第一部 始まりと旅立ち

第一章 故郷の港町

黒い小石

 いちなる女神さまは、初めに神々をお生みになられました。

 光、闇、生、死、数えきれないほどの神々の中には、今では忘れ去られた神々もおられます。


 一なる女神さまは、次に世界をお生みになられました。

 わたしたちの世界です。

 神々は力をあわせて世界を整えられました。


 一なる女神さまは、世界が整いますと生き物たちをお生みになられました。

 世界は様々な種族の生き物たちで、にぎやかになりました。


 今では忘れさられてしまったほど些細なきっかけで、異なる種族の間で争い始めました。争いは世界中に広がりました。


 長い、気の遠くなるような長い間、世界は憎しみと悲しみしかありませんでした。


 一なる女神さまはお嘆きになられました。

 助け合いながら世界をよりよくして欲しいと願った一なる女神さまには、そのような世界は耐え難いものだったのです。


 一なる女神さまは涙を流しながら、四つあった大陸のうち、三つの大陸を海に沈められました。


 そして、ただひとつ残されたノアン大陸に一なる女神さまは降り立ち、二つの種族をお呼びになられました。


 鋭い牙も爪も強靭な翼も持たない最も弱き種族、人間。


 鋭い牙と爪と強靭な翼を持つ最も強き種族、竜族。



 一なる女神さまは、お尋ねになられました。

『お前たちは力を合わせることができるか?』と。


 人間は答えました。

「はい」と。


「このままではわたくしたちは、他の種族に滅ぼされる時を待つだけです」



 竜族は答えました。

「はい」と。


「このままではわたくしたち以外の種族は滅んで、親族うからの間で滅ぼしあい始めるでしょう」



 一なる女神さまは、この答えに大変満足なされました。



『では、お前たちに知恵を授けましょう。そして最も弱き人間と最も強き竜族が争わぬよう、一つだけ受け入れねばならないことがあります。最も強き竜族はこれよりオスのみ。種を残すためには、人間の女を妻としなければならない。お前たちは、これを受け入れることができますか?』


 人間と竜族は、声をそろえて答えました。



「はい」と。


 『聖典 創世記の一節』より


 


 ――


 わたしの故郷は、ノアン大陸最南端の港町リュックベン市だ。


 リュックベン市は、南方の都市連盟に加盟した小さな都市国家のひとつ。

 今でこそ、改革の港町と賞賛されているけれども、わたしが産声を上げた時は、そこそこの港町でしかなかった。


 広場から神殿へと続く目抜き通りに面したパン屋で産声を上げたその日のうちに、わたしはフィオナ・ガードナーと名付けられた。


 『しがないパン屋の娘』と言っていたのは、五つ年上の姉リーナ・ガードナーで、彼女はわたしがその台詞をまねることを嫌っていた。なぜかと尋ねれば、決まって彼女はこう答えた。――『だって、フィオは特別なんだから』と。

 おそらく、わたしの名前を知るほとんどの人々は、姉の意見に首を縦に振るだろう。


 けれども、わたしは今でも『しがないパン屋の娘』だったと思う。今でこそ、世界竜の奥方としての自覚はあるものの、やはり『しがないパン屋の娘』はわたしの大切な一部分として残っているのだろう。




 ――


 統一歴3450年 春の中月なかつき3日。


「ホーンばあさん、それ本当にっ、本当に、フィオが生まれたときに握りしめてたの?」


 お姉ちゃんのひどく興奮した声に、わたしは現実に引き戻された。

 明るい光が差し込む小さな窓の下に座りこんでいたわたしが、びっくりして顔をあげる。それほど、お姉ちゃんの声は鋭さを持っていた。


「ああ、そうだとも。フィオが握りしめていたウロコを、あたしゃ、ずっと取り上げていたんだよ。一なる女神さまの罰が当たっても文句も言えやしない」


「でも、ホーンばあさんは、不吉だと思ったんでしょ? でも、ちゃんとフィオに返してくれたでしょ。一なる女神さまの罰なんて当たらないよ」


 お姉ちゃんは、ホーンばあさんに怒っているわけじゃなさそうだ。わたしの意識は、再び手のひらの中の黒い小石に戻っていった。


 少し前にホーンばあさんから受け取った時は、小指の先ほどの小さな小さな小石だった。それが、いつの間にか片手で握りしめるのにちょうどいい大きさになっている。その時のわたしにとって、それはとても自然なことだった。


 磨き上げた鏡のように、黒い小石にはわたしの顔が映っている。

 母譲りの癖の強い金色の髪。父譲りの新緑の緑の瞳。目が潤みがちなのが、正直気に入らない。


 わたしは、まだ七歳。お姉ちゃんの言っていたウロコの意味なんて、少しも気にかけていなかった。

 ただただ、時間を忘れて黒い小石を見つめることに没頭していた。


「フィオはやっぱり特別だったのよ。こうしちゃいられないわ。フィオ、帰るよ」


「あ、うん」


 お姉ちゃんが窓を背にしてわたしに帰るように促してきても、まだ意識は黒い小石にあった。


「フィオっ」


 しぶしぶ黒い小石を右手で握りしめて、立ち上がった。


「フィオ、こっちに来て顔をよく見せておくれ」


 ホーンばあさんは、歳のせいでベッドの上で過ごす時間が増えていた。後から知ったことだけど、彼女はこの前の冬から体を壊しがちだったらしい。彼女は、その皺くちゃな手で枕元に立ったわたしに黒い小袋を首からかけてくれた。そのままわたしの肩に置かれたその手は、小刻みに震えている。


「あたしゃ、竜族の花嫁になる娘を何人も知っている。嫁いでいった娘も少なくないさ。だがね、黒いウロコなんて初めてだったんだ。ウロコだなんて思えなくて、取り上げてしまって、本当に、本当に……」


 ホーンばあさんの頬を伝う光るものが、涙だとすぐに気がつかなかった。

 初めて見るホーンばあさんの涙に、戸惑うばかりでどうしたらいいのかわからない。


 声をつまらせたホーンばあさんは、涙をぬぐって微笑んでくれた。

 でも、その微笑みはいつものような優しさだけではなくて、儚さもあったと思う。その頃のわたしは、もちろん儚いなんて言葉をまだ知らなかったけど。


「遠い昔、黒いウロコに金色こんじきの瞳の竜族がいたんだよ」


いにしえの竜族のことね」


 窓際のお姉ちゃんが、得意気に口を挟む。

 まだ興奮しているのか、ホーンばあさんの涙が見えていなかったのか、わたしはちょっと呆れてしまった。お姉ちゃんらしいけど。


「そう、古の竜族。今だからこそ、そう呼ばれているが、昔はこう呼ばれていたんだよ。……世界竜族って」


 ――世界竜族。


 初めて耳にする言葉なのに、泣きたくなるほどの懐かしさで胸が一杯になる。


「……世界竜族」


 右手の中の黒い小石ウロコが、ほのかに熱を帯びたような気がした。けれども、すぐにわたし自身の体温と溶け合ってしまってさだかではなくなる。


 後でお姉ちゃんから聞かされた話では、わたしは熱に浮かされたようにぼうっとしてたらしい。そのくせ、しっかりお姉ちゃんの後について歩いて家に帰ってきた、と。


 その時のわたしの意識は、間違いなくホーンばあさんからもらった黒い小石ウロコにあった。

 お姉ちゃんと使っている屋根裏の子ども部屋で、お姉ちゃんに頭を小突かれるまで、新しい宝物を飽きもせずに見つめていた。


 物心ついた時には床に敷かれていた幾何学パターンのキルトマットの上に座りこんでいたわたしの横に、お姉ちゃんも座る。


「フィオは、やっぱり特別だったのよ」


 いつもなら得意げに口にする台詞が、その時は不満そうだった。


 わたしはそう言われるのが不満だったけど、その時は何も言わないほうがよさそうだと感じた。それでも、顔にはありありと不満が浮かんでいたんだろうけど。だって、わたしもお姉ちゃんもまだまだ子どもだったんだから。


「なのに、お父さんもお母さんも、全然、あたしの話を聞いてくれないんだから。早く神殿に行って、フィオのウロコを見せなきゃいけないのに」


 お姉ちゃんの言ってることの半分も、わたしは理解できていなかった。



 つまりは、こういうことだった。

 この世界には、四つの竜族が存在する。火竜族、水竜族、風竜族、地竜族。彼らを総称する言葉が、四竜族よんりゅうぞく

 竜の花嫁となる娘は、生まれたときにウロコを握りしめている。夫となる竜のウロコだ。


 赤ならば、火竜。

 青ならば、水竜。

 銀ならば、風竜。

 茶ならば、地竜。


 竜族の花嫁が生まれたら、まずは近くの神殿に報告に行く。

 定期的に、この大陸の中心部の四竜族が住まう竜の森と呼ばれる場所に、名簿が届けられるらしい。

 竜族に言わせれば、花嫁探しに名簿が役立つことはまずないらしい。

 この名簿の本当の意味は、竜族と一部の花嫁しか知らない。わたしがその意味を知ることになるのは、ずっと後のことになる。



 わたしの手の中にある黒いウロコの存在を、お姉ちゃんは早く神殿に伝えたくてしかたなかったらしい。

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