神殿の離れにて
神殿の離れは、小屋のようなものだった。
お姉ちゃんもわたしも、その小屋があることは知っていたけど、実際に入ったことはなかった。物置小屋だとばかり思っていたからだ。
けれども、神殿の裏手にある離れと呼べるものは、その小屋しかなかった。
前庭であの水竜が人々の気を引いてくれたおかげで、簡単に離れに侵入することに成功した。
離れは神殿の客が滞在するのに使われていたのだと、後で知る。
一部屋だけの離れだったが、品のよさそうな家具がそろっていた。
離れの中で、お姉ちゃんと居心地の悪い思いをしていたが、そう長くは待たされなかった。
船頭のダグラス。
人懐っこい雰囲気の好青年の姿をした水竜は、そう名乗った。
「もう十六年もこの街に招かれているのに、名前が知られていないとはね」
そう言いながらも、それほど残念がっていなさそうだった。
ベッドの端に腰を下ろしたわたしは、ダグラスが用意してあった茶器を使ってイムリ茶を手際よく淹れているのを眺めていた。
「あ、あの、ダ、ダグラスさま、妹のことで……」
「さま付けされるほど、偉くはないんだけどね。……はい、どうぞ。口に合えばいいけど」
「あ、ありがとうございます」
お姉ちゃんの緊張をほぐそうとしてくれたのかもしれない。
ガチガチに緊張しているお姉ちゃんと一緒に、優しい爽やかな香りのするティーカップをもらいながら、そんなことを考えていた。
水竜に会いたがっていたのは、お姉ちゃんだ。もちろん、わたしも初めて直接話す水竜に思うことはあったけれど、所詮は他人事と決めつけていた。
「美味しい」
一口飲んで、自然と溢れた言葉。
どの家庭の食卓にあるようなイムリ茶が、こんなに美味しいなんて初めて知った。
「そう言ってもらえて、嬉しいよ。俺もやっと生きた心地がする」
布張りの椅子に座ったダグラスは、深いため息をついて安堵の笑みを浮かべる。
「このまま、この街で異変が見つからなかったら、大おじいさまに何されるかわかったものじゃなかったからね」
ひとり言のようだ。ダグラスは、早くもイムリ茶を飲み干していた。
「まずは名前を聞かせてもらっても、いいかな」
「は、はい」
お姉ちゃんは、飲みかけのイムリ茶のカップをベッドサイドテーブルに置いて立ち上がった。
「フィオナ・ガードナーの姉のリーナです。ダグラスさま、あたし……じゃなくて、わたしの妹は特別なんですっ」
「特別じゃないもん」
「フィオは黙ってなさいっ」
どう考えても、お姉ちゃんの自己紹介はめちゃくちゃだった。まだ緊張していたに違いない。
わたしが言い返す前に、ダグラスがまぁまぁと笑う。もともと人懐っこい好青年の彼は、笑うと少年みたいだ。
「特別なのはわかるよ。俺を見つけられたんだからね」
「ほら、ダグラスさまだって言ってくれてるじゃない」
「むぅ」
無知な子どものわたしは、水竜に反論できなかった。面白くなくてそっぽ向いてしまうくらいには、まだまだ子どもだった。
目抜き通りを歩き回っていたダグラスが言うには、目立たないように
「……だから、外套を掴まれた時は本当に驚いたよ」
ダグラスは素焼きの水差しを、空になってた自分のカップに傾ける。
「それは、フィオが古の竜族の花嫁だからですっ」
どうやら、お姉ちゃんにとって黒いウロコは本物で間違いないらしい。
ダグラスの手から水差しが滑り落ちるまで若干の間があったのは、あまりにもお姉ちゃんが得意気だったからかもしれない。何を言われたのか理解するのに、少し時間がかかったのかもしれない。
水差しが割れる音が、離れに響く。
これでもかと目を見開いて、信じられないと書いてある彼の顔は青ざめてすらいるようだ。
「フィオ、ウロコを見せてあげなさい」
「うん」
宝物を自慢できるのは、誰に対しても気分がいい。たとえ、水竜が相手であっても。
ベッドの端から飛び降りて、わたしは胸元の小袋からウロコを右の手のひらの上に取り出した。
「ああっ」
ダグラスはさらに青ざめた顔で喘ぐと、両手で顔を覆い隠した。
「やっぱり、君だったんだ」
胸の中にたまった息を全部吐き出したんじゃないかってくらい、ダグラスは深い深いため息をついた。
両手を外したダグラスは、まだ青ざめていたものの少しは笑う余裕を取り戻したようだ。
「
ダグラスが右手を軽く振ると、床に溢れた水がその手の周囲に集まりだす。
「おーっ」
大祭三日目に本来の竜の姿をした彼が、海水の花を作るのを毎年見てきたが、こんなに近くで水が空中に浮かんでいるのは初めて見る。だから、お姉ちゃんと感嘆の声が揃ってしまった。
水差し分の水を球状にまとめると、ダグラスの右手の上でクルクルと水が回り出す。窓から差し込む日の光が水の球体を通して、キラキラと部屋中に拡散されていく。
「申し訳ないが、俺よりもふさわしい身内に相談する時間がほしい」
「身内?」
お姉ちゃんが首を傾げると、ダグラスは口元を引き締めた。
「ところで、確認したいことがあるんだけど……」
ドアを叩く音がした。
ダグラスは、身振りでわたしたちに動かないように伝えると、彼が右手を軽く振ると水の球体を天井近くに浮かんだ。
「何かな?」
あの外套は、どこへいったのだろうか。――ドアを半分開けて対応するダグラスの後ろ姿を見ながら、そんなことを考えていた。
食事の相談をしているようだけど、とにかく外套がどこにいったのか気になってしかたなかった。
短い青い髪に、青い長衣。そこまで背は高くないけど、ひょろっとしてる。がっしりしたお父さんと比べるのはどうかと思うけど、頼りないような気もしないでもない。
「……では、夕刻の鐘まで休ませてもらうよ」
ドアを閉めて振り返ったダグラスは、やれやれと苦い笑いを浮かべていた。
「さっきの話の続きだけど、他に誰かフィオナ嬢のウロコのことを知っている人はいるかな?」
天井近くの水の球体に見とれていたお姉ちゃんは、ハッと我に返る。
「あ、えっと、お父さんとお母さん。後、昨日までフィオのウロコを持ってたホーンばあさん、後はわかんないです」
「昨日までウロコを持ってた?」
もじもじとうつむいたお姉ちゃんに、椅子に座ったダグラスは詳しく話すように真剣な顔つきで言う。
お父さんとお母さんに対する不満も混ぜながら、お姉ちゃんはうつむきながら説明する。もじもじするなんてお姉ちゃんらしくないけど、どうやらダグラスの外見が王子さまのように見えて恥ずかしかったらしい。
「……なるほど。
天井近くに浮かべていた水の球体を右の手のひらの上に下ろしたダグラスは、苦笑いを浮かべる。水の球体は、あいかわらずクルクルと回りながら、不思議なことにどんどん小さくなっていく。
「本当に、俺の手に負えない。やはり、身内に相談する必要がありそうだ。今日はもう帰りなさい」
わたしのウロコと同じくらいの大きさまで小さくなった水の球体は、鈴のような形になっていた。それをダグラスはお姉ちゃんの手をとって、握らせる。
「リーナ嬢、これを君にわたそう。フィオナ嬢のウロコの件を、放置しない約束の証として。それから、ここで俺と話したことはもちろん、黒いウロコのことは、これ以上知られないようにしなさい。……世界には、悪意ある者もいるから」
最後のひと言は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
隠しきれないほど頬を真っ赤に染めたお姉ちゃんは、ただうなずくしかできなかった。
「俺が外に出れば人目を引くだろうから、ゆっくり二十数えてから帰りなさい。いいかい、黒いウロコのことを迂闊に口にしないように」
大きく首を縦に振ったわたしたちに満足げに笑ったダグラスは、割ってしまった水差しの欠片を集めて外に向かった。
――
充分時間をかけて戻ってきたダグラスは、わたしたちが上手いこと帰っていったと知り、安堵のため息をついたのだという。
それから、部屋の隅にあった
「……ディラン叔父上に、至急相談したいことがあるんだ。……そうか、ご立腹なのか……」
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