第二章 竜の森へ

離郷

 お姉ちゃん、お父さんとお母さん、元気ですか?


 今、カヴァレリースト帝国のヴィトークっていう港町で、この手紙を書いています。

 ナターシャは、いい人です。わたしに読み書きや、竜の花嫁のこととか、いっぱい教えてくれました。おかげで、あまり寂しくなかったです。


 たまに寂しくなった時は、お父さんが作ってくれたマーマレードを舐めました。帝国のパンは、硬いです。やっぱりガードナーベーカリーのパンは世界一です。


 (中略)


 とにかく、わたしは元気です。早く星辰の湖に行って、水鏡でみんなの顔を見るのが楽しみです。


 統一歴3450年夏の初月ういつき13日


 リュックベンの女 フィオナ・ガードナー


 『フィオナ・ガードナー書簡集』より





 ――


 氷刃のディランは、確かに約束を守ってくれた。


 春の大祭の五日間、わたしたち家族は黒いウロコの話題を避けていた。もしかしたら、わたしが知らないところで話していたかもしれないけど。


 晴れ着を着て、お姉ちゃんと手を繋いでパレードの後ろを練り歩いたり、ダグラスが作る海水の花が港に降り注ぐのを遠くから歓声を上げたり――いつものように大祭を楽しんでいるつもりでも、心はもう竜の森へ向かっていたのかもしれない。


「わたし、竜の森に行く」


 わたしがそう家族に宣言したのは、大祭五日目の春の中月なかつき9日の夕食の時だった。


 みんな驚いたり、怒ったり、慌てたりしたけど、わたしもリュックベンの女だ。気が強くて、こうと決めたら、そう簡単には譲らない頑固者。


 次の日からディランも説得に加勢してくれたおかげで、家族が折れる形で竜の森に行くことが決まった。

 水竜の水鏡を知ったのはこの時だ。遠く離れた水竜が連絡を取り合うこの手段を使ったからこそ、船頭のダグラスがウロコの存在を知ったその日に、ディランが現れたのだ。そして、おそらく桟橋に家族が迎えに来てくれたのも、あの時こっそりディランがダグラスに向けて水鏡の秘術を使ったのだろうと、あとになって気がついた。

 直接、わたしたち家族にその秘術を見せるようなことはしなかったが、星辰の湖にいる老竜ライオスたちと手はずを整えていたことは知っている。


 出発は夏の初月ういつき1日の早朝。


 黒いウロコの存在を知っている人間は、わたしたち家族だけだ。大祭の後で楽園に旅立ったことを知らされたホーンばあさんは、誰にも言っていなかったようだ。


「いいかい、リーナ。フィオは、祭に来ていた北の帝国のご婦人が……」


「ぜひ養女にしたいって頼まれたんでしょ? それにお父さんとお母さんは、ご婦人の条件に目がくらんでフィオを追い出した」


「リーナっ」


 お姉ちゃんは、むっつりとそっぽ向く。


「……お姉ちゃん」


「わかってる。わかってる。だからフィオ、そんな顔しないで。ほら、行こう」


 こうしてお姉ちゃんに手を引いてもらえなくなるという実感が、まるでない。頭では、今からお別れすると理解しているというのに。


 お姉ちゃんは自分のせいで、わたしがいなくなってしまうのだと泣かせてしまった。そんなお姉ちゃんを見て、胸が痛まないわけがなかったけど、わたしはどうしても竜の森に行きたかった。

 なぜ黒いウロコのせいでこんなことになったのか、知るためにも竜の森に行くべきだと、言葉に出来ないほど強い思いを抱いていた。だからどうしてもお姉ちゃんと、大好きな故郷の町と別れを告げなくてはならなかった。


「すぐに帰りたいって泣いても、助けに行ってあげられないんだから」


「うん」


 いつもよりわたしの手を握る力が強い。わたしも強く握り返している。

 あの夜の桟橋に向かって波止場を行く。まだ夜が明けたばかりの波止場は、とても静かだ。


「お姉ちゃん、あのね」


 次にお姉ちゃんに会うのは、いつになるのかわからない。もしかしたらなんて考えたくないけど、少なくとも大人になるまでは会えない気がする。


 だから、今のうちにどうしても言っておきたいことがあった。


「わたし、お姉ちゃんの妹だからね。リュックベンの女だからね。しがないパン屋の娘だからね」


「……そんなの知ってる」


 わたしの手を引くお姉ちゃんの頭巾をかぶった横顔を、よく覚えていない。申し訳なさとかで、無意識のうちに目をそらしていたのかもしれない。


「でも、フィオは特別なんだから」


「お姉ちゃん、わたしは……」


「特別なんだから!」


 突然、お姉ちゃんはわたしを抱きしめてきた。それはもう、息苦しいくらい。


「特別なんだから、すぐに帰ってきたら駄目なんだからね。フィオが世界竜と結婚するまで、帰ってきたら駄目なんだからね!」


 息苦しくて、返事ができなかった。というのは言い訳で、ほんの少しだけお姉ちゃんの腕の中で泣かせてもらった。


「ほらリーナもフィオも、急がないと」


「うん」


 お父さんはずいぶん素っ気ない口調で早く行けという。


 徒弟のエルマーから聞いた話では、最近、ため息ばかりついたらしい。誰も見てないと思って、物陰で泣いていたこともあったと。だからか、わたしに帝国でも絶対幸せになれと、エルマーなりの応援の言葉を贈ってくれた。


「お父さん、ありがとう」


「わっ」


 お母さんの前では、お母さんを説得してくれてありがとうなんて言えない。でも、抱きしめてあげれば伝わったと思う。

 次は、お母さんだ。


「お母さんも、大好きっ」


「あたしもだよ」


 もっと抱きしめていたいけど、もうすぐお別れだ。

 大祭が終わってからふた月近い間、家族とたくさん話し合った。たくさん泣いたり、たくさん怒ったり、たくさんディランも殴られたりしたけど、黒いウロコと真剣に向き合ってきたのだ。


 もう、桟橋の手前で待っている人影が見えるところまで来ている。


 カヴァレリースト帝国の人々の肌は、白雪のように白いと昔から言われている。とはいえ、最南端のリュックベン市で雪が降ることがないから、わたしはまだ雪を見たことがなかったけれども。


「これから星辰の湖まで一緒する、ナターシャだ。よろしく」


 確かに綺麗な白い肌だ。そうでなくても、綺麗な人だ。

 細かく編み込んだ金の糸のような髪に、夜明け前のの空の深い藍色の瞳。細くて長い手足に、ほっそりとした体つき。わたしに向けられた笑顔は、頼りがいのある安心感を与えてくれた。


 外套はダグラスとディランとよく似た作りだったが、彼らのものと違って濃い水色だった。


「よ、よろしくお願いします」


 慌ててお辞儀をするが、名乗るのを忘れていた。


「長い旅になるから、今はまだ緊張しててもいいよ」


 頭巾ごとワシャワシャとわたしの頭をなでて、ナターシャはお父さんとお母さんに頭を下げる。


「必ず、大切な娘さんを守り育て上げてみせます。一なる女神さまに誓って」


 真摯で誠実であろうとする帝国人の彼女の姿は、この桟橋で諭してくれた氷刃のディランを思い出させる。


 それから最後にもう一度ずつ家族と抱き合って、沖で待つ船に向かう小舟に乗った。


「この旅行かばん一つだけかい?」


「うん。必要なものは、何でもくれるって言ったでしょ? 残ったお金は全部置いていくの」


 ディランからもらった支度金で、この旅行かばんだけ購入した。竜の森に持って行きたいものは、全部つめこんである。


「そんなことしなくったって……まぁいいか」


 呆れかけていたナターシャの顔が、愉快そう笑顔に変わる。

 ナターシャが最後に小舟に乗ると、桟橋と繋いであったもやい綱がほどかれた。


「フィオぉおおお! 元気でねぇえ!」


 桟橋の端まで追いかけてきたお姉ちゃんが手を振っている。


 そんなお姉ちゃんと後ろに立っている両親の姿が、ボヤケてよく見えない。


「フィオぉおおお! まだ泣いたら駄目だよ!」


 お姉ちゃんの声が震えている。


「お姉ちゃんだって、泣いてるじゃん」


 やっと吐き出した声がもう届かないほど、桟橋は遠くなっていく。




 ――


 目指す竜の森は、ノアン大陸中央にある竜族のすみかだ。

 森と呼ばれているが、国と呼んだ方がいいと思う。


 南の火竜族の地、陽炎の荒野。

 北の水竜族の地、星辰の湖。

 西の風竜族の地、月影の高原。

 東の地竜族の地、玲瓏れいろうの岩窟。

 それら四竜族の地が、廃都となった黒い都を囲む広大な深い森の外側にあることを、ほとんどの人間は忘れ去ってしまっている。


 夏の初月1日。

 この離郷りきょうの日の夕暮れ時、東の玲瓏の岩窟に来客があった。

 あらかじめ知らせをよこさなかった来客だが、地竜族の長ヘイデンが友と呼ぶ彼を歓迎しないわけがない。


 遠く離れたまだ見ぬ地では、すでに黒いウロコの存在が静かに波紋を呼んでいたことを、わたしはまだ知らなかった。

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