「恋」 それがなによ!?

菊田 禮

第1話 後輩・決心・旅立ち

「12分って書いてあるけど結構歩いた気がする。確か眼鏡屋の隣とか。あぁ、ここだわ」

 一人ぶつぶつ呟きながら最寄りの駅から徒歩でやって来た桑原仁美くわはらひとみは、車が10台置けるであろうか、店の駐車場を横切った。それから入り口の傍にある小さな横文字看板(water lily)をチラッと眺め白いハイヒールで、「コツ、コツ」階段を上り、少し金色がげた縦長の取っ手を握るとぐっと手前に引いた。木目調のドアは見かけより軽く、「チリン、チリン」と、心地よいベルを鳴らした。実はこの店、一般的に言う喫茶店である。仁美はドアの閉まりを確かめてから一歩前へ進むと、広々した室内空間を見渡した。レトロのお洒落な家具と予想以上の客数に感心した。


「へえ。いい感じの店ね」仁美は店員を待った。

「いらっしゃいませ」はきはきした声だ。白いブラウスに黒のミニスカート。身長170cm程のスラリとした女性店員である。


「知り合いと待ち合わせなんですが、まだ見えてないのです」

 仁美は改めて携帯電話を確認した。


「畏まりました。では中でお待ちください」


 仁美は二人掛けのテーブルへ案内され静かに腰掛けた。すると携帯が振え、「今着きましたから」と、メールが入り、間もなく彼女と再会した。名は笹木舞子ささきまいこと言う。舞子は仁美より3歳年下で彼此かれこれ10年以上前の話だが、アルバイト先の弁当屋で働いていた。二人はそこで顔見知りになった。話はそれだけではない。舞子は仁美と偶然同じ大学へ通い、そのうえ同じ県の出身だったから妙に親しくなった、というわけだ。


「仁美さん。久しぶりですね」舞子は相変わらずあどけなかった。それに当時から仁美を「先輩」と呼ばなかった。


「社会人になって初めて会うけど、相変わらず舞子は……。何て言っていいか。可愛いわね」

「そ、それほどでも」舞子の柔らかな雰囲気は仁美の心に癒しをもたらした。


「ところで、何を注文しますか?」舞子は三つ折りのメニューを開いた。

「私のおすすめは、ケーキセットです。月ごとにケーキが変わり、しかも半端ないボリュームなんです」

 舞子の嬉しそうな顔に仁美は、「プッ」と、噴き出した。

「満面の笑みだね。じゃあ、それにする。飲み物はアイスコーヒーね」

「分かりました。私はアイスティーです」

 舞子は身を乗り出し周囲を見渡した。店員を見つけると笑顔で手を振った。


「すみませ~ん。お願いします!」

 

 羨ましいほど元気だ。仁美は彼女に会うだけで十分良かったのだろうけれど、いやいや舞子と言う人物。最も仁美は知らなかったが実は素晴らしい能力を持っていた。


「ところで仕事は楽しい?」仁美は氷の入った水を一口飲んで尋ねた。

「はい。楽しいですよ。仁美さんは……。えっと。悩んでますね」

「あら。図星。そんな顔してたかな?」

 仁美は両手の指を交互に重ねその上に顎を載せ、「はぁーっ」と、ため息をついた。


「最近ね。どうも仕事がうまく進まないの。いくつかアイデアを出すものの空回りして駄目なのよ」

 仁美は少し俯いた。

「仁美さん。大丈夫です。それは……。少し時間が掛かるかもしれませんが丁寧に説明をすれば相手は分かってくれますよ。だからどうか自信を持って下さい」

 仁美は舞子の顔をじっと見つめた。舞子は相変わらずいい笑顔だ。


「そ、そう? じゃあ、頑張ってみようかしら」

「はい。その意気ですよ」

 舞子は眩しいほど煌めいていた。

「それにしても妙に信憑性しんぴょうせいがあるわ……」

 仁美はボソッと呟き上目遣いで舞子を窺った。


「お待たせしました。アイスコーヒーのお客様は……」


 仁美はシロップとミルクを適度に入れストローで軽くかき混ぜ喉へスーッと通した。舞子はストローをグラスに入れてシロップだけ注いだ。それから額に手を当て恰も考える仕草でアイスティーをぐるぐる混ぜていた。が、ふっと動作が止まり仁美を眺めた。と言うよりじっと見据えてこう囁いた。


「仁美さん。彼氏がいますね」舞子は静かに目を閉じた。

 

 仁美はビクッとした。それは隣席のおば様方のある意味仰々しく盛り上がった話題からではない。

「まあ……。ね」仁美はストローで氷をちょんと突くとため息をついたが、一方おば様方は、「あははははっ……」て、騒がしく笑った。


「彼氏と何年付き合ってますか?」

 舞子はケーキ用のフォークを撮みながら尋ねた。

「そうね。もうすぐ10年だわ。しかしこのケーキ三種類もあるのね」

「はい。今月はマロン、ストロベリー、チョコレートって書いてありました」

 舞子はマロンケーキの端にゆっくりフォークを沈めた。

「ブランデーの香りがします。う~ん。美味しいです」

 仁美は吐息と一緒に懐かしい記憶を辿った。それで舞子の批評が右の耳から左の耳へ抜けていった。

「そっか。私達は付き合ってもう10年になるんだ……」

 

 仁美は窓越しの晴れた景色を何となしに眺めた。車が赤信号で速度を落とし道路に連なって停車した。その向こうに芝を敷き詰めた広い公園があって大人や子どもで賑わっていた。何だか楽しそうである。また公園の周りに沿った歩道には木が点々と植えられそよ風で若葉が揺れる様はどことなく涼し気だった。とは言うものの……

 

 目に映る風景は確かに穏やかで心温まったはずだ。しかしながら今の仁美の心は停電したように明かりがなく、小さな仁美が冷たい闇の中で必死に行き先を探し、「助けてください!」と、悲鳴を上げていた。そればかりか、「お前はそこにいるんだ」見えない闇の強い力で抑制され触れられるはずの光にさえ気付けなかった。


「冷えてますね」

「えっ?」

「このケーキですよ」

「ああ。そうね……」


 舞子はストローに口を当てアイスティーを少々吸い込み、「ゴクッ」と、喉へ通した。それからグラスの滴に人差し指で触れ唐突に顔を上げると、「あの。仁美さんの中に小さな仁美さんが見えます」と、呟いた。

 舞子は手拭きタオルで指を拭るとスポンジに挟まれたマロンの欠片をフォークの先に引っ掛け皿へ落とした。舞子はうまい具合にそれをフォークへ載せゆっくり左右に揺らしてこう言った。


「うまく載ったわ。でも角度を変えると隙間から落ちそうですね」

 舞子は、「クスッ」と、笑い、目の高さに上げ恰も鑑定するように凝視した。

「仁美さん。差し支えなかったら少し彼氏の話をしていただけませんか?」

 

 あれよあれよと心を見透かされた物言いだ。ところで舞子は心理カウンセラーだっけ? 仁美は唖然とした。それにしても隣席は酷く盛り上がる。

「ほんと。どうしようもないわ。これは神頼みするしかないわね。おっほほほほほ……」おば様方の弾んだ笑い声が響いた。

「神様か」仁美はボソッと呟きふっくらしたイチゴをフォークですくい皿の上でサクッと半分に切った。そして種の方から刺し、切り口に生クリームをつけた。

「舞子って人の心の有り様を察するのね」仁美の顔色が少し曇った。


「あれは社会人1年目。私は日曜の朝にランニングを始めたの。コースの途中に公園があってさ。綺麗に咲く花に引かれ中へ入った」

 仁美はイチゴをパクリと食べると、「これ、甘いわ」って、幸せそうに頬へ手を当てた。


「なるほどね。何となく見えて来た」舞子は再び額へ手を当て微笑んだ。

「つまり公園で彼氏と出会ったわけですね」舞子はマロンの欠片を口に入れた。

「まあ。そういうこと。最初は彼に気付かなかったの。でも決まった時間に走るとほぼ同じ場所ですれ違い顔も覚えちゃって……。そのうち挨拶するようになったわ」

 仁美は残りのイチゴにもクリームをつけ美味しそうに食べた。

「で、『これは運命に違いない』って、思ったんだけどね」

「まさにワクワクする恋の話ですね」

 舞子はマロンケーキを平らげるとアイスティーをゆっくり飲んだ。


「不思議ね。一度そう思うと逢う度にドキドキしちゃってさ」

「よくある話です」

「舞子。ちょっと素っ気ないわよ」

「ああっ! チョコレートケーキ。ほろ苦くて美味しいです」

 コロッと表情の変わる舞子に仁美はまた噴き出した。


「仁美さん。公園を走って単にすれ違った人ですよね? なぜ意識が生まれるのでしょう」

「そこよね。それがなかったらデートに誘われてなかったし、出掛けなかったわ」

 仁美もマロンケーキにフォークを入れ口元でブランデーの香りに気付いた。

「程よい香りね。ほんの少し入れるだけでまろやかさが出る。同じケーキだけど違うわ」

 仁美は香りを感じつつケーキを味わったが、なぜだろう。あの時の自分に似ていると、微かに脳裏を過った。

 舞子はフォークを置くと水をゴクリと飲んだ。


「仁美さん。もしかしてブランデーの香りをさせて走りましたか?」

「そんなわけないでしょ? アルコールの臭いがしたら嫌われるわ」

 舞子は「クスッ」と、笑った。

「意識ですよ。綺麗になろうと努力しませんでしたか? 例えばメイクとか衣服とか……」

「そう言えばしてたわ。気付いてもらうように頑張っていた」

「ですよね」二人は、「クスクスッ」と、笑った。

「なんだか舞子に過去を紐解かれている気がしてきた」

 仁美はチョコレートケーキを一口食べて、「確かにほろ苦いけれど美味しいわ」と、微笑みながら呟いた。

 

「ちなみに仁美さん。付き合って10年もの月日が経ちますがどうして結婚しないのですか? 私は不思議に思います」

「痛いとこ、つかれちゃった」仁美はフォークを置いた。口の中でほろ苦いケーキに随分と苦みが増した。

「同棲して9年経つの。いろいろあって別れようと思ったことも、あるの」

 舞子は小刻みに頷きいよいよイチゴを口にした。

「それで何があったんですか?」

「彼の借金よ。FXで大損したの」

 当時いざこざが絶えなかったか、仁美は哀しみを含んだ眼差しで舞子を見つめた。


「投資して儲けになればいいの。ところが損する方が多かった。だから私は何度となく、『もうやめよう!」って忠告したわ。でも彼は現実を見ようとせず一瞬降ってくる僅かな快楽を味わうと、さも驚異的な才能の持ち主のようになって私に冷たい視線を向けた。彼はFXの虜になった。損をすれば酷く躍起になっていた。それでどうなったか。とうとう大金を失った、ってわけ。ああ、こんなはずの恋じゃなかった。戻れるものなら過去を消してやり直したいわ!」

 

「アホじゃないの!?」何ていいタイミングか! そう言ったのは隣のおば様方の偶然の会話なのだけれど、仁美は絶句だった。舞子はまた額に手を当てた。


「仁美さんもしかして返済に協力しているとか?」

 仁美は静かに頷いた。

「ですよね。この件で大喧嘩しませんでしたか? すでにこの時、恋に亀裂が入っていたと薄々気付きませんでしたか?」

 仁美の目は皿のようになり、「なんで分かるの?」と、言わんばかりだ。そんな態度に驚かず舞子はアイスティーを飲むと仁美の胸の辺りを指差して淡々と言った。


「好きになった人だからって無理やり彼に拘束している仁美さんがいます」

「私が彼に拘束している?」仁美は目を瞬いた。

「はい。そうです」

 仁美は、「はーっ」と、長いため息をつき認めたくない昨今を振り返った。

「そうよね。借金返済で以前のような初々しい恋仲に戻るならば、って思った。分かっていたけれどやっぱり浅はかな考えだった。と言うより何か見えない力に、『お前はそれをするのだ!』って、命令され酷く抑えられていた……」

 仁美はアイスコーヒーを一気に飲み干した。


「最初はどこへでも彼と一緒に行動していたの。手を繋いでよく歩きどんな話題も心が躍った。それに何気に緊張していたわ。でも気付いたら互いに言い合うようになり心もバラバラになっちゃった」

 舞子は仁美を見ながら静かに頷いた。

「本当の仁美さんはもう、恋が終わっていると気付いています。同棲しているものの今は心が全然動いていませんから。ただいるだけの関係です。そのうえ行動の源はそこであり全て左右されていますから、先ずは心を動かすことですよ」

 

 舞子はストロベリーケーキを黙々と食べ、ストローでアイスティーをかき混ぜると少しだけ口にした。

「あら。氷が解けて色も味も薄くなりました」舞子は一気に飲み干した。一方で仁美は窓へ視線を向け、「そうね。色も味も薄くなりました、よね……」涼し気な木々を瞳に映し漠然と呟いた。


「そうよっ!?」不意に何か掴み掛けたか、仁美はハッとして舞子を見つめた。

「何をそんなに怯えていたのだろう。そいつに思い切りパンチしたくなった。恋だの愛だのそれが何よ! 人生めちゃくちゃ損した気分だわ。それにどうして失った恋にしがみつこうとしていたか……。私は大バカ者よね!」

 仁美は、「クスクスッ」と、笑った。


「ねえ。舞子。これから私はどうしたらいいの?」

「それはですね。別れるのが最もいい案と言えます」

「いつ……?」

「時はありません。今です」

「えっ?」


「なに躊躇してるのよ。すぐ実行するのよ。それがあなたの成功でしょ!」

 偶然とは言え、まるで仁美の生き方を知っているようにおば様方は流暢りゅうちょうな会話をした。それに煩わしかった声も決して満更でもなかった。なぜなら仁美は空のケーキ皿を舞子は仁美を眺め、今を見つめたその変化に、「ケラケラッ」て、笑っていたから。


「あーあっ。お皿が見事に空になっちゃった。さて次はどうしよう」

 仁美は少し首を傾げ呟いた。


「ところで仁美さん。趣味の手芸が滞っていましたね」

「どうして分かるの?」

「ええ。私には分かるのです」

 舞子は不意におば様方へ視線を向け、「クスクスッ」と、笑えば、急に真顔になって、

「別れとともにせき止めた心が解放し才能を開花していきます。どうか勇気をもって仁美さんらしく生きて下さい。全てにおいて流れが変わります」と、囁いた。

「そうか……。私、もう決めたわ。今までの自分とさよならする!」

 

 それから一週間後。

 仁美は遂に実行した。「今までありがとう。部屋の鍵はドアのポストの中です」そうメモに残し思い出とともにアパートを後にした。言うまでもなく行き先は告げてない。

 

 仁美の恋は妖精のように軽く華やかに訪れ暫くの間はそれに包まれていた。ただそれは常に同じではなく月日とともに色褪せ、欠けたりひびが入って変化した。そればかりかいつの日か魔物が訪れたように心を蝕ばまれた。しかしながらそれはそれであった。それも人生であろう。ただ「恋」に、彼女の場合は「終わった恋」だったのだけれど、執着するのが人生そのものじゃないとやっと気付いた。いや、舞子がそれに気付かせてくれた。その選択も悪くなかった。

 

 引っ越した仁美は孤島で生活するように寂しかった。しかしながら彼女の才能はどんどん伸び、やがて世を渡った。更に良きパートナーに巡り合った。


 「恋」それがなによ! 仁美は笑った。たった一つのメールが拘束していた仁美の人生を、するりと紐解き新たな道へ繋いだことに心から感謝した。

 ところで笹木舞子。あなたは一体何者か……


「えっ? 私は凡人ですよ。宜しかったら一緒にお茶しませんか?」

  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「恋」 それがなによ!? 菊田 禮 @kurimusontaiga-4018

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ