第2話 彼の選択 2


今日はまた一段と忙しかった。

時計を見ると、いつの間にかもう19時を回ったところだった。


決算も終わり、社内も少し落ち着いてはいるものの、歓迎会や送別会に追われ、部下達も新入社員の指導で右往左往している。

この時期は仕方がないとも言っていられないので、自分も少し、作業に手を貸していたところだった。


一息ついて身支度を整えていると、恰幅のよい男性が後ろから近づいてきた。


「新井君、お疲れ様。」


名前を呼ばれ、返事をした。


「ああ、部長、今日もお疲れ様でした。」


営業部の川島部長。紺のスーツにいつもの赤いネクタイを締めている。この人の部下として配置され丸2年になるが、未だ赤以外のネクタイを見たことがない。赤は闘争本能を呼び覚ます色だと豪語し、本人曰く新入社員時代から赤以外を締めたことがないのだとか。


浅黒く日焼けした顔から真っ白な歯が見える。今でこそ顎の肉がダブつくほどに太ってはいるが、肩周りの肉付きを見ると、スポーツをやっていた人だと一目でわかる。

上背があり、見る人が見れば威圧感を感じるが、寛大で理解があり、頭のきれる上司だった。


「すまないね、君のとこには中堅と入れ替わりで新入社員が2人も入ってしまった。教育にも手を焼くだろう?」


川島部長は、バンッと私の背中を叩き、大げさな口調で言う。まるで演劇に参加させられているように感じる。私は別に嫌とは思わない。


「いえ、彼らも頑張ってくれてますよ。若い子達がくると活気もでますしね。真面目だし、そこまで負担にもなりませんよ。」


そう言うと、川島部長は嬉しそうに頬を緩めた。


「そうか。君がそう言ってくれると嬉しいよ。きっと彼らも優秀になるだろう。君は部下の教育に熱心でいてくれるからね。ところでだ、新井君。」


大げさにゴホンと咳払いをする。


「なんでしょう。」


「プライベートまで悪いんだが、今度の土曜日の午前中は開いてるかな。これなんだが。」


川島部長は、「これ」といって、素振りのジェスチャーをやって見せた。


「土曜日ですか。えっと。」

念のため手帳を確認する。特段なにも予定がないことを確認して、大丈夫ですよ。と返事をした。


「それで、ゴルフですよね。どこのコースですか?」


「快諾をありがとう。ゴルフではないよ、今のはアウトローを振ったのさ。草野球だよ。」


ぎょっとする。たぶん眉をしかめていただろう。


「野球、ですか。」


表情が曇ったことに自分で気づき、口角を上げてみるが、間違いなく苦笑いになっていたことだろう。

川島部長はそんなことにはお構いなしに、また白い歯を見せてニカッと笑って見せた。


「そう、野球だよ。部下から聞いたよ。昔やってたそうじゃないか。ポジションはどこを?」


私は顔の前で手を横に振ってみせた。


「守備はしがない外野手ですよ。それにもう10年以上前ですし、体も動きませんよ。」


冗談めかして、そう言ったが、川島部長は引かない。


「私も昔は高校球児だったよ。君が10年なら私は30年以上前だな。大丈夫。同じくらいの年齢が集まってやる、お遊びみたいなものだ。外野なら打球もほとんど来やしないよ。」


「はあ。」


サラリーマンは辛い。川島部長は断ったところで、扱いを悪くするような上司ではないとは理解しているが、サラリーマンとしての性分が、首を縦にふらせた。


「ありがとう。ユニフォームと道具は、会社のソフトボール大会に使った備品があるから、当日は手ぶらで来てもらっていいよ。得意先との気楽な親善試合だが、せっかくだから勝ちたくてね。この老兵も自ら立ち上がったうえで、経験者の君にお願いをしたんだよ。」


「わかりました。でも期待はしないでくださいよ。もう私もゴルフスイングしかできないんですから。」


また冗談めかして言ってみるが、顔が引きつる。

それから川島部長は私に当日の日程を言い渡して、帰っていった。


「よりによって野球か。」


右肩がキシキシと鳴った気がした。

お前はもう頑張らなくていいさ、ネジが二、三本抜け落ちちゃってるんだから。なにも語らないはずの右肩に、そう念じて帰り支度を再開した。


今思えば、これは人生の枝が分岐する原因となる、小さな事件だった。


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父のキャッチャーミット かすけ @Kasuke

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