第三章 旅立ちの日
静かな朝
世界竜族が一頭笑うだけで、世界が華やぐ。
世界竜族が皆で歌い踊れば、世界中が歓びに満たされる。
それが彼らだ。
彼らを失ってから、世界は彩りを失った。
まるで歓びを感じられない。
『流星のライオスの口癖』より
――
森の中を『わたし』は走っていた。
歓びが『わたし』を走らせているのだ。
歩くなんて考えもしない『わたし』は、疲れを知らない。
今朝から森が静かだ。そんな時は、じっとしているのが一番だけど、『わたし』はじっとしていられなかった。
歓びだけを
と、右足に鋭い痛みがはしる。
金属のガチャガチャという音が怖い。
『わたし』は、たちまちパニックに陥った。
二本足の罠だと気がついて、『わたし』は逃げようとするけど、足に食らいついた罠から逃げ出せない。痛みがますばかり。
ガサガサと音を立てて、二本足がやって来た。
『わたし』は唸ったりして、必死で抵抗しようとする。
本当は怖くて仕方ない。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い……。
満ち溢れていたはずの歓びは、もう残ってはいない。
――
明け星の館の寝室で、目を覚ました。
深い森の夢から醒めて、いつものようにぼんやりと白い天井を眺めている。
「人間、だったよね」
夢の中で恐怖の対象だった二本足。あれはどう考えても、人間だ。あるいは、人間の姿に変化した竜族。
繰り返し見てきた深い森の夢だったが、最後の右足に痛みが走った後の光景は初めてだった。
右足に痛みなんて残っているわけもなく、ただぼんやりと白い天井を眺めている。
以前ライオスに相談したら、花婿となる世界竜の記憶かもしれないと、言っていた。
わたしはどうも竜の花嫁の中でも
「そろそろ、起きないと……むぅ?」
何か、とても大事なことを忘れている気がする。
なかなか、上手く回らない頭がもどかしい。
「あっ、今日だった!」
思い出した途端、一気に目が覚めて飛び起きる。
なんてことだろう。
こんな大事な日を忘れていたなんて。
統一歴3458年 春の
三日前に十五歳になったばかりのわたしにとって、この日は本当に大切な日だった。
旅立ちの日。
そう、わたしは夫となる世界竜族の生き残りを求めて、あてのない旅に出る。
十五歳を旅立ちの時と長たちが定めたのは、竜族にとって安定した
顔を洗って、早く着替えなくては。
白い肌着の上に、クリーム色の幅広の襟のシャツを着る。
動きやすさを重視した厚手の茶色いズボンは、裾にも太もも周りにも余裕がある。なので、防寒対策の黒い厚手のタイツを先にはかなくてはいけない。タイツの締め付けが、すがすがしい朝の空気とともに気持ちを引き締めてくれた。
若葉色のフェルトのベストを羽織って、水色のリボンで髪を高い位置でまとめる。
水色のリボンは十歳の頃に故郷の頭巾が似合わなくなってもかぶり続けるわたしに、お姉ちゃんが贈ってくれたものだ。
部屋のすみにある姿見で、一度自分の姿を確認する。
「むぅ」
どうも、水色のリボンが旅にはふさわしくないような気がする。
なんだか、子どもっぽいような気がする。
波打ったくせの強い金髪。グリグリとした若葉の色をした瞳は、潤みがち。なにより、頬のそばかすが悩みだ。
玲瓏の岩窟のユリアがこの旅のために繕ってくれた服を着れば、少しくらいは大人っぽくなれるような気がしたのに。
「まだ十五歳だもんね」
地竜族の長、一枚岩のヘイデンの奥方ユリアは、貴婦人などではなく貧しいお針子を母に持つ娘だった。父親は名前も顔も知らないらしい。
星辰の湖で二年過ごした後の、玲瓏の岩窟で過ごした日々で学んだことの多くはユリアに教わった。
とても変わった人だけど、人望のある人だった。特に地竜族に限らず、全竜族の妻たちに人気があった。
子どもを産むためだけの妻では駄目だと、彼女は教えてくれた。
特に地竜族は、妻たちを壊れ物のように接する風潮が強かったそうだ。
自分たちは、弱くない。妻としてできることが、たくさんあるはずだと、ユリアは周囲に訴え続けてきた。ユリアの考えに共感する妻たちは、たくさんいた。具体的にどうするべきかは、すぐに見つかった。
『服よ。服。竜族って、いっつもあの長衣ばかり着てるの、なんとかしなきゃって』
お針子の娘らしい発想だと思うかもしれない。しかし、実際には自分の母と同じような貧しい働くすべての女性のためにと、彼女は働きかけている。
『まぁ、まだまだだけどね』
ユリアはそう苦笑いしていたけど、竜族の妻たちが子どもを産むだけの存在ではあってはならないというのは、本当にもっともだと思う。
結局、わたしはリボンを外すことにした。
代わりに組み紐で髪をまとめ直す。
「むぅ。……なんか、落ち着かない」
水色のリボンが、わたしのトレードマークになっていたのかもしれない。
姿見に向かって笑いかけるけど、落ち着かない。
朝食を食べに食堂に行くには、ちょっと早い。
「そうだっ」
荷物の確認をしよう。何度も確認しているが、寝室の向こうの私室に置いてある丈夫な麻の
「むぅ」
寝る前に確認した時のままの中身だ。当然だけど。
ロイドからもらった万能軟膏もちゃんとある。
『その軟膏を作るのに、どれほど手間がかかったか、わかっておるのか?』
もったいぶった態度は、ロイドらしかった。
半年前まで過ごした月影の高原で何を学んだかと言えば、自分のことは責任持って自分でやれという、風竜族の常識だった。
乱暴にも聞こえる常識だが、彼ら自身の実力がともなっているから問題ないのかもしれない。
自尊心の高さも、自らが高めた実力があってこそ。それでも、ロイドの物言いにはいらつくことも多かったが。
この軟膏を作るのに、実際どれだけの手間がかかったのかわからない。
それでも薬学に長けた風竜族の長が言うのだから、相当な手間がかかったに違いない。
そっと陶器の軟膏入れの蓋をなでる。
「たくさん残して帰還して、ロイドさまをびっくりさせなきゃ」
背嚢を再び閉める。
少し早いけど、食堂に行こう。どうも、そわそわして落ち着かない。
「フィオ! フィオ、起きてる?」
ドンドンと荒っぽいノックの音と、まだ声変わりしていない声。
ドアを開けると、アーウィンがいた。生意気な船頭の息子。もうすぐ、わたしよりも背が高くなるのが、どうも気に入らない。わたしの弟分なのだから。
「アー坊、大事な日になんなのよ」
「アー坊って呼ぶなよ。大事な日だから来たんじゃないか。ほら、朝食」
「むぅ」
片手で持っていた朝食を乗せた白木のトレイを、アーウィンから受け取る。
「大おじいさまが、フィオとニ人きりで話がしたいんだってさ。これ食べたら、大おじいさまの部屋に行ってよ」
「ライオスさまが?」
今さら、話すことなんてあるのだろうか。世界竜族についても、黒い都についても、ライオスは知る限りのことを教えてくれたはずだ。
わたしが困惑していると、アーウィンは鼻をかいた。
「とにかく、伝えることは伝えたからね。それから、リボン忘れてるよ。フィオらしくない」
「むっ」
これだから、アーウィンは生意気だ。
逃げるようにアーウィンは、外の通路の向こうの湖の上を走り去る。
ドアを閉めてテーブルの上にトレイを乗せてから、ため息をつく。
悔しいけど、やはりリボンをしよう。なんだか、調子が出ない。寝室に戻って組み紐からリボンに変える。
姿見の向こうのわたしも元気を取り戻したみたいだ。
朝食は、香草を練り込んだパン二つと野菜のスープだけだった。
「楽園に
少し物足りない朝食だと思ったけど、パンは腹持ちのよいものだったし、野菜のスープは起き抜けの体に力を与えてくれた。
背嚢を背負い、新しい茶色の外套を脇に抱えて一歩外に出る。
明け星の館でのわたしの部屋ともお別れだ。
「いってきます」
今朝の湖は、とても静かだ。
とても、とても静かだ。
朝日が湖の
若い竜が花嫁を探しに出発する時も、こうして見送りなしで送り出すののが、四竜族の慣例となっている。
しかし、今日はわたしの旅立ちの日だ。北の石舞台では、旅の仲間たちが待っているはずだ。家族だけとはいえ、見送りを許されている。
「むぅ。いったい、どんな仲間たちなんだろう」
長たちの考えることは、理解できないことも多い。この大事な探索の旅の同行者のことを、なぜか教えくれなかったのだ。
ちゃんとした理由があってのことというよりも、わたしをびっくりさせたいだけのような気がしないでもない。
どの竜族も根は陽気なのだということも、この竜の森で過ごした八年で学んだことの一つだ。
この湖に面した廊下を次に歩くのはいつになるだろうかなどと考えているうちに、ライオスの私室の前にたどり着いた。
北側の湖に面したドアは、わたしが入りやすいようにと開けてあった。このドアが閉まっていると、ノックするだけでも勇気がいる。
綺麗な円形の部屋の中から、イムリ茶の香りが漂ってくる。それから、ライオスの鼻歌。
「おはようございます。ライオスさま」
「おはよう、姫さま。旅立つには、うってつけの日だね」
座りなさいとうながされて、小さなテーブルの前の椅子に座る。
テーブルの上には、雛菊が描かれた茶器一式と
イムリ茶に並々ならぬこだわりを持つライオスは、カップに注ぎきるまで決して座らない。今も、もう一つの椅子の傍らで砂時計の白砂が落ちきるのを待っている。
「ライオスさま、お話があると聞いてきたんですが」
「もう少し待ってもらえるかな」
案の定、イムリ茶を淹れるまで本題に入らないようだ。
でも、黙っていることはない。
「その茶器を使うのは、初めてみました。いつも棚に飾ってあるから、大切なものだとばかり……」
「かけがえのないものだ。今日という日に使ってやらないと、怒られるからな」
寂しそうに笑った気がした。もっとも、伏し目がちなライオスの表情を正確に読むことなんてできない。すぐにライオスは、いつもの穏やかな笑みを口元に浮かべた。
砂時計の白砂が全て落ちきると、ライオスはポットをそっと傾ける。
「さて、手短に話しをしないと。姫さまの出発が遅れてしまう」
かけがえのない雛菊の茶器を使うということが、ライオスにとってどういう意味を持つのか知ったのは、すべてが終わった後のことだ。
自分のためにわざわざ使ってくれたのだと、わたしはずっとそう思い込んでいた。
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