第四章 もうひとつの旅立ち

老竜、死す

 速く飛びたければ、笑いなさい。


 この世界のすべてを笑い飛ばすように、声を上げて笑いなさい。


 その笑い声は、炎を鎮め、大地を揺るがし、風よりも速く飛ぶ力を与えてくれる。


 だから、笑いなさい。


 『水竜族の伝承』より




 ――


 ライオスの最後の夢が、穏やかなものであったと信じたい。


「……ぃさま、大おじいさま」


「ん?」


 まぶたを押し上げれば、船頭の息子の心配そうな顔が目の前にあった。

 大丈夫だと、ライオスはアーチボルドの頭を撫でる。


「ダグラス、もう館につくのか?」


「ええ。まもなくです」


 体を起こしたライオスは苦笑する。


「お飛びになったことで、お疲れになったのですか? お顔色もよくないようですし」


 船頭の妻が心配する声にも、ライオスはただただ苦笑する。


「ああ、そうだとも。とても疲れたよ」


 疲れた声だったが、穏やかな声でもあった。


「少し、休ませてもらうよ」


「ええ、ぜひお休みください。今宵の宴は、夜を徹して行うことになっております。ゆっくり休まれてから、おいでになってください」


「ダグラス、ありがとう。ディランを見かけたら、わたしの部屋に来るように伝えてくれ」


 ライオスは明け星の館の船着き場に着くまで、再び揺り籠のような小舟に身を任せた。


 つかの間のうたた寝。

 穏やかなものであったと、信じたい。


 統一歴3458年 春の初月ういつき15日。

 よく晴れた春の日。芽吹いたばかりの草花が、優しい色で世界を彩る春の日。そう、旅立ちにはうってつけの日。


 数年前から、ライオスは頻繁に宴を催している。ひと月に一度もないときはないほどだった。その理由を語る必要があるだろうか。

 竜の森にやって来た守り育てるべき姫君が、どれほど竜族に影響を与えたのか、語る必要があるだろうか。


 この旅立ちにうってつけの日は、旅立った若者たちの無事を願う主役のいない宴が夜を徹して行われることになっていた。


 明け星の館の船着き場でダグラスは、小舟をしっかり繋いで立ち上がった。

 ライオスは、今ごろ部屋で休んでるはずだ。やはり二十年ぶりに飛ぶのは、体に負担が大きかったはずだ。

 妻と幼い息子は、すでに宴が行われている広間で楽しんでいることだろう。


 ダグラスは、とても宴に参加したい気分になれなかった。


「馬鹿が……」


 何度ため息をついたことだろう。跡取りにと育ててきたはずの長男を思い、これから何度ため息をつけばいいのだろう。


 こんな時に、やるべきことがあるのはいいことだ。

 ダグラスは先に戻っているはずの叔父を探そうと、頭を振る。


「おやおや、誰かと思えば従兄殿いとこどのではないか!」


「ドゥール」


 船着き場に一人いる水竜など、船頭に決まっているというのに、同い年の従兄は芝居がかったことを言う。

 振り返ったダグラスは、やれやれと苦笑するしかなかっただろう。

 快活な笑顔がよく似合うドゥールは、帝国人の母を持つせいか牡鹿のようなしなやかな体躯の水竜だ。


「また、サボっているんじゃないだろうね?」


「もちろん、違う。親父殿がこき使ってくれるから、逃げてきただけのことよ」


「それを、サボっていると言うんだよ」


「バレたか」


 水竜族一の翼を持つドゥールだが、いまだに二つ名を得ていない。

 老竜ライオスの直系の血筋で、長の代行すら務めることもある氷刃のディランの息子であるにも関わらずにだ。


「そんなことばかり言ってるから、二つ名を与えられないんだよ」


「二つ名なら、ちゃんとあるぜ」


 えっと目を見開いたダグラスに、ドゥールは胸に手を当てて得意気に二つ名を披露する。


「人間びいきのドゥール。人間かぶれのドゥール」


「本気にした俺が馬鹿だったよ」


 まったくとダグラスもさすがに吹きだした。


「お、ようやく笑ったな」


 それほどダグラスはひどい顔をしていたに違いない。


「ありがとう、ドゥール。なんだか、気が楽になったよ」


「そうだろうとも、そうだろうとも。なら、姫さまの花婿が一日でも早く見つかるように、ともに一なる女神さまに祈ろうではないか」


「ああ、そうだな」


 両の手のひらを空に捧げて、一なる女神さまに祈る。


「楽園にまします一なる女神さまに……」


 伏せた顔をあげると、ドゥールはわざとらしく焦ってみせる。


「やっべ、そろそろ行かねぇと。みんな昼間っから、飲み過ぎなんだよ。これで酒取りに行くの何回目だよ」


「ああ、そうだ、ドゥール」


「あ?」


 水しぶきを巻き上げて、変化したドゥールをダグラスは慌てて呼び止めた。


「大おじいさまから、叔父上に伝言を預かっているんだが……」


「親父殿なら、ずっと広間にいるぜ」


「ありがとう!」


 翼を広げたドゥールが、笑ったような気がした。


「……本当に、ありがとう」


 ディランの息子ドゥールは、決して無能ではない。ある意味、誰よりも水竜族の未来を憂いている。


 ただ、父のディランたちに理解されていないだけだ。

 ドゥールはダグラスが何を思いいつまでたっても宴の場に姿を見せなかったのか、理解していたのだろう。彼は、知っていたはずだ。ダグラスが、アーウィンをどれほど愛していたのかを。

 だからこそ、あえて姫さまのために祈ろうと言ったのだろう。そうでも言わなければ、ダグラスが息子のために祈らないと知っていたから。


 湖岸にある貯蔵庫に向かう従兄に、ダグラスの頭は自然と下がる。




 ――


 ディランがライオスの部屋を訪れた時、夕日の色に湖が染まっていた。

 遅くなってしまった理由など、些細なことが重なっただけのことだ。

 うっとしい前髪をかきあげて、扉を叩く。


「ディランです。遅くなってしまい、申し訳ありません」


 返事はない。


「大おじいさま?」


 嫌な予感がしたのだという。


 ディランは予感が外れているようにと、祈るような思いで扉を開いた。


「大おじさま!!」


 寝床の入り口である水面から床に頭だけのせたライオスは、疲れているなど生ぬるい有様だった。

 竜の姿に変化しながら駆け寄ったディランの声に押し上げられた瞼の下の青い瞳は、生彩を失っていた。

 薄暗かったせいだろうか、ディランには深い深い青のライオスのウロコが、黒く見えたのだという。


「遅かったな」


「今、薬師のブルーノを……」


「必要ない」


 ライオスの声の力は、まったく損なわれていなかった。頭を上げ水中より立ち上がる彼には、余力などどこにもなかったはずだというのに。

 老竜は、確かに水面に立った。

 生彩を失っていたはずの瞳も光を取り戻し、虚空をにらむ。


が千年以上生きながらえてきたのには、もちろん理由がある。一なる女神さまに愛されているからでも、呪われているからでもない」


「大おじいさま?」


 目が見えていないのではないかと、ディランは恐ろしくなった。失礼を承知でライオスの顔をのぞき込もうとすると、恐ろしい力で右手首を掴まれた。


「聞け、ディラン! 俺はユリウスさまの遺言を守ると約束した。その約束が、俺を生きながらえさせた。覚えておけ、世界竜族との約束は、命すらも縛りつける」


「何を言って……」


「時間がないのだ!」


「っ!」


 ライオスは苦しげに喘ぐ。いくらか、声をやわらげたものの、ディランの右手首を痛いほど掴み続けている。


「もう、何も見えない。まもなく、何も聞こえなくなるだろう。その前に、ユリウスさまの遺言をお前に伝えなければならない」


「そんなことすれば、大おじいさまはっ」


「死ぬ。そういう約束だ。今朝、姫さまには半分だけ星の水鏡で伝えた。残り半分は、今お前に伝える」


 何も見えなくなった老竜にこれ以上生き長らえろという方が、残酷ではないだろうか。ディランの頭にそんな考えがよぎったのは、想像に難くない。

 右手に長の証となる指輪を握らせて、ライオスが微笑んだように見えたのだという。


「宴の邪魔はしたくない。夜が明けるまでは、誰にも俺の死を伝えてくれるな」


 ライオスは、穏やかに最後の竜王の遺言の残りをディランに話し始める。



 ディランが気がついたときには、日が沈んでいた。


 同じ明け星の館で行われている宴の賑やかさが、ひどく遠くに聞こえたのだという。


「大おじいさまは、本当に世界竜族が好きだったのですね」


 まるで眠っているようだ。白い床に横たわるライオスを見下ろして、ディランはそう思ったらしい。だが、二度と目覚めることはないとも、理解していた。


 穏やかな顔で楽園へと旅立ったライオスの遺言通り、朝まで隠さなくては――いや、隠せるわけがなかった。


 ディランは知らず知らずのうちに流していた涙を拭うと、右手の中の青い指輪を右の中指にはめた。


「大おじいさま、今宵の宴は旅の無事を願うためのものですよ」


 人間の姿に変化したディランは、飾り棚の中の雛菊の茶器一式を老竜の亡骸の側に置いて、外に出る。


 湖面を撫でる風は、穏やかで優しかったという。


 星の広間のあちらこちらで、親しい者たちで輪になり床に座り込んで談笑していた。

 子どもたちの多くは、親の膝を枕にしてぐっすりと眠っている。


 ディランは開け放たれた広間の前で、迷ったのだろうか。足が止まっていた。

 そんな彼に上機嫌に声をかけたのは、息子のドゥールだった。その酒臭い息に、ディランは我に返ったわけではあるまいが。


「親父殿、遅かったじゃないですか」


「ドゥール」


「大おじいさまは、やっぱりいらっしゃらないのですか? お疲れだとは聞いてますけど、何か食べるものを持って行ったほうがいいですよね」


 馬鹿な理想を捨てようとしない息子だが、ディランの救いとなった。


「必要ない」


「え? あ、その指輪……」


「みんな、聞いてくれ」


 ディランの右の中指の指輪に戸惑うドゥールも含めて、聞いてくれとディランは手を叩いた。


「我らが長、流星のライオスの魂は、先刻楽園で憩うことが許された」


 真偽を問われる前に、ディランは右手を掲げる。その中指の指輪が何を意味するか、わからない者など星辰の湖にはいない。

 だが、いくらかの疑念が残ったまま、不穏な沈黙が広がる。


「この宴は、旅立った者たちへの祝福のために催されているではないか。ならば、姫さまたちだけではなく、楽園へ旅立った流星のライオスのためにも……」


「より一層、盛り上げていこうではないか!」


 新たなる長、氷刃のディランの言葉を、息子のドゥールが引き継いだ。

 見ていられなかったのだという。無理にでもと、笑顔を浮かべようとする父を見ていられなかったのだという。




 ――


 明け星の館から離れた湖面の上に座り、夜空を見上げたディランは歌を口ずさんでいた。

 彼のウロコよりも星明かりで青く輝く指輪を、何度も撫でる。大きくもない指輪だが、とても重く感じたのかもしれない。


「暁の色に湖が染まるのを、貴女と見たい

 愛しい、愛しい貴女といれば、俺は世界一の幸せ者


 オー、愛しの、愛しの……いてっ」


 古い歌は、水平に回転しながら飛んできた棍棒によって途切れた。命中した左足の付け根をさすってから、ディランは妻が愛用する棍棒を拾い上げた。


「そんな悲しい声で歌ってんじゃないよ」


「ナターシャ」


 小舟で近づいてきた妻に棍棒を返して、ディランは鋭い爪で傷つけないように両手で掴み上げる。


「まぁ、わからないでもないけどね。でも、その歌は悲しい歌じゃないだろうに」


「それも、そうだな」


 ディランは仰向けに湖に浮かび、腹の上にナターシャを乗せる。彼は、妻を腹の上に乗せるのが好きだった。


「ドゥールに、感謝しなさいよ」


「……してる。口に出して言えば調子に乗るから、言わないが」


 ドゥールが強引に明け星の館から追い出さなければ、ディランは悲しむこともできなかっただろう。

 父が決して弱った自分を見せようとしないことを、ドゥールは理解していた。


「本当に変なとこばかり、あんたに似ちゃって……」


「ドゥールと俺が似てる?」


「あぁ、そうだよ。言っても否定するだろうから言わないけどね」


 ウロコの輪郭を優しくなぞるナターシャが、いたずらっぽく笑う。


「……俺で大丈夫だろうか」


「誰だって、同じこと考えただろうさ。何しろ、千年ぶりの新しい長なんだから。あたしはあんたを信じてるけどね」


「ナターシャ……」


 首を曲げて妻の顔をのぞき込んだディランに、ナターシャがどう見えただろうか。いつもよりも美しく見えたことは、想像に難くない。


「弱音なら、いくらでもあたしが聞いてあげる。その度に、活を入れてあげる」


「なら、言わせてくれ」


「早速かい」


「愛してる……いてっ」


「今さら、恥ずかしいこと言ってるんじゃないよ。……あたしもだよ」


 棍棒で腹を叩いたナターシャの顔は、赤く染まっていただろう。




 統一歴3458年 春の初月15日。

 流星のライオスの魂は、楽園へと旅立った。

 千三十六年という長い時を生き抜いたもっとも偉大な水竜が死んだ。


 その異常なまでの長寿の裏に隠された真相が、世界中に涙をもたらすのは、まだ先のこと。

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