北の石舞台

 北の石舞台は四竜族の長たちの会議が行われる場所だと、玲瓏の岩窟を通り抜けながら、ナターシャは教えてくれた。正確には、黒い都を囲む森の外側に東西南北に一か所ずつ石舞台があるのだとも。


「ユリアはともかく、あの子のことは許してやってほしい」


 飛ぶような速さで流れていく褐色の浮き彫りレリーフをよく見ようとしてたわたしは、さっきの男の子だと気がつくのに少し時間がかかった。


「無理。わたしのこと、変な目で見てきたんだよ」


「それはね、フィオが初めての女の子だったからさ」


 岩窟で南北と東西に走る幅の広い道の交差する角で、北に曲がる。地竜族の姿をあまり見かけないのは、無数にある書庫にこもって知識を蓄えることに夢中になっているのだと知ったのは、もうしばらく後のことだ。


「竜族の子どもってのは、十四、五歳になるまで、竜の姿になれないのさ。もちろん、例外もいるけどね。ロクに力も使えない子どもは、竜の森から出ることを禁じられているのさ」


「前に教えてもらった」


「そうだったね。じゃあ、こうも言えばよかったかな。竜族はオスしかいない。あたしたち、妻は大人の女。女の子どもは、竜の森じゃ珍しいなんてもんじゃないんだよ」


「……でもぉ」


「まぁ、今は無理でも、そのうち許してやってくれ。あの子は、地竜族の長、一枚岩のヘイデンの息子アンバーだ。利発ないい子だよ」


「むぅ」


 納得出来ないけど、今は頭巾が飛ばされないように両手で押さえるほうが大事だ。それから、後ろへ流れていく浮き彫りレリーフを少しでも見ることも。


「そろそろ、玲瓏の岩窟を抜けるよ」


 右側の壁の装飾の蔦の正体は何なのかと気を取られていたら、いつの間にか目の前に大扉がせまっていた。右側に始まりの竜王、左側に始まりの女王の浮き彫りレリーフが刻まれた大扉は、幌馬車が通り抜けられるだけ左右に開かれた。音も立てずに開かれた大扉から差し込む日の光に、目がくらむ。


「大丈夫かい?」


「むぅ」


 ナターシャは日の光に臆することなく、外に飛び出していく。


 目が慣れてくると、緑深い森の中を進んでいるのがわかった。緑深い森の黒い石でできた道を進んでいる。

 突然の風に木々がざわめいて、頭巾がまた飛ばされそうになった。


「姫さま、ナターシャ!」


 幌馬車の上を青いウロコをきらめかせて、水竜がピッタリと飛んでいる。聞き覚えのある声だったけど、ひと月ぶりということもあって、ナターシャがイラ立ちをこめて水竜の名前を呼ぶまで、確信が持てなかった。


「ディラン、どういうことだい! ライオスさまが会議の招集をかけるなんて、聞いてなかったよ」


 軽く首を曲げてディランは天を仰いだ。


「今朝、急に招集をかけたんだよ。伝えられるわけがないじゃないか」


「どうだかね。その翼は飾りかい? 水鏡でなくったって、どうとでもなったじゃないか」


「大おじいさまは姫さまのことを秘密にするように命じていたのに、そんな目立つようなことできるわけがないじゃないか」


 夫婦喧嘩というよりも、ナターシャが怒りをぶつけて、ディランが言い訳に徹しているだけのように見える。


「なに馬鹿なこと言ってるんだい! あんたがリュックベン市に通いつめていたこと、小ロイドさまにバレバレだったって、さっきヘイデンさまから聞かされたよ」


「冗談だろう」


 再び天を仰いだディランは、どんどん情けない声になっていく。


「長の会議のことも、ヘイデンさまから聞かされたよ」


「だったら、話は早い。北の石舞台に姫さまを……ナターシャ、会議は昼からだ。そんなに急がなくても」


「わかってるよ! 言いたいこと言ったなら、さっさとどっか行っちまいな」


 大人しくわたしたちの頭上から離れていく水竜が、氷刃の二つ名を名乗っているのは何かの間違いではないかと思った。


「まったく、ライオスさまは何を考えているんだい。いくらなんでも、急ぎ過ぎじゃないか」


 幌馬車の勢いが少し落ち着いた。ナターシャのイラ立ちも、落ち着いたようだ。


「ねぇ、姫さまって誰?」


「ん? フィオのことに決まっているじゃないか」


「わたしっ?」


 ナターシャはあたり前のことのように言うけど、冗談じゃない。


「お姫さまなんかじゃない。しがないパン屋の娘!」


「あー、そうは言ってもねぇ」


 なんて説明したものかと、ナターシャが言葉を選んでいる間も、わたしの怒りはおさまらない。


 わたしは間違っても、お姫さまなんかじゃない。

 見たことはないけど、素敵な服を着て、宝石もいっぱい持っていて、大きなお城にすんでいるのがお姫さまだって知っている。ホーンばあさんから、そういうお話をいっぱい聞かせてもらったから。


「あのね。フィオは、あたしたちが守り育てる大切な女の子なんだ。だから、姫さまなんだ」


「違うもん」


「弱ったねぇ」


 ナターシャが幌馬車を止めるまで、わたしは頬をふくらませてそっぽを向き続けていた。


 来るんじゃなかった。本気でそう思ったのは、このときだけだ。


 ナターシャが幌馬車を止めたのは、横道の前だった。

 まだ時間に余裕があるからと、帝国の硬いパンをかじるわたしに、ナターシャは長の会議について簡単に教えてくれた。


「いいかい、フィオ。長の会議は、長とその奥方だけが集まるものなんだよ。彼ら以外の者が参加することは、滅多にないんだ。それこそ、百年に一度あるかないかだよ」


 いまいち、ナターシャが焦っているわけがわからなかった。パンをかじり続けるわたしに、彼女は大きなため息をついた。


「とにかく、だ。何か言えと言われるまで、絶対にひと言も喋ったらだめだ」


「なんで?」


「四竜族の長たちが相手だからだよ。嘘は通じないし、ちょっとしたことで心の中まで丸裸にするような方たちなんだよ」


「ふぅん。勝手に喋らなければいいんだね」


 簡単なことだと思った。というよりもナターシャが何故そこまで必死になるのか、わかってなかった。


「なんか、心配だねぇ」


 パンを食べ終えると、ナターシャが頭巾の位置をなおしてくれた。


「まぁ、行ってきな。ここから先は、一人で行くんだ」


「え?」


 わたしは、すっかりナターシャがついてきてくれるものだと思いこんでいた。

 困ったような顔をしたナターシャは、わたしを御者台から降ろしてくれる。


「この道を行けば、すぐに北の石舞台だからね。大丈夫。いろいろ言ったけど、大丈夫。おっかなそうな方もいるけど、フィオを傷つけたりはしないからね」


「うん」


 行ってきなと、横道に向かって背中をポンと押してくれた。




 緑深い森に黒い道。

 世界竜族の領地であった名残なのだと、後で知った。


「大丈夫。大丈夫だよ、フィオナ・ガードナー」


 昼間だというのに、静まりかえっていた。小鳥のさえずりすら聞こえない。


「ナターシャだって、大丈夫って言ってくれたじゃない」


 心細くなって、自分に大丈夫だと言い聞かせ続けた。大丈夫、大丈夫と。

 自然とウロコの入った小袋を握りしめていた。


「大丈夫。もうすぐ、北の石舞台だから。……あれ?」


 そもそも、わたしは石舞台がどういうものか知らない。見当もつかなかった。


「どうしよう」


 大丈夫じゃない。

 引き返そうかとも考えたけど、握りしめていた小袋の中のウロコが進んで大丈夫だと語りかけてくれたような気がした。

 故郷を離れて竜の森を目指したのも、このウロコが肯定してくれた気がしたからだ。


「うん。大丈夫」


 再び歩きだして、どれほどかかっただろうか。あまりにも静かすぎるこの森では、時間を推し量ることすら難しい。


 木々が途切れたと思ったら、目の前には黒い壁が立ちはだかっていた。

 人間の大人の背丈の倍はあろうかという黒い壁。道と同じ黒い石でできているようだ。


「むぅ! 行き止まりじゃないっ」


 石舞台がなんなのかわからないけど、行き止まりだということはわかる。ナターシャが道を間違えたに違いない。

 ドカッと黒い壁を蹴りつけて足跡をつけて、引き返そうとした。


「威勢のいい姫さまじゃあないか」


 声を失ってしまうくらいびっくりした。

 クククッと喉を鳴らす笑い声が壁の上から聞こえてくる。


「行き止まりではないよ。ここが北の石舞台だ」


 水竜が、壁の上から見下ろしていた。


「わたしは、水竜族の長ライオス。さぁ、この手に乗りなさい」


 身を乗り出して深い深い青のウロコの手をおろしてくれる。ディランのような鋭い爪ではなく、細かい傷が走り欠けて鋭さを失っていた。

 ライオスの手に乗り大きな指につかまると、丁寧にゆっくりと壁に見えた石舞台の上に運んでくれた。


「ようこそ、我らが姫さま。この日が訪れることを、どれほど心待ちにしていたことか」


「むぅ」


 石舞台からの眺めを堪能するよりも、老竜ライオスにあいさつするよりも、わたしは文句を言わなければならない。


「わたしは、しがないパン屋の娘のフィオナ! お姫さまなんかじゃないもんっ」


 ナターシャの忠告なんて、完全に忘れていた。

 わたしの剣幕に、ライオスは伏し目がちだった目をこれでもかと丸くする。


「きれいな服も着たことないし、家来だっていない。だから、お姫さまなんかじゃないもんっ」


「ハハハッ、これはこれは、本当に威勢のいい姫さまだ。しがないパン屋の娘とはな。そうだろうとも、そうだろうとも……」


「笑いごとじゃないんだからね」


 尾を振りながら、ライオスは上機嫌に笑い続ける。

 顔を真っ赤にして、わたしがどんなに訴えてもライオスは笑い続けた。


「すまない。すまない。これほど愉快な気分になったのは、久しぶりでね」


 気のすむまで笑い続けたライオスは、神妙な態度を取りつくろう。気を抜けば、笑い出しそうになるのをこらえているように見えたのは、きっと気のせいだ。


「我ら竜族の王族たる世界竜族の花嫁が、我らにとって姫でないわけがないのだよ。姫さまが、自分がしがないパン屋の娘であることを譲れないことと、同じくらい我らも譲れない」


「むぅ」


 正直、ライオスが言ったことの半分も理解できてなかった。


「姫さまだろうと、しがないパン屋の娘だろうと、フィオナ・ガードナーであることにかわらない。ようは見方の問題だ」


「むぅ」


 数日ライオスの言葉の意味を考えて、お姉ちゃんが『フィオは特別なんだから』と言うのと同じことかもしれないと結論を出すことになる。


 確かに、お姉ちゃんに特別だと言われようが、竜族たちに姫さまと呼ばれようが、わたしがわたしであることにかわりはなかった。


「機嫌をなおしてくれないか? そして、わたしにウロコを見せてはくれないか」


 ライオスの懇願は、胸がつまるほど切実な響きがこめられていた。

 小袋から取り出したウロコがよく見えるようにと、わたしは両手で捧げるように見せる。


「はい」


「あぁ、長かった。本当に長かった。ユリウスさまのお言葉を疑いたくなるような日々もあったが、本当に、本当に……」


 言葉にならなくなって消えてしまったライオスの独白には、いったいどれだけの思いがこめられていたのだろうか。

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