老竜、飛翔

 明け星の館の船着き場には、ダグラスの舟が泊まっていた。


「姫さまぁああ」


「アーチ、おはよう。待ちくたびれた?」


 船頭のダグラスの次男アーチボルドが駆け寄ってくる。あの生意気なアーウィンとは違って、素直で可愛げがあっていい。何より、わたしの父アーチボルドから名前をもらっているから、余計にかわいがってしまう。


「ううん。ちょっと待ったけど、僕らは姫さまを運べるんだから、どうってことないよ」


 ねっと、白い小舟の上の父ダグラスに笑いかける。

 船頭のダグラスは苦笑いしただけだったが、先に小舟の上にいた母のフローラに軽くたしなめられた。


「アーチボルド、姫さまを運ぶのはお父さまですよ。わたくしとお前はお荷物にすぎません」


 緑がかった黒髪を肩で切りそろえたフローラの鈍色にびいろの瞳が、わたしは好きだ。アーウィンとアーチボルドは兄弟そろって、もっと優しい母がいいとか不満の声を上げるが本当はフローラが大好きだ。アーチボルドの笑顔が何よりの証拠だ。


「旅立ちにふさわしい朝を迎えられたことを、一なる女神さまに感謝いたします。姫さまの旅路に災いなきことをお祈りします」


 水竜族の中でも、ダグラスほど信心深い水竜はいない。彼が伸ばした手をとって、舟に乗る。

 そう言えば、アーウィンの姿が見当たらない。

 また何か企んでいるのではと、キョロキョロしてしまう。


「姫さま、大おじいさまはまだ来られないのですか?」


「む?」


 そうだ。

 ライオスも、舟で行くはずだ。もう長いこと飛んでいないらしいし。わたしも、ライオスが飛ぶところを見たことない。


「様子を見てくる。アーチ、姫さまと母さまと一緒に舟で待ってなさい」


 ダグラスが舟を降りる前に、アーチボルドが歓声のような声を上げた。


「父さま、大おじいさまだ!」


 幼い水竜が満面の笑みで空を指差す。

 船着き場に影が落ちたのと、どちらが早かっただろう。年老いてもなお優雅な体の深い青のウロコを朝日で輝かせて、ライオスは飛んでいった。


「ああ、大おじいさま、笑っていらっしゃるのですね」


 ダグラスは感極まったのか、声が震えている。


「俺たちも、急がないと。アーチ、早く舟に乗りなさい」


 アーチボルドが元気よく飛び乗ると、ダグラスは船尾のを手にとった。


「アーウィンは?」


「兄さまはね……」


「アーチ」


 姿の見えないアーウィンのことを尋ねれば、得意気に答えようとしたアーチボルドを咎めるように首を横に振ったダグラス。


「アレのことなら、すぐにわかりますよ」


 ダグラスは跡取りにと長男のアーウィンに厳しいところはあったが、こんなに怒りを露わにするようなことはしなかったはずだ。

 なにか、あったのだろうか。

 向かいの船尾側に座るフローラが、しょげかえるアーチボルドを慰めるように頭を撫でる。


「あなたも、アーチに八つ当たりすることはないでしょう」


 ダグラスは重苦しいため息をついただけだ。


 舟はゆっくり動き出す。

 少しずつ遠ざかる明け星の館、星辰の湖に浮かぶ白い家々。


 強引ではあるもののフローラの笑顔が、気まずい空気払拭してくれた。


「姫さま、旅立ちにふさわしい朝を迎えることができて、本当に良かったですわ」


「ありがとう」


 あまりにも彼女の笑顔が素敵だったから、照れてしまったほどだ。


「大おじいさまも、飛んでくれたしね。僕、始めて見た」


「むぅ。そう言えば、わたしも」


「あらやだ。わたくしも」


 苦い笑いを浮かべているダグラスに、視線が集まる。


「俺が最後に見たのは、フローラを探しに行く前のことですよ」


「まぁ。もう二十年も前のことじゃないの」


「そうだよ。フローラ」


 ライオスがなぜ飛ぶことをやめてしまったのか、本当のところは誰にもわからない。もちろん、彼の血を引くダグラスも。


「姫さまは、我ら水竜が空を飛ぶ練習をする時になんて言い聞かされるのか、ご存知ですか?」


 不意にダグラスに尋ねられて、わたしが首を横に振るよりも早く、アーチボルドが元気に答える。


「僕、知ってるよ! 『速く飛びたければ、笑いなさい』でしょ?」


「やれやれ、アーチボルド、お前は知っていて当然だろう」


 テヘヘと笑う息子に困った顔をするものの、ダグラスは本当に困っているわけではなさそうだ。


「仕方ないですわ。みな、その話が好きなのですから」


 話して差し上げたらとの妻の提案を快諾した船頭のダグラスは、巧みに舟を操りながら語りだした。


「その言葉を最初に語って聞かせたのは、大おじいさまでした」


 心地よい舟の揺れに、どんどん心がほぐれていく。


「かつて、大おじいさまは水竜族らしからぬ水竜として知られておりました」


 そんな話は初めて聞いたというと、ダグラスはさらに嬉しそうに話を進めてくれた。


「頑固者で負けず嫌い。一度決めたらてこでも動かない、困った若者だったそうです」


「まるでリュックベンの女のようね」


 父を見上げるアーチボルドは続きを知っているだろうが、よほど大好きな話なのか目が輝いている。


「大おじいさまは喧嘩っ早い分、リュックベンの女よりもずっとたちが悪かったに違いないでしょうね」


 穏やかなライオスが喧嘩っ早かったなんて信じられない。


「水竜族の外でもいさかいを起こす大おじいさまに手を焼いた当時の長たちは、竜王さまに助言を求めました。竜王さまは助言を与えずに、大おじいさまを連れてくるようにお命じになられたそうです」


 どうやら千年以上前の話のようだ。そういえば、わたしが伝え聞いたライオスの逸話のほとんどが、嘆きの夜以降の混乱の時代の功績をたたえたものばかりだった。


「竜王さまのご命令に、水竜族の長たちは頭を抱えました。大おじいさまが素直に従うことはありえなかったのです」


 心がほぐれていくうちに、自分がどれだけ緊張していたかよくわかる。


「あれこれ試したそうですが、大おじいさまはずる賢く逃げまわっていたそうです。長たちはいくども竜王さまの元を訪れますが、いつも大おじいさまを連れてくるようにとしか、おっしゃいませんでした」


 ずる賢く逃げまわるライオスの姿、どうしても思い描けない。


「ある時、大おじいさまに煮え湯を飲まされたことのある風竜族の若者が、竜王さまの呼び出しの話を聞きつけ協力を申し出ました。その風竜が銀閃光ぎんせんこうのロイドさまです」


 銀閃光のロイドは、ライオスと同じく混乱の時代を立て直した偉大な竜の一頭に数えられている。

 ライオスとは仲が良かったわけではないと聞いている。たしか、顔を合わせれば憎まれ口を叩きあう、腐れ縁の悪友のような仲であったと。まるで、今の風竜族のロイドとの関係に近いような気がする。


「大おじいさまには宝物がありました。今でも大切にしておられますが、大おじいさまがお産まれになった時に、祝いの品として竜王さまから贈られた短剣です。それはもう、ふんだんに装飾が施された美しい短剣だそうです」


「父さまも見たことないの?」


「もちろん」


 もしかして、先ほど星の水鏡に使った短剣ではないだろうか。


 もうすぐ南の高殿たかどのだ。


 東西南北に一つずつある高殿が、星辰の湖の居住地区の境の役割をしている。


「話を戻しますね。ロイドさまは水竜族に協力してもらい短剣を大おじいさまの目の前で奪って飛び去りました。いくら荒くれ者であっても、大おじいさまにとって竜王さまからの祝いの品を失うことは耐えられませんでした。怒りに任せてロイドさまを追いかけたそうです」


 風竜を追いかける水竜など、想像できない。風を司る風竜族は四竜族の中で一番速く飛ぶことができる竜族だ。


「大おじいさまも怒りに我を忘れていなければ、ロイドさまのお考えに気がついたでしょう。ロイドさまは、竜王さまが待つ世界の中心の塔を目指されたのです」


 世界の中心の塔と聞いて、ようやく竜王ユリウスが息絶えた塔と結びついた。玲瓏の岩窟で叩きこんだ知識の一つだ。さっきは悲しみで押しつぶされそうで余裕がなかった。


「ロイドさまは、大おじいさまが見失わないぎりぎりの距離を保って飛んでいたそうです。本気を出せば、大おじいさまは見失ってしまうとお考えになられたのでしょう。誰もがそう考えられました。俺でもそう考えます。結果を先に申し上げますと、大おじいさまはロイドさまよりも速く飛ぶことができたのです」


 信じられない話だ。常識を覆している。


「大おじいさまが翼に疲れを覚えた頃、ふと自分がひどく滑稽に思えたそうです。何をやっているのだと、笑わずにはいられなかったそうです。これまでの自分の行いがどれほど愚かであったか、初めて気がついたそうです。愚かであった自分を笑ってやろうと、自分が起こした愚行を思い出せるだけ思い出しました。そして、自分を笑い飛ばしたのです」


 南の高殿の横を抜ける。しばらく星辰の湖ともお別れだ。


「前を行くロイドさまが自分を許さなくても、大おじいさまは自分だけでも自分を許してやろうと笑ったそうです。自分自身を許せなくては他人に寛大になれるわけがないのだと、笑ったそうです。笑うたびに心が軽くなったそうです。体までも。気がついたら、世界の中心の塔の上に来ていたそうです。出迎えられた竜王さまはこうおっしゃいました。『やっと、そなたの氷がとけたようだ。余はそなたを罰することはしない。そなたはやるべきことがわかったはずだ』大おじいさまを改心させるには充分すぎるお言葉でした」


「それから、大おじいさまは『速く飛びたければ、笑いなさい』って教え続けたんだよ」


 アーチボルドが誇らしげに続ける。

 一番いいところを持ってかれたダグラスは、軽く咳払いする。


「大おじいさまは、その時に竜王さまより二つ名を頂いたそうです。流星のライオスとは、流れ星のように飛ぶ水竜と言う意味があるのですよ」


 飛ばなくなったから、二つ名を名乗らなくなったのだと、なんとなく理解できた。


「あれだけの長寿ですから、いくら一なる女神さまに愛されているとはいえ、憂いもたまり心から笑えなくなっていたのでしょう」


 本当によかったと、ダグラスの声が震えている。


 その目に宿る光るものを見なかったとこにしようと、そっと船首の方に体を捻る。

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