星の水鏡
イムリ茶は茶葉が安価なこともあり、故郷のリュックベンでも庶民的な飲み物だった。
そんな庶民的なイムリ茶が、ライオスが淹れただけでどうしてこんなに美味しくなるのか。謎だ。
爽やかな優しい香りが、旅立つにはうってつけの朝に彩りを添える。
世界一美味しいイムリ茶もしばらく飲むことができないと思うと、味わって飲まなくては失礼というものだろう。
「さて、話をしようか」
カチャリと雛菊のカップを置いて、ライオスは口を開く。
「覚えていないだろうが、姫さまがこの森にやってきたその日の会議で、ヘイデンに世界竜族の生き残りのことを知っていたのではないかと問いかけられた」
残りのイムリ茶をすすりながら、わたしが一触即発の緊急会議を思い起こす前に、ライオスは軽いため息をついて続ける。
「統一歴2451年の秋の
「嘆きの夜、ですね」
「…………星のない夜だった」
空っぽのカップの底に、ライオスは何を見ていたのだろうか。
最後の竜王ユリウスが名付けた最後の水竜。それこそが、本来の竜族の寿命の何倍も生き続けている理由だと、噂されている。
「二つの満月が明るすぎて、星が見えなかったのだよ。わたしは星を読むことはできなかったが、胸騒ぎがした。いても立ってもいられなくて、あの夜、わたしは黒い都を訪れたのだよ」
「え?」
驚きの声を上げたわたしに、ライオスはほろ苦い笑みを浮かべる。
「この事実を知っているのは、ディランだけだ。さて、ヘイデンが言った通り、わたしは生き残りがいることを知っていた。ユリウスさまから、聞いたのだよ。ユリウスさまの遺言でね。ディランにも、この遺言はまだ教えてはいない」
「ユリウスさまの遺言……」
ライオスが晴れやかな笑みを浮かべて、立ち上がる。
「ついてきなさい。わたしが見たものを、見せてあげよう」
いつもよりも軽い足取りも、晴れやかな笑顔も、彼が覚悟を決めた証であったなど、わたしは知る由もなかった。
老竜ライオスは、わたしが知るもっとも偉大な水竜だが、もっとも掴みどころのない水竜でもあった。老賢者にふさわしい一面もあれば、子どものようにいたずらっぽい一面もある。
「もっと早く見せてあげられればよかったけど、事情があってね」
「はぁ」
静かな湖に面した廊下を並んで歩きながら、気の抜けた相槌を打ってしまった。
「嘆きの夜と呼ばれるにふさわしい悲劇を、見てもらわなくてはならないわけだが……」
「大丈夫です」
「頼もしいね」
本当は大丈夫かどうかすらわかっていない。ただ、覚悟はしなくてはならない。
これから、わたしはライオスが見たものをそのまま見ることになるのだから。
ライオスとやってきたのは、星の広間だった。明け星の館でもっとも広い場所。それもそのはずで、宴や会合はこの広間で行われる。
水竜族は装飾を嫌うのか、湖に浮かぶ家々はとてもシンプルな作りになっている。
この星の広間ですら例外ではなく、わたしとライオスだけでは、殺風景な印象すら与える。
「水鏡は本来、心の中を映し出すものだ」
今さら教わるまでもない知識。
水竜族の水鏡は、遠く離れた水竜族の間で連絡を取り合う手段だ。
しかし、本来は水鏡をのぞきこんだ者の内面をありのままに暴き出すのだという。連絡手段としての使われ方は、本来の使われ方を応用したにすぎない。ただ、見たくない心のうちまで映しだすために、めったに本来の使い方をしないのだという。
わたしは静かにうなずいて、広間の奥にある水盤にライオスが水を注ぐのを見守る。
白い水差しから注がれる細い水の流れは、天窓から差し込む朝日に輝いている。
水盤を満たすと、次にライオスは長衣の下から短剣を取り出す。指輪のある右の中指の先に刃を軽く押し付けた。赤い血がぷっくりと膨らんだ指先で、そっと水鏡に触れる。
「さぁ、姫さま、のぞいてごらん。星の水鏡を――嘆きの夜を」
気持ちを落ち着けようと両手でウロコの入った小袋を握りしめながら、わたしは星の水鏡をのぞきこんだ。
――
凄まじい速さで、景色が流れて行く。
荒々しい息遣いと、羽ばたく音。
これはライオスが見た嘆きの夜の光景だと、思い出すのにしばらくかかった。
誰かの目に映る光景を見るということは、夢を見るよりも現実味がない。
時おり星のない夜空が見える。銀色のシャール月と黄色のムスル月が明るすぎて、星の光が届かないのだろう。
やがて森は途切れ、黒い石造りの家が並ぶ都が眼下に広がっていた。
言葉にならない叫びを聞いた。
ライオスの叫びだった。
『なにがあったんだ! なんなんだ、これはぁああああああ』
視界がブレるのは、ライオスがめちゃくちゃに首を振っているからだ。
黒い都は、すでに死で満たされていた。
都の至る所で、黒い竜が横たわっていた。
竜の傍らには妻だったであろう女性も横たわっている。まだ変化すら出来なかったであろう黒髪の少年も横たわっている。
誰も動かない。
嘆きの夜の光景だと知らなければ、眠っているだけだと思ってしまうほど、安らかに死んでいた。
ライオスの叫びが虚しく死の都に響く。
しばらく狂ったように叫び続けたライオスは、再びどこかを目指して飛び始めた。
ライオスにとって、世界竜族はかけがえのないものだったのだろう。
世界竜族のことを語る時の彼は、いつも活き活きしていた。偉大で、尊敬するべき竜族の王族であると同時に、彼にとっては憧れの存在だったのだろう。
特に名付け親の最後の竜王ユリウスさまを、どれほど慕っていたのか――彼の目を通して見ることで痛いほどよくわかった。
『ユリウスさま!』
黒い都の中心にある黒い塔の傍らで横たわる世界竜が、わずかに首をもたげた。彼が最後の竜王だろう。
『ユリウスさま』
視界が滲む。涙ぐんでいるのだろうか。
滲んだ視界で、ライオスはユリウスのかたわらに降り立つ。
『流星のライオスか』
ユリウスの声には生気がなかった。黒いウロコの美しい竜王は、うめき声をあげながらまぶたを押し上げる。
『さすがにもう何も見ぬな。ライオス、なぜ来たのだ?』
光を失った
『俺は、俺は、星が見えないことに胸騒ぎを覚えて……』
『来るべきではなかった』
ユリウスは瞳を閉じて、わずかにもたげていた頭も力を失い地面に横たわる。
『夜が明ける前に、立ち去れ。お前も死ぬことになるぞ』
『かまいません! 俺は、俺は……』
視界がまたひどく滲む。ライオスにとって、世界竜族がいかにかけがえのない存在だったか。
『駄目だ。ライオス、お前を道連れにするわけにはいかない』
ユリウスの声に、堂々としたものが宿る。四肢に最後の力がこもる。ふらつきながらも、最後の竜王はしっかりと立ち上がった。
『聞け、ライオス。我ら世界竜族は、この世界から消え去る。だが一頭のみ、余の希望となる子だけが残っておる。余の希望であり、この世界の希望だ』
『それは誰です? どこに……』
滲んだ世界で、ユリウスの体がゆっくりと崩れ落ちていく。
――
そっと両肩に、温かい手が添えられた。
「ライオス、さま?」
「大丈夫そうだね。よかった。すぐに戻ってこられない者も多いからね」
体に力が入らない。視界は滲んだまま。
ライオスに支えられながら、近くにあった椅子に座らせてもらう。
「ユリウスさまがおっしゃっていた希望が、わたしの花婿ですか?」
「そういうことだ。千年以上生きながらえたが、影も形も見出だせなかったがね」
涙を拭いなさいと、ライオスからハンカチを受け取る。言われたとおりハンカチで涙を拭いきる頃には、かき乱された心も落ち着きを取り戻しつつあった。
「ライオスさま。なぜ、今までこの、嘆きの夜のことを隠してきたのですか?」
「さぁ、なぜだろうね。いつでも打ち明けることはできたはずなんだけどね」
その自嘲じみた口ぶりのせいで、それ以上追求することははばかられた。
「でも、せめてヘイデンさまや他の方々に教えるべきです。今なら、協力し合えば、見出だせるかもしれないじゃないですか」
「そうだろうね。そうだとも。姫さまが見出された今なら、見出だせるだろう」
ライオスは約束してくれた。わたしが旅立った後に、すべてを明らかにすると。
「さて、そろそろ時間だ。行きなさい。船頭のダグラスが待ちくたびれているだろうよ」
「はい」
わたしは立ち上がって、深々とライオスに頭を下げて明け星の館の船着き場に向かった。
少しだけ、静かな湖が生彩を取り戻した気がする。
――
わたしを見送ったライオスは、左胸をおさえて苦しげにあえいだ。
顔色も急に青ざめ、立っているのもやっとだった。
「姫さまを送り出すまでは……」
よろめき星の水鏡の水盤の縁に手をかけてしまったライオスが、しまったと思ったときにはもう遅かったのだろう。
水竜族の至宝である星の水鏡を不用意にのぞきこむ危険性を熟知していたはずのライオスですら、為す術もなく自らの心の闇にのまれてしまった。
『なぜ、奴だけがまだ生きている』
『息子はまだ三つだったの。不公平じゃない!』
『まともじゃない。化け物だ』
暗闇の中、批難の声がライオスに降り注ぐ。聞き知った声もあったかもしれない。全く覚えのない声もあったかもしれない。
ライオスが耳をふさぎ続けた声。
「お前たちに何がわかる!」
耐えかねてあげた声すらも虚しいだけで、すぐに無数の非難の声に飲まれる。
『なぜ、お前だけが!』
『化け物! いまに、一なる女神さまの罰が下るわ』
『死ね! 死ね!』
非難の声は、絶えることを知らない。
「俺は、ユリウスさまと……」
『それは、理由にならない』
『言い訳にすらなってない』
生きながらえる正当な理由がないことは、ライオスが一番よくわかっていた。
多くの死を見てきた。
多くの喪失にさいなまれてきた。
多くの――
『しかたないじゃない。あなたは、世界竜族のことが好きなんだもの』
「……オリヴィア?」
暗闇が拭われていく。
愛しい人の愛しい声で、拭われていく。
そう、これはライオス自身の心の闇でしかない。
『それにしても、ひどい味ね』
目の前にベッドに横たわる病床の妻がいた。
クッションに上体を支えられたオリヴィアは、ひと口すすっただけで雛菊のカップをつきかえす。
『しかたないだろう。お前よりも、美味しくイムリ茶を淹れることができる奴なんていやしないんだ』
決して楽しい過去ではないのに、ライオスの心は泣きたくなるほど満たされていく。
『あたし、もうすぐ楽園に行くの』
『ああ、そうだな』
『馬鹿よ。世界竜族の再来なんて夢みたいなことのために、孤独に生きながらえるなんて』
『すまない』
『謝らないで。気が遠くなりそうよ。あたし、楽園であなたのこと待っていられるかしら?』
それでも、ライオスは世界竜族を待ち続けたかった。
『嫉妬しちゃうわ。……ねぇ、約束しましょう。あなたが楽園に来たら、とびきり美味しいイムリ茶を飲ませてくれるって』
『なんだ、それ』
『約束一つで、あなたを待っていられるから。ね?』
わがままで、身勝手で、どうしようもない自分を支えてくれたよき理解者で、最愛の人。
突き返された雛菊のカップに残る濁った飲み残しのイムリ茶を見つめて、ライオスは微笑んだ。
「約束しよう」
かすかな水滴の音とともに、ライオスの心は星の広間に戻ってきた。水鏡に波紋を広げたその
星の水鏡には、ライオスの晴れやかな笑みが映し出されている。
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