仮面の下

 この竜の森で過ごした八年。

 思えば、駆け足で過ぎ去った忙しない日々だった。


 二年ずつ各竜族のもとで過ごしてもらうと聞かされた時は、実感がわかないほど長く感じられたけど、過ぎ去ってみれば本当にあっという間だった。


 星辰の湖では、読み書きや計算を初めとした基礎的なことや、歴史の証人ライオスから世界竜族がどんな竜族だったか学んだ。

 玲瓏の岩窟では、地竜族の高度な知識についていけず早々に諦めたが、ユリアから妻のあり方について学んだ。

 月影の高原では、自分のあり方について学んだ。どう生きていきたいか、責任というものも。


 そして、玲瓏の岩窟と月影の高原の間にある南の陽炎の荒野では、自分の身の守り方と生きていく知恵を学んだ。それから、この世界に病のように蔓延る悪意も。


「クレメントさま、久しぶりです」


 火竜族の長、灰仮面のクレメントが桟橋で待ち構えているなんて、予想もしていなかった。滑らかな灰色の仮面は、人の姿をしていても不気味だ。

 クレメントに緋色の手袋をはめた手を添えられて、わたしは舟を降りる。ダグラスは顔を曇らせた気もするが、何も言わなかった。相手が火竜族の長だったからだろうか。


「おはよう、姫さま。先の冬に火入れのために湖に来た時以来だったかな?」


 水竜族と火竜族。相反するようだが、彼らほど互いに助け合わなければならない矛盾した存在はいないだろう。

 水竜族は厳しい冬を過ごすために、火竜族に火を提供してもらわなければならない。

 火竜族は厳しい夏を過ごすために、水竜族に水を提供してもらわなければならない。

 特に、女たちと子どもたちのために。


「今日は旅立つには、ふさわしい日だ。まったく、あの老いぼれはどこまで計算していたのか、わかったものじゃないな」


 この時期、このあたりでは雨が降りやすい。

 確かに、そう言われてみればという気がしないでもない。


 桟橋を並んで歩きながら、クレメントは空を見上げる。


「しかしその老いぼれが空を飛んだとなると、やはり雨でも降るのではないかな」


「むぅ。そんな心にもないことを言わないでください」


 仮面の下で、クレメントはかすれた声で笑う。


「やれやれ、姫さまにかなう者はこの竜の森にはいないようだ。俺のための墓穴を掘って、出られないと泣きわめいていたのが嘘のようだ。涙やら、土やら、汗やらで、それはもう小汚い小娘だったからな」


「クレメントさまっ」


 なぜ、この旅立ちの日にそんな恥ずかしい話をするのだろうか。

 陽炎の荒野で暮らし始めたばかりの頃の話だ。クレメントにからかわれたわたしは、仕返しにと落とし穴を作ろうとせっせと穴を掘ったことがある。恥ずかしいことに、クレメントの言ったとおり出られなくて泣いてしまったのだが。

 もう、四年前の話だ。

 今もこうしてからかうネタにされるくらいなら、落とし穴なんて掘るんじゃなかった。


 桟橋から少し離れたところでクレメントは足を止める。


「今さらだが、真理派しんりはには気をつけろ。奴らは、どこにでもいる」


 なんとなく、予想していた。

 不穏な風が白い湖岸を吹き抜ける。


 真理派は、竜族を排除することが正しいと信じている人間だ。

 自分の身を守ることができない子どもたちが、竜の森の外に出ることを禁じられているのも、真理派を恐れてのことだ。

 真理派が、竜族を憎むことが理解できない。

 それでも、理解しがたい悪意を持つ人間がこの世界にいるのだと、陽炎の荒野で彼から学んだ。


「今でも、ふとした時にあの時の光景がよみがえるのだ」


「奥方とご子息のことですね」


 乾いた風が白い湖岸を吹き抜ける。


 クレメントの奥方とご子息は、真理派に殺されたのだ。

 奥方の首を切り落とされた上に、産声をあげることすらできなかった小さな命は文字通り踏み潰されていたのだという。


「死んだ者に生きている者がしてやれることなど、楽園で平穏な日々を過ごしていることを祈ることだけだ。だから俺のために――俺が楽園で胸をはって再び妻と息子に会うことができるように、どうか無事にこの旅を成し遂げてほしい」


 それでも、彼は奥方とご子息を殺した真理派を焼き尽くしたはずだ。それこそ、灰も残らないほど。そして、その炎は彼自身すらも焼き尽くそうとした。

 まったく、言いたいことをズケズケ言う火竜族らしくない。


「クレメントさま、いいですか?」


 背の高いクレメントの仮面に手を伸ばす。ピクリと彼の肩が震えたような気がするが、構わずに仮面を外す。

 肩をすくめるクレメントの顔は、ひどい有様だ。

 顔全体の三分の二ほど、ひどい火傷の痕が広がっている。顔だけではない。クレメントの体中に火傷の痕がある。どれほど彼の怒りが凄まじいものだったのかと、初めて彼の素顔を見た夜は怖くて眠れなかった。


「……まったく、姫さまにはいつも驚かされてばかりだ」


「むぅ」


 何をそんなに驚く必要があるのか、わたしは不思議で馬鹿にされたような気もした。


「わたし、今はその顔がとても美しく見えるんです。亡くなられた奥方さまへの深い愛情の証だと思えば、ちっとも恐ろしくないんです」


 嘘だ。

 本当は、彼の素顔が恐ろしい。


「だから、今でも胸を張って楽園で奥方とご子息に会うことができるはずです」


 言いたいことは言った。

 小娘が何を言うと、笑い飛ばしてくれてもいい。ただ、どうしても言いたかった。こんな元気のないクレメントは、見ていたくない。


 優しい風が吹く。


「これから旅立つという姫さまに、気を遣わせたと知られたら、火竜の恥さらしもいいところだ」


 かすれた声で、クレメントは笑ってみせた。


「この竜の森の一歩外に出れば、姫さまは安全とは言い難くなる。それほど、奴らは危険だ。だが、俺たちも姫さまのため、世界竜族の生き残りのために、できうる限りのことをしている。そのことを忘れてくれるなよ」


 クレメントは仮面を返してくれと手を伸ばす。


「そう言えば、ローワンは一緒じゃないんですか?」


 返した仮面をかぶり直すクレメントに、いつも一緒にいた火竜の若者の姿がないことに気がついた。すぐに今日は長たちと旅の仲間とその家族だけが、北の石舞台に立ち入ることを許されているのだと思い出す。あの快活な火竜の若者の姿が見当たらなくても、無理もないことだ。

 わたしが自分で納得していることに気がつかなかったのか、仮面の向こうの赤い目が宙を泳いでいるようだ。


「あぁ、あいつは……まぁ、あれだ。察してくれ」


「むぅ? もしかして、ローワンが……」


「察してくれと言ったろう」


 それ以上言ってくれるなと手をひらひら振るクレメントに、ローワンが旅の仲間なのだと確信した。

 火竜族の若者のまとめ役のようなローワンが一緒なら、とても心強い。


 仮面の下で苦い笑いを浮かべているに違いないクレメントは、やれやれと肩をすくめる。


「これ以上、姫さまを引き止めていると、殺されそうなのでな」


「むぅ?」


「さっきから、視線が痛くてかなわん」


 クレメントの足元からゆらりと陽炎がゆらめく。

 視線とはどういうことなのかと尋ねるより早く、クレメントは仮面をかぶった竜に変化した。


「姫さま、俺たちのことも忘れてくれるなよ」


 行ってしまった。

 間近で翼を羽ばたくことによる風を、目をつむってやり過ごす。

 火竜族はおそらく、風竜族とマイペースさにおいてはいい勝負だと思う。


 ゆっくり目を開けると、ディランが森の方から駆け寄ってくるのが見えた。


「姫さま、大丈夫ですか?」


 クレメントが痛くてかなわないと言った視線は、ディランのものだと納得した。


「お怪我はありませんか? なにか、不快なことを言われませんでしたか?」


「ディラン、そんなことあるわけないじゃない。クレメントさまと話してだけなんだから」


 ディランは、どうもわたしに対して過保護すぎるところがある。


「それなら、よろしいのですが。なかなか、来られないので心配してしまいましたよ」


「大丈夫。ちゃんと行くから」


 充分すぎるほどディランと距離を置いて、北の石舞台に通じる道へと足を向ける。

 ディランと距離を置いて歩くのには、理由がある。


「姫さま、姫さま、外套はしっかり羽織ってください」


「むぅ」


 明け星の館から、脇に抱えてきた茶色の外套。確かに、羽織らなくては意味がないだろう。背嚢の上から羽織ってもいいように大きめに誂えられた外套は、色こそ違えど水竜族のもやの外套に似せたデザインだった。

 リュックベンでダグラスやディランが人目につかずに行動することができたのは、彼らが空中の水分から作り出す靄の外套の仕業だった。


 外套を羽織ったわたしを見て、ディランがだらしなく破顔したのは、おそらくそういうことだったと思う。


「よく似合います! さすが姫さ……っ」


 ブンブンと風を切る音がしたと思ったら、ディランの整った顔に回転しながら黒い棍棒が飛んできた。避けようとすれば、明らかに避けられるはずなのに、ディランは


「むぅ」


 これがディランと距離を置く理由だ。仰向けに倒れたディランの巻き添えなんて、ごめんだからだ。


「ナターシャ! 顔はやめろっていつも言ってるじゃないか!」


 竜族は、たとえ人の姿をしていても頑丈な体を持っている。だから、すぐに跳ね起きて文句を言うことができるのだろうが、痛いことには変わりないはずだ。


「あー、うるさい、うるさい。わめくんじゃないよ。みっともない」


 そして森の奥から現れるナターシャも、ことあるごとに夫のディランを棍棒で攻撃することも理解しがたい。


「フィオも、大切な日にこんな馬鹿につき合うことはないよ」


 ナターシャはいつものように、棍棒を拾い上げて肩をすくめる。

 この夫婦にとって、これが愛情表現なのだと聞いたことがある。

 奇妙に見えるこの光景も、しばらく見ることができないと思うと寂しい。


「それにしても、フィオもずいぶん様になっているじゃないか」


「ありがとう、ナターシャ」


 何か言いたそうなディランは、この際無視する。


「ところで、ナターシャ。もしかして、ドゥールの見送りに?」


 この夫婦が見送りするなら、きっと息子のドゥールだろう。

 馬鹿息子と呼ばれているが、ドゥールは立派な青年だ。きっと、人間が好きすぎて理解されにくいだけだ。

 人間が好きな彼ならば、喜んでこのあてのない旅で力になってくれるはずだと思ったのだが――


「とんでもない!」


「むぅ」


 ディランとナターシャは、声を揃えて否定する。それなら、どうしてこの夫婦はここにいるのだろうか。長たちと旅の仲間の家族だけが、見送りを許されているはずではないのか。


「俺たちが、見送るのはナターシャの身内ですよ」


「ナターシャの身内?」


 それは、どういうことだろうか。

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