打っている間に、わたしはパンを五つ食べた。
「むぅ。幸せ」
旅立って、まだ三日目だ。
まさか、こんなに早くお腹いっぱいパンを食べられるなんて、嬉しすぎる誤算以外の何物でもない。
夕食を心ゆくまで堪能した後は、ヴァンとアンバーとターニャが片付けしてくれた。それ以外のわたしたちは、一階の使用人が寝泊まりしていたと思われる部屋で荷物を整理したりして、寝床を拝借する用意をした。
わたしが二段ベッドのシーツを整えている背後で、ライラが寝椅子に毛布を広げている。
「わたくしたち、女性陣はこの部屋で寝泊まりさせてもらうけど、あなた方はどうするの?」
「あー、それなら……」
光石ランプを窓辺のミニテーブルの上に置いたアーウィンが、肩をすくめる。
「僕ら、そこの玄関ホールで、交代で見張りをすることにしたんだ。ねぇ、ローワン、そうだよね」
「ん? チラッと聞いただけだが、二人ずつで見張りだ。何しろ、ここに来た奴らは、全員逃げ出してるからな」
食堂の暖炉に火を入れてきたローワンが、何か手伝うことはないかと来てくれた。特に手伝うことはない。
一度食堂に戻って、明日からのことを話し合わなければならない。
「むぅ。何が起きるんだろう」
「それがわかったら、苦労しねぇよ」
ローワンは笑い飛ばすが、実際はどうなのだろう。
わたしは、何も起こらないような気がする。気がするだけだけど。
油断しているのだろうか。
気が緩んでいるのだろうか。
だとしたら、もっと気を引き締めなくてはならない。
何も起こらないような気がするんじゃない。
逃げ出したくなるようなことではなく、もっと別の何かが起きるような――。
「むぅ」
何か大事なことを、思い出せそうで思い出せない。
ものすごくモヤモヤしたものを抱えたまま、食堂に戻った。
食卓にアンバーが今朝の地図を広げる。
「正直、僕は可能な限り黒い都を調べたい。……過去に訪れた奴らも同じことを考えていたと思うけど」
それはそうだろう。しかし、できなかった。その原因に、わたしたちはまだ遭遇していないだけだ。
アンバーが腕を組んで思案にふけりはじめると、ライラが地図の中心を指差した。
「やっぱり、世界の中心の塔かしら?」
「いや、そこは最後にするべきかもしれない」
意外なことに、アンバーは首を横に振る。
「誰もが、その塔を訪れたと思うんだ。誰もが。これがどういうことか、さっきまで考えつかなかった僕を、罵ってやりたいよ」
「あー、つまりアレか。罠ってやつか」
「ローワン、罠ってのはさすがに言いすぎだろうけど……。逃げ出したくなるような何かがあった場所としては、最有力候補じゃないかな。確定できないけど」
そう言われると、世界の中心の塔がとても恐ろしい場所に思えてくる。
でもと、アンバーは一冊の本を地図の上に置く。
「ユリウスさまが手がかりを残していないかってのも、ここを拠点に選んだ理由の一つだったんだ。正解だったよ。これは、使用人の日記みたいだけど、最後のページの日付が秋の終月20日。つまり、嘆きの夜」
開かれたページに書かれていることを、アンバーが読み上げていく。
「『秋の終月20日。やっと手に入れた平穏も、長く続かなかった。あんな約束をするんじゃなかった。リラさまがご存命だったらどんなに、気が休まることか。思えば、リラさまが楽園へ召されてから、王はお変わりになられたかもしれない』……この後、ちょっと愚痴っぽいのが続くから飛ばすね」
リラさまとは、ユリウスさまの奥方のことだ。始まりの女王の名前を持つ奥方。
「えーっと、注目したいのは最後のこの部分。『昨日から、王のご様子がおかしかった。ジルさまにご相談できればよかったのだけど。しかたない。あの方も忙しい方だから。でも、やはりご相談したかった。夕食の席でのあのお言葉、”機は熟した”とは、なんのことだったのかしら。胸騒ぎが』ここで終わっている。おそらく、異変が起きる直前まで書いていたんだろうね」
やはり、わたしは何か大事なことを忘れている。
忘れていることはわかっているのに、何を忘れてしまったのかわからない。
胸騒ぎがする。――日記の持ち主も、同じことを書こうとしたのかもしれない。
ヴァンが軽く手を挙げて、慎重に言葉を選びながら不安そうに口を開いた。
「まるで、ユリウスさまが嘆きの夜を引き起こしたように聞こえるんだけど……」
「ユリウスさまが何か別のことをしようとして、失敗したのかもしれないよね?」
アーウィンが別の可能性を口にするけど、不安は隠しきれなかった。
ライオスの血をひくアーウィンは、ユリウスがいかに素晴らしい竜王だったか、耳にタコができるほど聞かされているせいもあるかもしれない。
「で、アンバー、お前はどう考えているんだ?」
ローワンはあっさり考えることを放棄したらしい。
再び、アンバーに視線が集まる。
「わからない。というか、それをこれから調べていけばいいじゃないか」
「結局、そういうことになりますわね」
ライラがため息をつくが、こればかりはしかたないだろう。
思い出せないことを、いつまでも考えていてもしかたない。
今は、明日の計画を立てることが、重要だ。
「じゃあ、アンバーは世界の中心の塔以外の場所を先に調べるべきだと思うわけね」
「そうだよ。でも、フィオが塔に行きたいって言うなら、行くべきだと思う」
世界の中心の塔が気にならないわけがない。なにしろ、世界竜族の象徴だから。
「むぅ。やっぱり、もう一日くらいこの屋敷を調べてもいいと思う」
もう一日で足りるかどうかは、明日決めればいい。
決まりだなと、ローワンが大きな伸びをする。
「今日はここまで、だな」
「あ、待って、ローワン」
席を立とうとしたローワンを、アンバーが止める。心なしか声が険しい。
「さっき、ターニャから聞いたんだけど、とんでもないこと言ってくれたみたいじゃないか」
「ん?」
首を傾げるローワンに、アンバーは顔を赤く染めて食卓を叩く。
「僕らのウロコが服だとか、デタラメ言ったって聞いたけど!」
「えっ」
アーウィンとヴァンも、驚いてローワンを見る。
しまったという顔をして、ローワンの目が泳ぐ。
「いや、だいたいあってる、だろ?」
「だいたいもあってないよ!」
アーウィンとヴァンまで怒っているようだ。
間違いなく、二階のあの汚い子ども部屋での発言のことだろう。
聞いた時は引いたりもした。けど、人間と竜の姿の時も触れあって来たのだから、今さらだ。考えたらいけないと割りきった。
しかしどうやら竜族には、とんでもない爆弾発言だったらしい。アンバーが芝居ががかった咳払いする。
「ご婦人方に誤解されたままじゃ、全竜族の尊厳に関わるから……」
「……わたくし、気にしてたら一緒に行動できないと割りきっていたましたのに」
隣のライラがクスリと笑いながら、ささやいてくる。
「とにかく、ローワンが言ったことは忘れて欲しい。僕らは、確かに変化する時にウロコを服にって、イメージする。その逆も。でも、イメージだけだから。その方が変化がしやすいだけだから。始まりの竜王さまが、一なる女神さまから、変化の秘術を授かった時に、裸では人間と並び立てないとお願いしたって聖典にも書いてあるんだから」
力説してくれるけど、割り切って意識しないようにしているんだから、今さらだ。
「だから、僕らは裸ってわけじゃないから。そこ、誤解しないで」
わかったかと、アンバーだけでなくアーウィンとヴァンも確認する。
わたし、ターニャとライラとやれやれと肩をすくめる。
結局、服がどうして生じるのか、よくわからないままだ。むしろ、彼らがムキになっているところを見ると、ローワンが言ったことが正しいのではないかとすら思えてくる。
「むぅ。とりあえず、ローワンが余計なことを言ったのは、よくわかった」
どっと笑い声で食堂の空気が揺れる。
暖炉で薪が爆ぜる音も、楽しげに聞こえる。
――
何ごともなく、朝を迎えられるように祈りながら二段ベッドの上にもぐりこんだ。
――機は熟した。
「――っ!」
そうだ。
夢だ。
夢の中の黒衣の男だ。
『機は熟した。黒い都で待っているよ』
あの冷笑……。
思い出すだけで、ゾッとする。
下で寝ているライラたちに話さなくては……。
すさまじい睡魔が、襲いかかってくる。
「ライ、ラ……」
意識がすべて眠りの手に刈り取られる。
後になって思い返すと、彼の仕業だったかもしれない。否定するだろうけど。
この夜、わたしはまた夢を見た。
いつもの深い深い森を駆け、右足の痛みで目覚める夢を。
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