大祭前日

 夢というものは、夢を見ている間は、それが夢だと多くの人が気がつかない。




 ――


 幼い『わたし』は、森の中にいた。


 この森のことなら、『わたし』はなんでも知っている。


 キラキラ輝く木漏れ日の中、走る。ただひたすら、走る。


 年老いた柳の苔の生えた根を飛び越えて、頭上を飛び去る小鳥のさえずりによろこびを覚える。


 いつもなら悲鳴をあげてしまうような蛇にも、微笑みかける。


 これが『わたし』の挨拶だ。

 この森のすべてが『わたし』の家族。


 清らかな湧き水のように、こんこんと歓びがあふれだす。

 歓びだけをかてに走る。


 目が覚めるような清々しい空気も、木々のざわめきも、みずみずしい緑の匂いも、全てが歓びだ。


 不意に明るくなったと思うと、森が途切れた。まぶしい光に包まれる。


 一瞬の浮遊感。

 すぐに『わたし』は落下する。


 キラキラと日の光が弾ける谷川が見える。

 怖くはない。『わたし』にあるのは歓びだけ。


 ごうごうと音を立てて流れる谷川に叩きつけられて、『わたし』は水中に沈む。

 身を切るような冷たい奔流にもみくちゃにされても、『わたし』は歓んでいる。

 水泡や水草が見えては消える。

 銀色のきらめきに、ひときわ大きな歓びが溢れて心躍らせる。


 大きな魚を両手で捕まえて、『わたし』は水面から顔を出した。綺麗な空気を吸って、また歓ぶ。


 小石がゴロゴロ転がっている岸に上がって、捕まえた獲物にかぶりつく。


 美味しい。


 身も心も歓びで満たされた『わたし』は、再び森の中を走りだす。




 ――


 何度も何度も繰り返し見ることになる夢は、何度も何度も夢の中で夢だとわからなかった。


「おはよ、フィオ、元気なさそうだけど、どこか痛いの?」


「お姉ちゃん、おはよ。……どこも痛くないよ」


 先に起きてベッドの上でぼんやりしていたら、お姉ちゃんが心配してくれた。

 七歳のわたしには、その時の気持ちをなんて表現すればいいのかわからなかった。懐かしいような、悲しいような――今ならふさわしい言葉を知っている。喪失感だ。

 しばらくすれば、夢の鮮やかな細部とともに消えてしまう喪失感。けれども、いつもどうしようもないほど自分が無力な存在だと思い知らされる。


「なら、よかった。フィオ、早く着替えなさいよ。もうすぐ、ごはんだから」


「はーい」


 わたしの胸元には、黒いウロコが入った小袋が揺れている。



 ピークは過ぎたとはいえ、まだ大祭前で忙しいお父さんを抜いた女三人の食卓は、昨夜ゆうべのことが嘘のように静かだった。


 というよりも、お姉ちゃんが静かだった。

 お母さんも忙しかったのだろう。そうでなかったら、お姉ちゃんが何か企んでいるのではと、不審に思ったはずだ。


 かくいうわたしも、お姉ちゃんの様子がおかしいと気がついたのは、朝食を食べ終えて、屋根裏部屋に戻ってしばらくしてからのことだ。


「フィオ、お出かけするよ」


 わたしは、きれいなウロコをよそゆき用のハンカチで、飽きもせずに磨いていた。


「どこに行くの?」


「行けばわかるから、急いで」


「うん。わかった」


 お姉ちゃんと一緒にいれば、大丈夫。安心。無条件で、わたしはそう信じていた。両親よりも、お姉ちゃんの方が頼りになると。決して、両親が頼りないわけではないけど、一緒にいる時間の多いお姉ちゃんを頼りにしてしまうのは、しかたないことではないだろうか。


「ほら、頭巾ずれてるよ」


 お姉ちゃんとお揃いの花の刺繍がほどこされた頭巾の位置を、お姉ちゃんに直してもらってから外に出る。


 途中、一階の食卓の上に用意されていたサンドイッチをお姉ちゃんは肩掛けカバンに押しこんで、街に出る。


 大祭前日とあって、街は活気づいていた。

 白っぽい石造りの家々の窓辺には、色とりどりの花が飾られている。中には、一日早く錨の飾りパンも飾っている家もある。もちろん、我がガードナーベーカリーのパンもあったに違いない。


「フィオ、よく聞いて」


「うん」


 そんな浮足立った目抜き通りを、お姉ちゃんは真剣な顔つきでわたしの手を引いて歩いていた。


「お祭りの水竜さまが来るのはお祭りの前日だって、聞いたことがあるの」


「うん」


「今日はその前日なの」


「うん」


「お祭りは明日からだから、今日なら話を聞いてもらえるかもしれない」


「うん?」


 どうやら、お姉ちゃんは大祭のために招かれた水竜をつかまえて、わたしのウロコを見せようとしていたらしい。はっきりいって、無茶苦茶だ。

 でも、その頃のわたしは、よくわかってなかった。


 上り坂になっている目抜き通りを、お姉ちゃんに手を引かれながら歩いて行く。少しして、お姉ちゃんの言ってたことから、行き先がようやくわかった。


「神殿に行くの?」


「そう。お父さんもお母さんも、忙しいから後でいいとか言ってるけど、冗談じゃないわ」


 グイグイと、お姉ちゃんはわたしの手を引く。わたしは、少しだけお姉ちゃんの真剣さが怖かった。怖かったけど、お姉ちゃんに対する信頼感が大きかった。


 リュックベン市のアウール神殿は、目抜き通りの一番奥の高台にある。一なる女神さまと、水辺の女神アウラさまを祀っている。


 白い壁に青い屋根のアウール神殿。


 大祭の準備に慌ただしい神殿の前庭には近づく事ができず、神殿がよく見える目抜き通りの道端に、やむなくお姉ちゃんと並んで立っていた。


 神殿前の通りを行き交う人々に、違和感を覚えたのはしばらくしてからだった。


「……まいったな……大おじいさまに…………しまう」


 賑やかな通りの中で、決して大きな声ではなかったけど、確かに聞こえた。近いような遠いような不思議な声。男の人の声だったような気もするけど、何か分厚い覆いか何かに隔てられているかのように、はっきりしない。


 けれども、所詮は違和感。

 すぐに忘れて、黒いウロコを取り出して両手でもてあそぶことに夢中になってた。


 お姉ちゃんは神殿の様子をうかがっている。水竜が到着するのを、今か今かと待ち構えている。


 しばらくして、また違和感が襲ってきた。

 今度は耳ではなく、目で感じた。

 通りを行き交う人々の中に、がいる。そう感じた。


 それから、わたしは黒いウロコをもてあそぶことも忘れて、じっと通りを観察した。違和感の正体が気になってしかたなかったからだ。


 よく日に焼けた腕を振りながら歩く船乗りの男たち。

 色とりどりの頭巾を被った女たち。刺繍が施されてる頭巾の未婚の女性の方が、多いような気がする。


 三度目の違和感は、すぐに訪れた。

 じっと通りを見続けて、ようやく違和感の正体を見つけた。

 何のことはない。青みがかった白の外套を羽織った青年だ。フードを目深にかぶって、顔まではわからないが彼こそが違和感の正体だと、わたしは直感した。


「あっ」


 神殿に向かっていた彼が、引き返そうと体の向きを変えた時、フードの中の青い髪が見えた。青い目まで見えなかったが、水竜だ。

 四竜族が人の姿をしている時、髪と瞳がウロコと同じ色をしていることくらい、七歳のわたしでも知っていた。


「フィオ!」


 お姉ちゃんが呼び止める声を無視して、フードを目深にかぶった水竜に向かってわたしは走る。だって、お姉ちゃんが会いたがっていた水竜なんだから。

 行き交う浮足立った人たちの間をすり抜けて、水竜の外套の裾を掴む。


「っ!」


 息を整えているわたしを、振り返った水竜はとても驚いた顔で見下ろしてきた。

 信じられない。――そうつぶやいたかもしれない。でも、わたしは少しでも早く息を整えて、お姉ちゃんの話を聞いてほしかった。


「フィオ、どうした……あ」


 追いかけてきたお姉ちゃんは、ようやく水竜に気がついたらしい。


「そうか、君か。君だったのか」


 周囲の様子をうかがって、水竜は早口でわたしたちにささやく。


「どうか、騒がないでほしい。目立ちたくないから。アウール神殿の裏手にある離れがある。誰にも見つからないように、そこで待ってなさい。鍵はいつもかかってないから」


 わたしは横目でお姉ちゃんをうかがうと、首を縦に振っていた。

 外套の裾を掴んでいた手の力を緩めると、水竜は神殿に向かっていった。


「お姉ちゃん、水竜さま、行っちゃったよ」


「うん。神殿の離れに行かなきゃね。フィオ、どうして水竜さまがわかったの?」


「ん?」


 水竜の後を追うように、お姉ちゃんとわたしも急ぎ足で神殿に向かう。

 神殿の前庭の端を通る時、神官さまたちに囲まれていた水竜と一瞬目があったような気がする。


「……ええ、いつもよりも早く来てしまったもので……」


 早く行け。――その澄んだ青い瞳に言われた気がする。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る