夜の桟橋

 ディランは、わたしのウロコを確かめることもなく、様子を見に来たお母さんの前で、もう一度ライオスからの言伝ことづてを繰り返して、去っていった。

『今夜はもう遅いですし、考える時間も必要でしょう。大祭の後、改めて来ます』

 そう言い残して、去っていってしまったのだ。



 それから我が家は、もう大変だった。


「だって、だってぇ、お父さんもお母さんもぉ、あたしの話聞いてくれなかったじゃんかぁああ」


 何があったのか問いただされるまでもなく、お姉ちゃんは泣きながらアウール神殿の離れでダグラスと話したことを全部話した。


「何考えているんだい! あれだけ……」


「母さんは、黙ってくれ。リーナ、何を考えていたんだ? え?」


「だからぁああ」


 お姉ちゃんがこんなに泣く姿は、初めて見た。

 どうしてこんなことになったのだろうか。


「ねぇ、やめてよぉ」


「フィオは、黙ってなさい」


「そんなぁ」


 みんなに元通りになってほしくて、お父さんとお母さんにすがりつくけど、とりつく島もない。


 耐えられなくなったわたしが、外に出ていったことだって気がつかなかったかもしれない。


 頭巾もかぶらずに外に出たら怒られることも、頭になかった。

 店の前で立っていれば、家族が心配して来てくれると甘えたことを考えていたのかもしれない。

 いつまでたっても、ガードナーベーカリーから聞こえてくる怒鳴り声や泣き声はやまない。


 氷刃のディランと名乗った水竜が来なければ――――


 神殿の離れで、わたしのウロコを相談しなければ―――


 わたしが、雑踏の中から船頭のダグラスを見つけなれば――――


 お姉ちゃんが、わたしをつれて外に出なければ――――


 お父さんとお母さんが、真剣にお姉ちゃんの話を聞いていてくれれば――――


 ホーンばあさんが、わたしにウロコを渡さなければ――――



 わたしが、黒いウロコを握りしめて生まれてこなければ――――



 気がついたら、服の下の小袋を握りしめていた。


 店の前の目抜き通りは、明日から大祭が始まるからか、いつもより賑やかで人通りも多かった。


 そんな人通りの中、反対側の道端で足を止めた白っぽい人影を見つけた。


「あ……」


 青みがかった白の外套の人影は、つかの間こちらに目を向けたが、すぐに市庁舎のある広場の方へ歩きはじめる。


 氷刃のディランだ。間違いない。

 店先にいたわたしに、彼は気がつかなかったそうだ。もちろん、後で聞いた話。疲れた体に鞭打って、神殿にいる甥のダグラスと話をしてきた後だったらしい。


 ディランの後をわたしは追いかける。


 黒いウロコが、彼らにとって特別なものだということは、なんとなくわかっていた。だから、彼らが黒いウロコを持つべきだと考えたのだ。


 目立ちそうな外套だし、水竜だから、人の目を引いてもおかしくないはずなのに、ディランは行きかう人々の間を縫うように広場を抜ける。わたしは、見失わないように追いかけるので精いっぱいだった。


「お嬢ちゃん、こんな時間に……」


 親切な誰かが声をかけてくれても、足を止めるわけにはいかない。わたしはディランを見失わないように追いかけるので精いっぱいだった。


 船乗りたちのための酒場の喧騒を避けるように、ディランは閑散としたほうへと気だるそうに、それでもしっかりと歩を進める。


 そして、見失った。


 誰もいない夜の桟橋で、見失った。


 地元の漁師たちが使う桟橋だから、波止場の喧騒が風に乗って聞こえてくるだけで、人影はまったくない。


 夜の海に一人でやってきたのは、初めてのことだった。

 二つの月はまだ水平線の向こう側。


 不思議と、寂しくなかった。


 満天の星の光が、夜の海の波に砕ける。

 ここでは、海から運ばれてくる磯臭い香りしかしない。我が家に染みついている香ばしい香りも、さっきの波止場近くの酒場の熱気のこもった香りも、ここにはない。


 朝と夕に海が凪ぐように、自分でもどうしようもないくらい荒れた心が静かになった。


「こんなものがあるからいけないんだ」


 小袋の中から、ウロコを取り出して右の手のひらの上にのせる。


「捨ててしまえばいいんだ」


 ほんのり温かいウロコは、わたしを慰めてくれようとしてくれたのかもしれない。


 その時のわたしは、どうしても大好きな家族に戻ってほしかった。

 だから宝物になったウロコを海に捨ててしまおうと、ウロコを握りしめる。強く、震えるほど強く握りしめる。


「うわぁあああああああああああ!」


 桟橋を海に向かって走った。そうやって勢いをつけなければ、宝物を捨てることなんて出来ない。


「わぁあああああああああ!」


 叫びながら、右手を振り上げて、桟橋の端で黒いウロコを黒い海へと投げるだけ。


「ぁあっ」


 しかし、わたしの体は止まることを忘れてたらしい。

 右手を振り上げたまま、わたしは桟橋から落ちた。そのまま海面に叩きつけられ――なかった。


「騒々しいと思ったら、フィオナ嬢じゃないですか」


 目の前には、青いウロコにおおわれた大きな頭があった。

 何が起こったのか理解できていないわたしの体を、水竜は子猫を掴むようにウロコにおおわれた手でつまみ上げていた。


「……ディラン、さま?」


「名前を覚えていただけて、嬉しいのですが、ご家族の方は?」


 そっと桟橋にわたしをおろして、わたしの体と同じくらいの大きさの頭を横に傾ける。どうやら、首を傾げているようだ。


「いないよ。わたしだけ」


「それは


 わたしではない誰かに向けられた言葉だと思った。なんとなくだけれども。


 しばらくお待ちをと言って、ディランの大きな頭は海中に消えた。

 その頃になって、ようやく黒いウロコをわたそうとディランを追いかけてきたことを思い出した。強く握られていた右手を開くと、まだ黒いウロコはそこにある。


「お待たせいたしました」


 海中から再び姿を現したディランは、我が家にやってきた時のような人間の姿をしていた。

 正直、がっかりした。ディランなりに、わたしと話をしやすいように気をつかってくれたんだろうけど、がっかりした。もっと、大きな竜の姿でいてほしかったのだ。

 そんなわたしの残念感に気がついていたのか、いなかったのかわからないけど、ディランは海面を蹴って桟橋の上に立った。


「まさかとは思いますが、俺を追いかけてきたわけでは……」


「うん、追いかけてきたの」


「ああっ、なんという……」


 驚いて天を仰いだディランは、わたしの前で膝をついてわたしに目線を合わせてくれた。


「ダグラスから聞いてはいましたけど、あなたの目はごまかせないようだ。それで、なぜ俺を追いかけてきたのですか?」


「うん。これのせいで、お姉ちゃんとお父さんとお母さんが喧嘩してるの。だから、あげるの」


 ウロコをのせた右手を差し出すと、ディランの穏やかな表情かおが冷淡なそれになった。


「俺に譲るというのか?」


「う、うん。と、特別なウロコなんでしょ?」


 それでもなんとか言い返すと、ディランは軽くため息をついた。


「いいでしょう。俺に譲ってくれるのですね」


「うん」


 ディランがわたしのウロコに手を伸ばす。指の長い彼の手がウロコに触れる――よりも早く、わたしはウロコを握りしめていた。


「なん、で?」


 まるでディランに触れさせまいとするような行動が、自分でも理解できなかった。


「どうしたんです? 譲ってくださるのではなかったのですか?」


「そうだよ、そうだけど、嫌なのぉ! なんで? なんでっ」


 ディランがもう一度手を伸ばす。わたしはイヤイヤと首を横に振りながら、右手を胸元に引き寄せてしまう。

 この黒いウロコさえなくなれば、大好きな家族に戻れるはずなのに。

 混乱して目に涙を浮かべているわたしの右手を、ディランは優しく両手で包み込んでくれた。


「それでいいのですよ。フィオナ嬢、花嫁が生まれた時に握りしめていたウロコは、花婿となる竜の一部であり、花嫁の一部でもあるのです」


 ディランの優しそうな笑みに、涙がこぼれそうになる。


「そもそも、俺のひと言が原因なのでしょう?」


「うん。でも、わたしがこんなウロコを握って生まれてこなければ……」


「優しいのですね。……フィオナ嬢、あなたはいずれあの家を出ていくことになる。それは、リーナ嬢も同じでしょう」


 右手を包みこんだ両手をはなして、ディランはわたしに諭すような口ぶりで話し始めた。その深い青い瞳は、誠実であろうとする者の光を宿している。


「それが、数年早くなっただけのことだと、考えてみてはどうでしょう? 我々は、あなた自らすすんで竜の森に来てほしいのです。我々に言われたからでもなく、ご家族の方に言われたからでもなく、フィオナ嬢、あなた自ら決めてほしいのです」


「わたしが、決めるの?」


 ディランは笑顔でごまかすのをやめたようだ。真剣そのものな表情で、七歳の小娘のわたしに向き合っている。


「その気になれば、あなたをこのまま連れ去ることだってできるのです。花婿となる世界竜とあなたが、最良の形で出会えるように力になりたいのです。そのためにも、我々のもとに――竜の森に来ていただけないでしょうか?」


 すっと桟橋の向こうに目をやって、ディランはもう一度微笑んだ。


「また、返事をお伺いに行きますよ。俺だって、仲のよい家族を無理やり引き離すようなことはしたくない」


 さぁと振り返るように促されるよりも早く、バタバタと桟橋を走る足音が聞こえてきた。


「フィオの馬鹿! 心配したんだからね。ばかぁああああああ」


 ガシッと音がしたんじゃないかというくらい、お姉ちゃんは力強くわたしを抱きしめた。


「お姉ちゃん、苦しい」


「知らない! そんなの知らない! フィオがどこか行っちゃったら、あたし、あたし……」


「お姉ちゃん……」


 まだ言わないほうがよさそうだ。竜の森に行きたいなんて。

 そう、わたしの心は決まっていた。




 ――


 わたしが桟橋の向こうで家族に囲まれて帰っていくのを見送るディランの隣には、ダグラスの姿があった。


「ダグラス。どうやらフィオナ嬢は、ウロコとの結びつきが強すぎるようだな」


「俺もそう思いました。それが、災いしないことを一なる女神さまに祈らずにはいられません」


 早速、祈りの言葉を唱えるダグラスに、ディランは疲れが増した気がしたらしい。


「星はなんと言っている? 彼女はこの世界に何をもたらすのだ?」


「叔父上、俺に未来を読めというのですか? 無理ですよ。未来を知ることができたのは、世界竜族だけです」


「そうだったな」


 ディランは、願わずにはいられなかったそうだ。


 わたし自ら竜の森に来ることを決断することと、世界竜族の再来を。


 世界竜族の再来など、四竜族の彼らであっても馬鹿げた話だ。

 しかしながら長の右腕であるディランは、その馬鹿げた話こそが老竜ライオスの悲願であることを知っている。

 いつしか、ディラン自身の悲願となっていたのかもしれない。

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