第2話 彼の選択
「おはよう大輔さん、朝だよ。」
眩しい。緑がカーテンを開けた。
朝の日差しが、まるで降ってくるように瞼に刺さる。
「おはよう。もう朝か。孝輔は大丈夫なの?普通に寝て、普通に起きた?」
昨日の、小さな事件を思い出す。
「大丈夫。あの子は怪我も大したことないよ。相手の子も、少し擦り傷を作っただけだったし。」
「元気がありあまってるんだろうね。学校もいくんでしょ?」
私は体を起こして目をこすった。目の隈に重みを感じた。この季節は歓迎会と送別会の連続で、随分と体をいじめてしまう。
「学校もいくよ。相手の親御さんともお話できて、一応は円満解決だから。あとは本人同士がなんともなければ。」
緑はため息をついて続けた。
「やんちゃなくらいがいいかなって思ってたけど、誰に似たのかしら。大輔さんも喧嘩なんてしたことないでしょ?」
「俺だって小学生のときなんかは、少しくらい喧嘩もしたさ。」
緑にそう言ってみたが、彼女は肩をすくめた。
「そうね。孝輔もそのうちあなたみたいに穏やかになればいいけど。さあ、朝ごはんにしましょうか。」
緑が階段を降りていく。
私も体を捻って、目を覚ます。バキバキと骨がなる音がする。景気良く思えるほどに。
だが、やはり右肩だけはギシギシと、軋んだ。まるで体という機械の、この一部だけは長年油がさされず、錆びついているかのようだ。
重たい体を引きずるように一階へ降りると、木製のテーブルに向かって、孝輔と緑が既に座っていた。
一昨年に少しだけ無理をしてローンを組んだこの一軒家は、緑の手入れが行き届いている。未だ階段の手すりや、廊下のフローリングも、室内の電灯を反射させ光沢を纏っている。
「おはよう、孝輔。」
「うん。」
席に着き、孝輔はパンを頬張りながら、目も合わせずに返事をした。
緑に似た、パッチリとした二重の瞳。将来はきっと男前になってくれると期待をさせる強い力が、彼の瞳にはある。
しかし今日、彼の細い眉が眉間にしわを寄せているのは、私に似ただけではないのだろう。
「朝、勇輝くんにあったら、ちゃんとおはようを言えよ。」
私もパンを一枚手に取りながら、孝輔に言った。
「うん、言ってきます。」
緑に似て小さな体に生まれたからか、ひときわ大きく見えるランドセルをからい、小走りに出ていった。
緑は玄関まで小走りでついていき、送り出した。
戻ってくると、よいしょと呟いて、食卓に腰を下ろした。
「元気がありあまってるんだろうね。喧嘩なんかして。チビって、バカにされたんだって。身長が小さいのは、私に似ちゃったからね。」
緑が頭をかいて、困った笑顔を見せた。口元には少しだけしわが出てきたが、それでも彼女の笑顔は10代の純真さを残している。
私は、湯気が立つコーヒーカップを手に取る。
「そのうち身長も伸びるさ。小学二年生じゃ、まだわからないよ。」
「スポーツもしたいって言い出す頃だから、早く伸びるといいけど。」
私はその言葉をきき、口角をあげた。少しだけ苦笑いが浮かんだのが、自分でもわかった。
「たまに私から言うのよ。なにかスポーツしないのって。」
緑はスポーツが好きだ。若い頃はよく2人でプロ野球を観にも行った。
緑が続ける。
「友達に誘われてるけど、どうしよっかなって悩んでた。本人はなんでもいいんだって。自分のことに無頓着なのは、大輔さんに似たんでしょうね。」
緑は笑顔を浮かべて皮肉を言うと、コーヒーカップを手に取る。
「別に無頓着なわけではないさ。」
無頓着なわけではない。今は家族が出来た。自分以外に守りたいもの、優先したいことが増えただけだ。
学生の頃だとかは、自らのエゴに身を任せて過ごしていた。と、自分では思っている。特にグラウンドの中では。
ふと窓の外を見た。今日も随分といい天気だ。こんな日にスーツを着てネクタイをするのはもったいない。そう思わせるほどに。
どこからか風にのって、桜の花びらが一枚、二枚と、視界を横切る。
出会いと別れの季節は、私にとっては別れの方が増え、寂しいことの方が多くなったが、孝輔にとってはどうだろう。
彼にはまだたくさんの出会いが待っている。人生はその人本人の選択で、木の枝のように無限に分岐する。彼がどんな選択をし、どんな人と出会っていくのか。
自分の人生など比べ物にならないほど、彼の人生に興味をもっている。
人生の分岐。あの時、こうしていたら。そんなことは山ほどある。果たして私の人生の枝は、少なくとも天を目掛けて伸びていてくれているのだろうか。
花の咲く枝を選べているのだろうか。
枝に着いていた小さな蕾の記憶を探る。白球だけを追う、がむしゃらな毎日の中で、ようやく目の前に、ほんの少しだけ、霞んで見えた小さな小さな蕾を。
雨なのか、嵐なのかで儚くもちぎれ、
地面に放り出された小さな蕾を。
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