玲瓏の岩窟

 東の地竜族の地、玲瓏れいろうの岩窟は、外から見ると一つの台形の大きな岩山だ。


 一枚岩のヘイデンが来客の報告を受けたのは、翼を折りたたんで妻と十歳の息子が待つ清空せいくうの館に帰る途中だった。


 ヘイデンの茶色いウロコにおおわれていた顔に浮かんでいた安堵の色が、一瞬で消え失せる。かわりに浮かんだのは、苦々しい笑み。


「まったく、我が友は時間を選びもしない」


 まったくですと、見張り番の若い地竜が首を大きく縦に振る。


「ジョナサンの息子キース、仕事に戻りなさい」


「奥方たちには、何も知らせなくてもよいのですか?」


「あー、そうだなぁ」


 土埃を巻き上げて、彫りの深い顔立ちの青年の姿に変化したヘイデンは、髪が乱れるのも構わずに頭をかいた。その右の中指には褐色の石の指輪がある。


「知らせなくとも、我が友が来たことくらいすぐに岩窟中に知れ渡るだろうよ」


「まぁ、そうですね」


 そんなだから、いつも奥方に頭が上がらないんだよ――もしかしたら、キースは心の中でぼやいたかもしれない。


 岩山内部の複雑に入り組んだ玲瓏の岩窟には、人間の体でなければ通れないような狭い通路もある。


 一日の終わりにふさわしいにぎやかさから、遠く離れた部屋を訪れる。

 人間のために作られた客室だ。


「遅いぞ、ヘイデン」


「次はもっと早く来ますよ。我が友、ロイドよ」


 客室に充満している酒の臭いに、ヘイデンは苦笑を禁じえない。

 愉快な光景だと、いつも思うのだそうだ。長椅子にふんぞり返った十歳ほどの少年が、酒を瓶ごと飲み干しているのだから。

 しかし、少年の右の中指の指輪の石が銀色に煌めいている。あどけなさがまだ残る少年の髪と瞳は銀。風竜だ。それも風竜族の長、小閃光しょうせんこうのロイドだった。

 子どもの頃に成竜せいりゅうしてしまったロイドだが、老竜ライオスに次ぐ年老いた竜だ。四百年近くも生きる高齢のロイドと七十六歳のヘイデンが、互いを友と呼びあうのは風竜族と地竜族の目にも奇妙にうつるそうだ。


「それで、また北の件で?」


「おう! あのクソジジイが……。まぁ、飲め」


 ローテーブルを挟んでヘイデンが椅子に座ると、早速ロイドは手元にあったゴブレットに新しい酒瓶を傾ける。竜殺しの火酒かしゅという悪名高い強い酒だ。間違っても、瓶ごと飲むようなものではない。


「ふた月ほど前から、氷刃のディランがよく南へ飛ぶ姿を見かけると、耳にはしてますよ」


「なんじゃ、知っておったのか」


 口に運んだのはひと口だけ。ゴブレットを両手でもてあそびながら、ヘイデンは笑う。

 この小さな年老いた友が、老竜ライオスを目の敵にするのには理由がある。その小さな体で長となった時に、生意気だと鼻で笑われたことだ。自尊心の高い風竜族を小馬鹿にしたライオスもライオスだが、三百年も根に持つロイドもロイドだろう。


「今度こそ、わしはあの化物に一泡吹かせてやるのじゃ」


「今度こそ、ですか」


「なんじゃ、なんじゃ! ヘイデン、貴様またわしが恥をかくと言うのか」


「そうは言いませんよ」


 ライオスの痛くもない腹を探って、ロイドが勝手に自滅しているだけの話だ。


「だいたい、何が最後の竜王の祝福を受けた最後の水竜じゃ。わしとて、いつ楽園へ召されてもおかしくないというのに、あの化物じみた寿命はなんじゃ!」


「我が友も、まだまだ楽園で憩うには早すぎますよ」


 すでに頬が赤くなっているロイドが酔いつぶれる前に、本題を聞き出さなくてはならない。

 ヘイデンは彫りの深い顔に、静かな笑みをずっと浮かべている。


「で、我が友よ。そろそろ、聞かせてはくれないか。わたしも早く帰らなくては、ユリアが機嫌を損ねる」


「おう、おう、そうだったな。忘れるところじゃった。お前も相変わらず、奥方に頭が上がらんようじゃ」


「余計なお世話ですよ。誰のせいだと思っているのですか」


 初めてヘイデンが笑みを崩した。大きな口を開けて笑うロイドを、腹立たしくにらみつける。互いに友と呼び合う関係だからこそ、素直な表情を見せるのだった。


「わしまで、奥方に恨まれたらかなわんからな。氷刃のディランが、南のリュックベンに通っていることを知っておるなら話が早い」


 ヘイデンはゴブレットをテーブルに置いて、自由になった手で顎をさする。

 膨大に蓄えられた知識の中から、リュックベン市の情報を引き出すのに時間はかからない。港町であること以外、水竜族でも気にかけるような街ではないことも。


「二日前じゃ。ディランは奥方を乗せて南に向かった」


 書物を愛し議論することを好む地竜族の中で、一枚岩のヘイデンは知識を活用することを好む。ヘイデンがロイドと親しくしているのは、ロイドが謎を与えてくれるからだ。ロイドはその答えを上手いこと活用できずに、ライオスに腹を立てている。純粋な友愛からくる友情ではなく、奇妙な利害関係から生まれた友情だから、互いの身内でも理解することは難しい。

 ロイドは新しい酒瓶を開ける。床にはすでに何本も空の瓶が転がっている。


「わし自ら後を追ったんじゃが、南の海の船で奥方を降ろして氷刃のやつは帰りおった」


 興味深いだろうと、ロイドは笑いかけるがヘイデンは黙って先を促す。


「船には、金の馬と剣の旗が掲げてあった」


「帝国の旗か。縁取りは?」


「そこまで見とらん」


 カラカラと笑うロイドに、ヘイデンは軽く眉間にしわを寄せる。だが、ロイドが訪ねてきた目的ははっきりしてきた。


「その船が、リュックベン市から大事なを積んだと」


「わしのカンじゃが、そのを北の老いぼれは手に入れたがっている」


 知的探究心の塊である地竜族には理解しがたいが、風竜族の直感はあなどりがたいものだ。ヘイデンは、もちろんそのことを心得ている。


「わしは横取りしたいわけではない。知りたいだけじゃ。北の老いぼれが、右腕のディランとその妻を使ってまで、運ばせたいものを知りたいだけじゃ」


 姿は無邪気な少年そのものだが、その銀の瞳は百年も生きていないヘイデンにはないものがある。


「しかし、これはまた難題ですよ。我が友」


「不満か?」


 いいえとヘイデンはゆっくり首を横に振って、立ち上がった。


「もう行くのか? 全然飲んでいないではないか」


「難題ですから、我が友。老竜の手に届けられる前に、の正体を探らなければならないのですよ」


 などと言ってヘイデンは去っていった。


「まったく、ヘイデンらしい」


 夜遅くまで悪名高い酒を飲み続けていたロイドが、次の日の昼になっても眠りこけることになる。頭を抱えるのはヘイデンではなく、その側近だ。




 ――


 清空の館に戻る道すがら、ヘイデンはリュックベン市のあらゆる情報を頭の中に広げていた。


 そもそも船を使う理由がわからない。竜ならば、船で運ぶような物は手にして飛べるはずだ。

 だが星辰の湖から遠く離れた最南端の港町から、わざわざ船で運ばせている。


「まずは、船の行き先の見当つけるほうが先だな」


 松明や光石こうせきランプで照らされた褐色の通路は、至る所に浮き彫りレリーフが施されている。

 連続性のある文様、一なる女神さまが始まりの竜王と始まりの女王の前に降り立った神話の一部分、眺めるわけでもなく視界に入ってくる浮き彫りレリーフたちは、ヘイデンの思考を加速させてくれる。


 清空の館に戻り食堂をのぞいたが、きれいに片付いている。嫌味なほど、きれいに片付いている。

 ため息をついて、ヘイデンは寝室に向かうべきか迷った。


 そこへ、前が見えないのではないかと心配になるほど、両手で本を抱えた息子のアンバーが危なっかしそうに歩いてきた。父に気がついたアンバーは、足を止める。書庫に本を返しに行く途中だったのだろう。


「母さまなら、怒って先に寝ちゃったよ」


「怒って……」


 今夜は家族そろって夕食をと妻に宣言していただけに、ヘイデンは頭を抱える。


しょうロイドさまだからしかたないかもしれないけど、ひと言でも何か言いに来たほうがよかったと思うよ」


 子どもの頃の自分によく似た息子も、また怒っていた。おやすみと怒りを込めて言い捨てて歩き出そうとしたが、一番上の本が滑り落ちた。


「あっ」


「気をつけなさい」


 素早くヘイデンの手が、本を掴む。


「返して」


「お前のものではないだろう。それから、あいつは小ロイドと呼ばれることを嫌っている」


 一緒に運んでやると、ヘイデンはさらに三冊ほど息子から本を取り上げる。それでやっと視界が確保できるほど、アンバーは大量の本を抱えていたのだ。両手が塞がっているアンバーは、口をとがらせて父の申し出を受け入れるしかない。


「でも、みんな小ロイドさまって呼んでるよ」


 並んで歩きながらアンバーは不満というよりも、不思議そうに父に訴える。どこがいけなかったのかと。


「親しみもこめられていることも、ロイドは承知しているだろうよ。だがな、好き好んでお前と同じ歳で成竜したわけではない」


「知っているよ。花嫁が……」


「知っているなら、二度と口にしないことだ」


「……はい」


 友の外見と同じくらいの年頃だが、やはり息子の方が可愛げがあるとヘイデンは口元を緩める。

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