湖に降る花

 流星のライオスの魂は、もうこの世界にはない。


 竜族に墓はない。


 火竜ならば火に、

 水竜ならば水に、

 風竜ならば風に、

 地竜ならば地に、


 魂を失った体は還る。



 明け星の館に、新たなる長の氷刃のディランが妻を背に乗せて戻ってきたのは、夜が明けて間もなくの頃だった。


 ライオスの部屋の前で、寝ずの番を勤め上げたのは船頭のダグラスだった。


「叔父上、星の広間の前に皆が集まっております。弔いの花かごの用意も整いました」


「そうか」


「あの……」


「いや、いい。大おじいさまとは、充分に別れを過ごした」


 軽く頭を下げたダグラスを残して、ディランは広間へと翼を広げた。


「ナターシャ、俺は……いてっ」


「わかってるから。しゃんとなさい」


 棍棒で小突かれたディランは、嬉しさを隠しきれていない。


 ナターシャが生まれ育ったカヴァレリースト帝国は、昔から争いの絶えない国だった。皇帝が治める穏やかな時代もあったが、嘆きの夜から始まる混乱の時代に平和は失われた。地方の豪族たちが争う時代が長く続いている。

 その帝国の中でも多くの優秀な軍人を輩出してきた家に生まれたナターシャにしてみれば、竜の妻になるなどもってのほかだったという。

 レノヴァ家に生まれたからには、女だろうと武器を取らなくてはならない。ナターシャは武芸だけではなく、学問にも優れていた。男であれば、名を残せたものをと嘆かれるほどに。

 しかし竜の森に嫁ぐということは、その才をすべて捨てることになる。わかっていたが、ナターシャはどうしても与えられた才覚を無駄にしたくなかった。

 その上、七十年前に迎えに来たディランが頼りなさそうな優男となれば、ひと騒動ないわけがなかった。


「みんな、あんたを待っているんだから」


 ディランは、よくやってくれている。これからもよくやってくれると、ナターシャは信じて疑わない。

 棍棒で小突いたウロコを、優しくなでる。




 流星のライオスの魂が楽園へと旅立った翌朝、ディランは星の広間の前に立ち、湖面に並ぶ水竜たちを見渡した。

 変化できない子どもたちや女たちが乗る小舟も見える。


 新たなる長の言葉が、待たれていた。


「昨夜、我らが流星のライオスの魂は、楽園へと旅立った。千年を超える天寿をまっとうされた、偉大なる水竜に祈りを捧げよう」


 ディランは胸の高さに持ち上げた両の手ひらを、空の向こうにあるという楽園へと捧げ目を閉じる。皆がそれにならう。

 うつむいた者たちの中には、涙ぐんだ者も多かっただろう。涙をこぼした者も。


「古くからの慣例にのっとり、これより偉大なる水竜の死を世界中に知らせなければならない」


 最前列に並ぶ四頭の水竜が、居住まいを正す。弔いの花かごをを首から下げたこの水竜たちが、世界中にライオスの死を知らせることになる。

 その中には、水竜一の翼を持つドゥールもいた。


「一輪でも多くの花とともに、偉大な流星のライオスを水に還さなければならない。一輪でも多く」


 飛び立つばかりの花かごを下げた水竜たちにだけではなく、ディランはひときわ声を張り上げる。


「皆の目に涙が見える。好きなだけ泣けばいい。だが、いつまでも泣き続けることなどできまい。いずれ泣き止んだのなら、笑え!」


 戸惑いが波紋のように湖に広がっていく。


「笑え! 速く飛びたければ、笑え! そう教えてくれたのは、偉大なる流星のライオスではないか」


 戸惑いが拭われていく。

 悲しみはまだ拭い去るには早すぎる。だが、何もできなくなるようでは、楽園へ旅立ったライオスが憩うことすらままならない。


「これより三日後、偉大なる流星のライオスの水葬を執り行う。一輪でも多くの花を集めて戻ってこい」


 弔いの花かごを持った四頭の水竜は一斉に翼を広げた。


 弔いの花かごは、時の竜王が四竜族に四つずつ贈った大きな花かごだ。名のある竜のために集められた花を瑞々しく保つための、花かご。


 千年以上生きながらえた流星のライオスの死は、瞬く間に世界中に知れ渡った。

 水竜族が持つ四つの弔いの花かごは、半日もたたないうちに花でいっぱいになった。

 前代未聞のことではあるが、火竜族、風竜族、地竜族からも弔いの花かごが貸し与えられることとなった。あわせて、十六の花かごも二日目の昼にはいっぱいになった。

 明け星の館に持ち帰ってきた花たちを瑞々しく保管するために、一枚岩のヘイデンが協力を申し出た。ディランは、快くその申し出を受けたのだという。


 二日目には、先に知らせを聞いた者たちが弔いの花かごを待ち構えているほどだったという。

 これほど花が集まるなど、楽園へ旅立ったライオスですら驚いていることだろう。



 統一歴3458年 春の初月19日。

 流星のライオスの体を水に還す日。

 この時期、星辰の湖の辺りは雨が多いはずなのに、ここ数日はずっと穏やかな晴れの日が続いている。


「しかし、どうするんだい? これ」


 明け星の館の星の広間に保管されている色とりどりの春の花を見ながら、ナターシャは傍らに立つディランを見上げる。


「どうするって、どうしようか……」


 白い送りの舟には、ライオスの遺体と花でいっぱいだ。

 乗せきらなかった花だけでも、送りの舟が五艘は必要だ。


「我が友に頼んでみてはどうだ?」


 地竜族の秘術をもって、瑞々しく保たれている花の様子を見に来たヘイデンの提案に、ディランは首を横に振る。

 風竜族の風葬を真似てみてはと、ヘイデンは言っているのだ。空の高みより花を降らせてみてはと。


「降らせるまではいいだろうが、後始末ができない」


「なるほど」


 湖に浮かんだ花をどうするのか、それが問題だとディランは答えた。

 送りの舟に乗せた花だけなら、まだ朽ちるに任せられるが、大量の花を湖に浮かべるのは後々のことを考えると、ライオスも喜ぶとは思えなかったのだろう。


「なら、降らせた花を俺が灰も残さず焼き尽くしてやろう」


「クレメント殿」


 背後から星の広間をのぞき込んだ仮面の火竜の申し出を、ディランは快く受けた。

 火竜族の火葬のように、花を灰も残さず焼き尽くす。湖面にすれすれならば、問題ないだろうと。


「しかし、これだけの花を降らせるのは、難儀なもんじゃ」


 小柄な風竜が背後で鼻を鳴らすのを、ナターシャは笑うのをこらえるのに苦労したそうだ。ライオスの痛くもない腹を探っては、勝手に地団駄を踏んでいたロイドらしかったからだろう。


 花を見て回っていたヘイデンが、軽く翼を広げる。


「では、俺はこの花々をより綺麗なものにしようではないか」


 ディランとナターシャは深々と頭を下げた。


 四竜族がその秘術をあわせた葬儀など、後にも先にも流星のライオスだけだろう。


 この日も、よく晴れた。




 ――


 明け星の館の船着き場につながれた送りの舟。

 ライオスの血を引く子どもたちは、大人たちの邪魔にならないように廊下でたたずんでいる。

 十二歳になるドゥールの息子ブライアンは、七歳の船頭のダグラスの次男アーチボルドがずっと船着き場のある一点を見つめていることに気がついた。


「アーチ、どうしたんだ?」


「あのカラス、ずっとあそこにいるんだ」


「カラス?」


 アーチボルドが指差した先には、船着き場の杭がある。確かに一羽のカラスが、杭の上にいた。


「さっきから、ずっとあの杭にいるんだ」


「へぇ」


 興味なさそうに返事をしたものの、ブライアンもじっとカラスを観察し始めた。

 船頭のダグラスや、ディランの息子ドゥール、船大工のキールを初めとした大人たちが船着き場の上を行き来しているにも関わらず、カラスは杭の上から動こうとしない。

 杭の上から、じっと花に包まれたライオスの亡骸を見つめているようにみえる。


「あのカラスも、大おじいさまの死を悼んでるのかな?」


「いたんでるって、何?」


「えーっと、それは……」


 アーチの率直な疑問に、ブライアンは回答に窮した。

 助け舟を出したのは、通りかかった船頭のダグラスだった。


「カラスも、大おじいさまの死を悲しんでいるってことだよ」


 そうそうと二度、三度と首を縦に振るブライアンに、ダグラスは笑う。


「でも、カラスだよ」


「もしかしたら、大おじいさまはあのカラスの命の恩人だったかもしれない」


 ダグラスは、まだ不思議そうな息子の頭を撫でる。


「その証拠に、あのカラスは朝早くにデイジーの花を持ってきたんだ」


 アーチボルドとブライアンは、デイジーの花と聞いて信じられないと目を丸くしたという。

 まだやることがあるからとダグラスが去っていった後で、二人の子どもは尊敬の念でカラスを見つめ続けたという。


「ねぇ、あのカラス、もしかして世界竜だったりしないかな?」


「それはないだろ。……たぶん」


 ブライアンの否定する声は、自信なさそうだった。

 雛菊デイジーの茶器をどれほどライオスが大切にしていたのか、知らない者はこの星辰の湖にはいない。その茶器も、送りの舟に乗せられている。



 太陽が最も高い位置に昇った時が、送りの舟が発つ時。


 新たなる長、氷刃のディラン。

 ディランの息子ドゥール。

 船頭のダグラス。

 船大工のキール。


 選ばれた四頭の水竜は送りの舟を引く綱を握りしめる。


 祈りと葬送の歌声とともに、四頭は西へライオスの亡骸を乗せた舟を引く。

 地竜族の長、一枚岩のヘイデンがより美しくした弔いの花。

 美しい花を、風竜族の長、小閃光のロイドが空の高みより降らせる。

 空の高みより降ってきた弔いの花を、火竜族の長、灰仮面のクレメントが灰も残さず焼き尽くす。


 この世のものとは思えぬ美しい光景が、涙を誘わずにいられただろうか。


 ドゥールは、先頭を行く父ディランが歌を口ずさんでいることに気がついた。




 黄金色こがねいろの昼下がり、貴女とお茶したい

 愛しい、愛しい貴女といれば、俺は世界一の幸せ者


 オー、愛しの、愛しのデイジー


 デイジー、デイジー、愛しのデイジー


 貴女といれば、俺は世界一の幸せ者




 ライオスが、花嫁に求婚した時に作った歌だ。

 たった一人の最愛の奥方オリヴィアを、ライオスはデイジーと呼んだ。


『愛しのデイジー』と。


 西の高殿たかどのを過ぎ、四頭の水竜は綱を離した。


 弔いの花が降り注ぐ中、送りの舟はゆっくりと沈みゆく。


 願わくば、奥方との約束がはたされんことを。




 ――


 星辰の湖に花が降る様は、北の石舞台からでも美しく見えた。


「ずいぶん、花を集めたもんだ」


 千年を超える天寿をまっとうしなければ、これほど集まりはしないだろう。

 腰の革袋から、煎り豆を口に運ぶ。


「1007年、か」


 いくらユリウスさまとの約束があったとしても、限界など超えていただろう。

 遺言を誰かに話さなければ、死なないという約束。その体が、いつまでも健全だったわけがない。

 俺のように、花嫁を得ずに成竜していなければ話は別だったかもしれないが。


「考えるだけ、無駄だな」


 革袋に右手を突っ込みながら、左手の上に分厚い聖典を世界より呼び出す。

 光沢のある黒い布に、金箔で描かれた二重円の表紙。


「まずいな」


 中身を確認するまでもない。

 一なる女神さまの瞳を表す二重円が、歪んでいた。


 豆を口に放り込む。


 ライオスからユリウスさまの遺言を伝えたであろう氷刃のディランと接触。

 あるいは――


 思案にふけっていると、影が落ちた。

 見上げると、カラスが頭上を通り過ぎていく。


「あぁ、花を無事に届けてくれたか」


 自然と、口元に笑みが浮かんでいただろう。


「決めた」


 聖典を世界に還してから変化する。

 常に磨き上げられている北の石舞台に、黒いウロコが覆われた姿が映っていた。

 忌々しい姿だ。


 このままでは、世界が終わってしまう。

 本当は迷う必要などなかったが、ユリウスさまの遺言を知りたいという気持ちが強かっただけだ。


 今は、黒い都に行かなければならない。

 あのふざけた名無しから、助言を仰ぐために。


 飛び立つ直前、右足が疼いた。

 もう長いこと、疼くこともなかったというのに。


「忌々しい」


 世界の終焉だけは、なんとしても避けなければならない。


 俺は知らなかった。

 ライオスが楽園へ旅立った日に、この北の石舞台から黒い都を目指して旅立った一行がいたことを。


 なにがともあれ、世界は終焉へと向かって大きく歪み始めていた。




 統一歴3458年 春の初月19日。

 流星のライオスの体は水に還った。


 星辰の湖では、今でもこの日にイムリ茶を淹れて偉大なる水竜の逸話を語り継いでいる。

 おそらく、これからも語り継がれることだろう。

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