港町のパン屋

 わたしは黒いウロコを褒められるだけで、我がことのように嬉しかった。


「綺麗だね」


「うんっ」


 竜の花嫁にとってウロコというものは、そういうものだ。花婿の一部であるのと同時に、花嫁の一部でもあるのだ。


「もうすぐお祭りだから、忙しいのはわかるけどさぁ」


「うん?」


 どうやら、独り言だったらしい。

 わたしと同じ新緑の色をしたお姉ちゃんの瞳は、黒いウロコを見つめながらも、彼女の関心は別のところにあったようだ。


 もっと、もっと、この宝物を褒めてほしかった。


「むぅ」


「なに、むくれてるのよ。フィオの可愛い顔が台無しよ。こうしてやるぅ」


「きゃははっ、や、やぁああ、きゃははっ」


 お姉ちゃんは、背後からわたしの脇腹をくすぐりだした。

 たまったものではない。ゴロゴロとキルトマットの上を転がっても、お姉ちゃんはわたしから離れない。

 落とさないように握りしめた黒いウロコは、心までも温めてくれる。


「おねえっ、きゃは、も、やぁ」


「はぁはぁ、フィオ、も、抵抗する、ように、なったじゃないの」


 ようやく、お姉ちゃんから解放された。

 お姉ちゃんもわたしも、キルトマットの上で仰向けになって息を整えるのに、一生懸命だった。


「ねぇ、フィオ……」


「なぁに、お姉ちゃん」


 黒いウロコ握った右手を胸の上におくだけで、息が楽になる。


「あたしは、ずっとフィオのお姉ちゃんだからね」


「当たり前でしょ。お姉ちゃんは、お姉ちゃんだもん」


「そうだけどね」


 広場から夕刻の鐘の音が聞こえてくる。


 階下からも、美味しい夕食の匂いが立ち上っている。

 もうすぐ、お母さんが階下から声を張り上げてくれるはずだ。いつものように。


 お姉ちゃんはきっとこの日常が崩れることを、漠然としながらも感じ取っていたのだと思う。


 なにがともあれ、この日はまだお母さんがいつものように呼びに来てくれた。


「リーナ、フィオ、ご飯だよ」


「はぁあああい」


「今行く」


 首から下げた小袋に黒いウロコをしまうのが、本当に心苦しかった。

 それでもお腹は空いていたし、食いっぱぐれるなんてもってのほかだ。




 ――


 曽祖父の代から続くガードナーベーカリーは、こじんまりとした店構えながらも、そこそこ評判のいいパン屋だ。


「あれ、お父さんは?」


「まだ店だよ、すぐに来るさ。あたしたちだけで、先に食べろってさ」


 母ゲルダはお姉ちゃんとわたしを同時に抱きしめるためにふっくらした体つきなのだと、いつも笑いながら言ってくれる。

 そして、声が大きくて気が強い。こうと決めたら、そう簡単には譲らない頑固者。

 船乗りの多いこの港町では、男が海に出ている間、女たちが家を守らなくてはならない。

 父のアーチボルドは船乗りではないけど、ゲルダは根っからのリュックベンの女だ。

 赤い頭巾の中に癖の強い金髪を押しこんだお母さんは、食卓につくようにお姉ちゃんとわたしをせかす。


 今日の夕食は、身のしっかりした白身魚のミルク煮。丸パンは、温め直されてほんわりと湯気が立っている。


「さ、先にお祈りするよ」


 わたしが空腹に突き動かされてパンに手を伸ばすと、お母さんにたしなめられる。

 向かいに座るお姉ちゃんは、ちゃんと食事のありつき方を心得ていた。

 胸の高さに持ち上げた両手を、静かに手のひらを上に向ける。


「楽園にまします一なる女神さま。今日という日に、感謝を。明日という日に希望を、お与えください」


 これで、ようやく食べられる。

 温め直されたパンは、ふかふかで柔らかい。程よくきいた塩気のおかげで、素朴な丸パンがより美味しくなってる。ガードナーベーカリーのパンは世界一だ――幼い頃のわたしは、そう信じて譲らなかった。

 白身魚のミルク煮なんてそっちのけで、丸パンを食べる。麻布の上に与えられた一つの丸パンなんて、あっという間にお腹の中。食卓の中央の籠にある山盛りのパンにまで手を伸ばす。けれども、その直前に、わたしの手の届かないところまで、お母さんが籠を持ち上げる。


「フィオ、パンばかり食べるんじゃないよ」


「だって、美味しいんだもん」


 こうなったらどんなに手を伸ばしてもミルク煮に手をつけるまで、パンにありつけない。


「むぅ」


 しかたなくスプーンを手に取り、ミルク煮の白身魚を口に運ぶ。柔らかい切り身が、ミルクとよくからんで、こちらも美味しい。美味しいのだけど、やっぱりパンの方がいい。


「で、リーナ、さっきの話、ホーンばあさんからどうのってやつ、もういいのかい?」


「よくない。何度も言ってるじゃん。フィオを神殿に連れてかなきゃって」


「黒いウロコなんて、あたしゃ見たことないよ」


「だって、それは古の竜族のウロコだから。古の竜族は黒いウロコだったって話じゃない」


「千年も前に滅んだ竜族だろ? ありえないね」


「お母さんっ、だからぁ……」


 いつもの賑やかなガードナー家の食卓だ。いつものように、しばらくパンにありつけそうにない。


 お姉ちゃんも、お母さんと負けないくらい、リュックベンの女だ。この二人が言い争い始めたら、誰にも止められない。とばっちりをくらわないようにと、がっしりした大きな体を縮こまらせて、席についたお父さんでも止められない。


「……日に、感謝を。明日という日に希望を、お与えください」


 ボソボソと祈りを唱えるけど、お父さんは決して頼りないわけじゃない。

 しっかり引き締まった丸太のような腕の先の、大きな力強い手が、世界一のパンを作るのだ。頼りないわけがない。


「明後日から祭りなんだから、神殿だって大忙しに決まってるだろ」


「でも、でも、だから急いで……」


 わたしのミルク煮の皿はもう空っぽだ。


「ゲルダ、フィオがパンを待ってるぞ」


「ああ、アーチ、いたのかい」


 こんなことを言われても、めげるようじゃ我が家の父はつとまらない。茶色いごわついた髭に囲まれた口が、やれやれと歪む。お母さんの手元にあった籠を取って、わたしの前においてくれた。


「ほら、フィオ」


「ありがとっ」


 少し冷めてしまったパンを頬張るわたしと、静かに夕食を食べるお父さん。同じ食卓で、お姉ちゃんとお母さんがまだ言い争っている。

 これぞ、ガードナー家の食卓だ。


「そう言えば、ホーンばあさんから、なんかもらったんだってな」


 お父さんは食べ終わる頃になってようやく、黒いウロコのことを思い出したようだ。

 無理もない。春の大祭が二日後に迫っているのだから。


 春の大祭は、冬が終わり春の穏やかな海が戻ってきたことを祝い、これからも穏やかな海が続くことを祈る。五日間続くこの大祭に欠かせないのが、大陸中央の竜の森の北に位置する星辰せいしんうみから招かれる水竜と、五日間玄関に飾るいかりの形をした飾りパンだ。

 曽祖父の頃はまだ家々で作られていた飾りパンも、今では当たり前のように街のパン屋で用意する。

 我がガードナーベーカリーもこの時期は、大忙し。ピークは過ぎたとは言え、明日もまだ忙しいはずだ。


「これ、世界竜族のウロコだって」


「世界竜族? ああ、古の竜族のことか」


「むぅ」


 せっかく小袋から取り出して見せてあげたのに、お父さんの反応は期待したものではなかった。

 なぜか、古の竜族と呼ばれるのが嫌だった。


「ねぇ、お父さん、早くフィオを神殿に連れて行かないと」


「いや、リーナ、そうは言ってもだなぁ……」


「リーナ! 今がどれだけ忙しいかわかってるだろ? ウチだけじゃない、神殿だって水竜さまをお招きするのに忙しいに決まってる」


「まぁまぁ、母さんもそのくらいにしてやれよ。リーナも、大祭が終わってから、考えればいいじゃないか。な?」


「むぅ」


 お姉ちゃんとお母さんににらまれて、お父さんは亀のように首を縮める。

 でも、お姉ちゃんもお母さんもそれ以上何も言わなかった。


「まぁ、ウロコって言われりゃ、ウロコに見えなくもないなぁ」


 お父さんとお母さんには、わたしの手の中の黒いウロコは、きれいな小石程度にしか見えなかったのかもしれない。わたしは、なぜか悲しくなった。


「フィオ、行こう」


「あ、お姉ちゃん、待って」


 お姉ちゃんは、不機嫌を隠そうともしない。お父さんとお母さんにおやすみなさい言ってないけど、屋根裏部屋で一緒に寝るお姉ちゃんの機嫌の方を優先しなくてはいけない。

 勝手口から小さな中庭に出て、外の階段を登った先で梯子をさらに登れば、屋根裏部屋だ。梯子を危なっかしく登れるようになる前までは、お父さんとお母さんと一緒に二階で過ごしていた。すでに屋根裏部屋をもらっていたお姉ちゃんも、二階でよく一緒に過ごしたりもした。


 お姉ちゃんの後を追って屋根裏部屋に行くと、お姉ちゃんの姿はなかった。

 探すまでもない。お姉ちゃんのベッドの上の天窓から吹き込む風が、教えてくれた。


「お姉ちゃん?」


 天窓に手を伸ばして頭を出すと、お姉ちゃんは屋根の上に仰向けに寝転がっていた。


「フィオも来なよ。星が綺麗だよ」


「うん」


 屋根に出てお姉ちゃんの隣に横になって夜空を見上げると、お姉ちゃんの言ったとおり星が綺麗だった。

 銀色のシャール月はこの時期、めったに姿を見せない。黄色のムスル月もまだ昇っていないようだ。


 夜空いっぱいに広がった星たち。

 街の灯りがとても届かない夜空を埋め尽くす星たち。

 まさに、満天の星と呼ぶにふさわしかった。


 知らず知らずのうちに、首から下げていた小袋を握りしめていた。


「ねぇ、フィオ。フィオは特別なんだから、そのウロコだって本物に決まってるんだから」


「お姉ちゃん、わたしもしがないパン屋の娘だよ」


「フィオ……、まぁ、いいわ。冷えてきたし、寝よう」


「うん」


 屋根裏部屋に戻って、自分のベッドの上で丸くなる。

 

 わたしにとってこの始まりの日は、新しい宝物を手に入れたものの、いつもの一日だった。


 時おり独り言をつぶやきながら、考え事をしながら眠りについたお姉ちゃんにとっても、この日は日常の中にあったに違いない。




 この始まりの日、遠く大陸の中心にある竜の森の北部の星辰せいしんうみでは、より確かに物事は動き始めていた。

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