ナターシャ
十二日間の船旅を経て、カヴァレリースト帝国の東の貿易都市ヴィストークの港に着いた。ヴィストークに滞在した三日間で、新しい服と靴をナターシャに買ってもらった。
リュックベン市のサンダルでは、夏の
着るものも、帝国の厚手の物でなければ風邪を引いてしまう。
服や靴だけではない、ヴィストークはリュックベンとまったく違う港だった。いや、カヴァレリースト帝国が、リュックベン市と違うといったほうがよかったかもしれない。
夏の初月30日。
地竜族の地、玲瓏の岩窟に向かう隊商の最後尾の馬車の御者台に、ナターシャとわたしは並んで座っていた。
「ねぇ、竜族の二つ名って意味があるの?」
「もちろんあるさ」
ナターシャは、いい人でなんでもできる強い人だった。
知り合いに頼んで乗せてもらったという帝国の商船での船旅の間、わたしに読み書きを初めとした様々なことを教えてくれた。寂しさを紛らわせるために、夢中になることがあることにどれほど救われたか。
あの氷刃のディランの妻だと言うけど、正直なところお父さんに殴られてばかりいた彼よりも、ナターシャのほうがよほど頼りになる。
今だって、この幌馬車を御しているのはナターシャだ。
「竜族は人間よりも数が少ない。四竜族の中で一番多い地竜族だって、成竜した竜は多い時でも千は超えないんだよ。だから、各竜族は長を中心とした家族みたいなものだってのは、前にも教えたろ?」
「うん。だから、ファミリーネームがないんでしょ」
水色の外套のフードからのぞくナターシャの横顔に、満足気な色が浮かぶ。
「二つ名は、ファミリーネームのかわりみたいなものだな。もし、同じ名前の竜が同族にいても違いがわかるようにってな」
「へぇ」
「それから、二つ名のない若いやつは、父親の名前を一緒に名乗るのさ。あたしの息子のドゥールは、いまだに氷刃のディランの息子ドゥールさ。情けないったらありゃしない」
「情けないの?」
ナターシャの言葉使いは、ちょっと乱暴だ。それこそ、最初は怖い人なのかと思ったくらい。
「そりゃそうさ。結婚して子どもまで作ったってのに、あの馬鹿息子ときたら……。ああ、あの馬鹿息子の話を始めたらキリがない。話を戻そうか」
軽く手綱を振るうナターシャの愚痴を、もう少し聞いていたかった。残念だ。
「二つ名には、二通りあるんだ。リュックベンの大祭に招かれる船頭のダグラスは、先代の水竜から受け継いだ役職みたいなもの。人間で例えるなら市長とか、国王とか、そんな感じだ。あたしの旦那の二つ名は、長から貰ったあだ名みたいなものさ。どっちの二つ名も一人前の竜として認められた証なんだよ」
「でも、氷刃って氷の刃でしょ? そんな感じに見えなかったけどなぁ」
「あははっ、そうりゃあそうさ。水竜ってのは、同族にはやたら厳しい奴らでね。逆に、人間や他の竜族には腰が低い。だから、ディランの氷の刃が真っ先に傷つけるとしたら、水竜族さ」
「えっ」
「そんなこと、あってはならないに決まっているけどね。これからもさぁ」
その時、ナターシャは何を考えていたのだろうか。わたしにはわからなかった。
まだ大人になったばかりの外見のナターシャは、今年で八十一歳だという。お母さんよりもずっと年上だった。竜族の寿命は人間よりもずっと長い。だいたい二百歳くらいまで生きるそうだ。そう考えれば、ナターシャもディランもまだまだ若いほうかもしれないが、七歳のわたしからすればおばあちゃんだ。
今、わたしたちは綺麗に整備された道で、草原の中を西に向かって進んでいる。昨日までは遠くに見えた玲瓏の岩窟に、まもなく到着するそうだ。昼すぎには、星辰の湖に。
朝から時々茶色いウロコの地竜が空を飛ぶ姿を目にする。いよいよ竜の森に着くのだと、実感する。
ヴィストークで買ってもらった厚手のブラウスの下に隠してある黒い小袋を取り出して握りしめる。ホーンばあさんからもらった小袋は、船旅の間に汚れてぼろぼろになってしまったから、ナターシャがヴィストークで丈夫なものを用意してくれた。ぼろぼろになった小袋は、旅行かばんの中にちゃんとしまってある。
「不安かい?」
「……うん。でも、これを握りしめていると、大丈夫な気がするの」
「そうかい」
その声には心配そうな響きも混ざっていたような気がしたけど、草原を吹き抜ける風がさらっていってしまった。
竜の森で暮らしているのは、四竜族だけではない。その妻も一緒に暮らしている。当たり前なことかもしれないけど、いくら結婚して歳をとらなくなったとはいえ、妻たちは人間だ。竜族だけなら必要ない物――衣類やご機嫌取りの装飾品を、人間から手に入れなくてはならない。
そのための隊商に混ざって、ナターシャは幌馬車を進めていた。
玲瓏の岩窟の前の広い空き地のような場所に、先頭の馬車から順に止まっていく。人間の何倍もの大きさの竜の姿をした者も、人間の姿をした者も両方いた。ちなみに、本来の竜の姿なら一頭。人間の姿なら一人と数えると、ナターシャに教わる前から知っている。
「フィオ、そろそろ荷台に移ってくれ。さっさとここを抜けたいからね」
「うん」
玲瓏の岩窟の内部を見ることができないのはとても残念だったが、しかたがない。星辰の湖に着くまでは、黒いウロコの存在を隠せという水竜族の長ライオスの命令があったらしいから。
幌で覆われた薄暗い荷台には、リュックベンから持ってきた旅行かばんと、毛布や食べ物などが積んである。ヴィストークからは、この荷台で寝ることがほとんどだった。
旅行かばんの中から、マーマレードの瓶を取り出す。お父さんが、リュックベン市のオレンジで作ってくれたマーマレードも、これが最後のひと瓶だ。
「やっぱり、我慢しないと」
星辰の湖に着くまでは開けないと決めていたことを思い出して、また旅行かばんに押し込む。真新しかった旅行かばんも、このひと月におよぶ旅で、ずいぶんと使い古された姿になった。
軽く揺れて馬車が止まった。
「あたしは、氷刃のディランの妻ナターシャさ。星辰の湖に急ぎのようがあって、玲瓏の岩窟を抜けたい。そう、さっき説明したばかりじゃないか!」
ナターシャが声を張り上げた。
驚いて御者台の方に耳をすませる。
「あらら。久しぶりに会ったのに、いきなり怒らないでほしいわ。……ま、ナターシャの怒った顔も素敵ですけど」
ウフフフと笑い声が続く。船の上で読んだ本の中にあった鈴を転がすような声とは、このことだと思った。
次の声は幌の上から聞こえてきた。
「氷刃のディランの妻ナターシャ。荷台をあらためさせてもらおうか」
「ヘイデンさまは、もっと寛大なお方だと思ってたんだけどね」
「時と場合によるだけのことだ。それからナターシャ、寛大と言ったが、我らが無関心だとでも考え違いしていただけではないか?」
「ちっ」
ヘイデン。もしかして、一枚岩のヘイデンではないだろうか。地竜族の長ヘイデン。
「我が友が、気が付かないとでも思ったのかな? 氷刃のディランが南へと通いつめていたことを」
「そういうことかい。いつものことかい」
ナターシャは、いら立ちを通り超えて怒りすら覚えていたに違いない。長ヘイデンに臆することなく、言い返していく。
無意識のうちにウロコを小袋の上から握りしめながら、耳を澄ませていると蝶が迷いこんできた。緑色の羽が綺麗な蝶だった。
耳はナターシャたちのやり取りに、目は薄暗い荷台の中をヒラヒラ舞う緑の蝶に、夢中になっていた。
「こっちに飛んできたはずだけど……」
ひょこりと、茶色の髪と瞳の男の子が荷台をのぞきこんできた。もちろん地竜族の子どもだろうが、勝手に荷台をのぞき込むのはいかがなものだろうか。
「あ、いたいた!」
「ちょっと!」
緑の蝶を見つけて目を輝かせている男の子に、抗議しなくてはならない。
「ちょっと、あんた! 勝手にのぞき込んでこないで」
「あ、あ、ああ……」
男の子はわたしを見ると、これでもかと目を大きく見開く。
「ああっ、おおおお、女の子だぁあああああああああああああああああ」
わたしの怒りを吹き飛ばしてしまうような、大きな驚きの声。頭巾の上から耳をふさいでいると、男の子は逆に荷台に乗りこんできてしまった。
「女の子だよね! 女の子! わーっ、すごいなぁ。ねぇ、ねぇ、母さまみたいに……」
「なんなのぉ」
男の子はとても興奮しているようで、怖くて泣きたくなった。
「フィオ!!」
「ナターシャぁああ」
「大丈夫かい?」
何ごとかと荷台をのぞきこんだナターシャに、すがりついてしまうほど怖かったんだ。あれはまるで珍しい生き物を見る目だ。
「まぁ、なんてこと! ナターシャったら、可愛い子を隠していたなんて信じられないわ」
「ユリア、これには事情があって……」
「どんな事情でもかまわないわ。ナターシャ、その子を貸してくださらない?」
「断る!」
わたしを抱きしめて背中をさすりながら、ナターシャは別の女の人と話している。ユリアと呼ばれた女の人もまた興奮しているようだ。怖い。
「アンバー、出てきなさい。ユリアも、興奮しすぎだ。鼻息が荒くなってるぞ」
なだめるというより、呆れた声が頭上から聞こえてきた。ナターシャの胸に押し付けていた頭を、ほんの少しだけ離す。好奇心が驚きと恐怖をに勝ってしまったのだ。
茶色のウロコにおおわれた地竜のかたわらに、肩で切りそろえた黒髪に、深い緑の瞳の女性がいた。小柄だけど出るところは出て、引っこむところは引っこんでいる。スラリとしたナターシャとは別の種類の美女だ。彼女がユリアに違いない。美女が台無しになるくらい鼻息が荒かったから。
「あなた、これが興奮せずにいられるものですか。女の子よ! 可愛い女の子よ。ナターシャ、お願いだから、その子を抱きしめさせて。ムニムニの柔肌を堪能させて」
「断る!」
わたしを抱きしめるナターシャの腕に、力がこもる。
横目でうかがうわたしの視界に、先程の無礼な男の子がこちらを気にしている姿も映る。
「ナターシャ、その娘が北への届け物だったのだな」
「あなたからも、ナターシャにお願いしてよ! 女の子なんて、この竜の森じゃなかなか堪能できないんだから」
ヘイデンの大きなため息で、わたしの頭巾が飛んでいってしまうのではないかと思った。
「まぁ、いい。北の石舞台に招集がかかっているしな」
「なんだって!」
「知らなかったのか、ナターシャ。おそらく、――いや、間違いなくその娘のことで、招集をかけたのだろう。我が友のやけ酒につき合わされると思うと、気が重い」
ヘイデンが戻るぞとユリアとアンバーに向けて言うと、意外なことに2人とも大人しくなった。不服そうではあったけど。
「ナターシャ、早くその可愛い客人を北の石舞台に連れて行ったほうがよいのではないかな?」
「ヘイデンさまが、邪魔しただけじゃないか」
「ただの嫌がらせだ。気にするな」
翼を広げたヘイデンの背中には、ユリアとアンバーと呼ばれた男の子が乗っていた。
飛び立っていったヘイデンに、子どものわたしには理解できないような悪態をついたナターシャは、やっぱりいい人でなんでもできる強い人だ。
――
実のところ、ヘイデンはナターシャがヴィストークに向かっていたことを知っていた。友のロイドが知りたがっていた何かが、人間であることも。ただ、この玲瓏の岩窟を抜ける気でいるなら、その時に接触すればいいと放っておいただけのこと。
今朝、ライオスから北の石舞台で長の会議の招集がかけられたことが、唯一の誤算といえば誤算だった。
「父さま、あの女の子だけどね」
「ん?」
初めての女の子に嫌われてしまったと、息子が落ち込んでいるのではないかと心配していたが、杞憂だったらしい。
「小袋、握ってたんだ。母さまが見せてくれた父さまのウロコが入ってた小袋によく似てたんだ」
「なら、あの子も花嫁かしら?」
「でも、母さま、その小袋、黒かったんだ」
「黒?」
ヘイデンは低い声で聞き返した。
まさかという思いと、なるほどという思い。
長の会議が始まるまで、少し時間はある。
世界竜族について、調べる時間はある。
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