死様譚

欅和緑

第1殺 哀れな男

 高田芳典は哀れな男だった。

 彼は最期、後悔に包まれていたのだろうか。もしくはそうではなかったか。

 それは彼のみが知るところであり、もはや誰も判らない。彼は死んだのだ。

 ――悪様が殺した。


 目つきの悪い中年の女が、暗い紅の塗られた口をねちゃりと開閉し、およそ人にものを頼むには程遠い口調で、目の前の陰気臭い人物に唾を飛ばしている。

「だから、殺して欲しい奴がいるの、ねえ、あんた日本語判る? あんた人様殺してご飯食べてるんでしょう? いいじゃない」

 ほとんど怒声だが、言われている対象である陰気な人物は顔色一つ変えず、無言を貫いている。

 その態度が余計に女の癇に障り、女は舌打ちをわざと大きく打ってみせる。

「苛つく奴ね。金がいるの? 人殺しのくせに。あの男はね、私の夫を殺したのよ。あんたが仇を討ってよ。今も私の家にいるはずよ。ねえ、私の子供もまだ取り残されてるの、お願いよ」

 話す次第に、女は子を置いてきてしまったことを酷く後悔しているのか、覇気が失われていく。遂には膝を地面につき、その場に頽れた。

「悪様とか偉そうに呼ばれて、実際なんにもしてくれやしないじゃない」

 女は悪様と呼ばれるらしい人物を前に、落胆と侮蔑の色を隠そうともしない。

 未だ無反応の悪様に、女は腕を伸ばし、手を悪様の眼前に構え、中指を立てた。

「言葉が通じないんなら、これ、判る? とりあえずあんたも嫌い。――あんたが仇を討ってくれないのなら、私でやるわ」

 そう言うと、女はよろよろと頼りなく立ち上がり、悪様の横を過ぎようとする。

 女は覇気と共に生気も抜けてしまったように、目が虚ろである。これでは恐らく、復讐しに戻ったところで、返り討ちにあうだけであろう。

 それでも歩を進めることが出来るのは、彼女の湛える殺意が本物である証明であろうか。


 ――その殺意、私が貰う。殺意とは、是、私のことである。


 女の耳にそんな言葉が聞こえた。

 それは何かの呪詛のように、どす黒い悪意を秘めた声にも聞こえたし、聖者が神に捧げる祈りのようにも聞こえた。

 どちらにせよ、その声の主は悪様に他ならない。

 女は振り返って悪様の方を向く。悪様もこちらを見、両者の視線が合った。

 悪様の顔には表情がないが、女は今の悪様の言葉が、自分の夫の仇を討ってくれる契約の合言葉なのだと確信した。

「……あの男は私の家にまだいるわ。私が逃げる時、お前が戻ってくるまで待っているって言っていたの」

 悪様は何も答えなかったが、女は幾分生気を取り戻し、「こっちよ」と先導を切った。


 女の言う通り、男は女の夫の死体の横であぐらをかいて待っていた。

 男はドアを開いた女の方を向き、顔を破顔させて何かを言いかけたが、すぐに女の背後の悪様に目がいき、訝しむように眉間に皺を寄せた。

「誰だ」

 男はその場に立って、臨戦の態勢になる。その手にはナイフが握られており、その刃は血で濡れている。

 すると、意外にも女が男の姿を見て騒ぎ始めた。

「あ、あんたこそ誰よ。何でさっきの奴と違うのがナイフ持っていんのよ!」

 女は理解不能と、ヒステリックに甲高い声を挙げる。

「ちょっと、ねえ、こいつ、さっき私の夫を殺した奴とは違うの、きっと仲間よ。こいつも殺して!」

 悪様を怒鳴りつけるが如く、そう叫び、女は悪様の背後に隠れる。

 すると今度はナイフを持った男が声を荒げた。

「おい! あんな奴と仲間だとか言ってんじゃねえ! 俺はあんたの味方だ。信じてくれ。あんたの夫を殺した奴なら、さっき、俺が殺した。本当だ。あ、あんたの子供の部屋にいたから――」

 男はどたどたと物を蹴散らしながら、女の夫の死体を越えて、別の部屋の戸を開けた。そちらに目を遣ると、子供用のベッドがまず見えた。次に、そのベッドへ辿り着こうとして出来なかったかのように、成人男性が手を伸ばして倒れているのが見えた。その背中にはナイフで刺された痕があり、それを中心として、花が咲いたかのように血が滲んでいる。

 「ショウちゃん」

 悪様の隣で女が声を漏らした。

 女のそんな姿を見て、ナイフを持った男は、

「違うんだ……、なあ」

 と狼狽えている。

 女の視線はベッドの上に注がれている。

 ベッドには五歳くらいの男児が気持ちよさそうな羽毛布団の中で眠っていた。

 その顔は実に安らかで、どんな夢を見ているのだろうか、と親でなくとも見守っていたいものだった。

 幼躯が布団を膨らませていて、その胸の辺りに、花の柄があった。

 すぐ横で倒れている男の背中のものと同じく、真っ赤な花である。

 女は言葉を失って、震えているばかりで、ナイフを持った男は依然、よく判らぬ弁明を続けている。

 もはや禄に動けるのは悪様のみで、悪様は自然な足取りで、男に近づいていく。

 男は悪様の放つ、只ならぬ殺意を感じたのだろう、ひぃ、と声にならぬ声を漏らして、ばたばたと何度も転げながら子供部屋から逃げ出した。

 悪様は這々の体の男の背中に向かって言葉を投げた。

「お前は逃げ切れない」

 構わず男は逃げる。

 一瞬、女の横を通る時に歩を止めたが、すぐに逡巡を振り払うよう走り出した。廊下を犬のように四つ足で走り抜け、ドアに頭からぶつかって飛び出していった。

 家の中はしんと静まり、凄惨な現場だけが残された。

 女は放心状態にある。ただ、男が走り去る際、女とすれ違った時に呟いた言葉が彼女の頭の中で反響し続けていた。

 がちゃり、とドアが閉められた音がした。

 悪様がどうやら家から出て、男を追ったのだと判った。

 目の前には死体が三つある。

 女には目の前の惨状がどうしようもなく他人事のように見える。しかし、すぐにどうしようもなく自分がこの惨状を生み出したのだと判り、震えが止まらない。

 ――さっきの男は、本当に知らない男だったのか。私の味方だと言っていたのは本当なのだろうか。

 女は男の呟きを反芻するように、口にしてみる。男はこう言ったのだ。

「やっと会えた。よかった」

 その言葉は女の頭にある可能性をよぎらせた。だが同時に、男の行動がよく判らなくもなった。

 女は男の姿を思い出そうとする。正直、顔はもうあまり覚えていない。服装もどうだったか、曖昧である。しかし、ある一点だけが目に焼き付いて離れない。

 ――俺はあんたの味方だ。

 ならばどうして彼のナイフには、ショウちゃんの羽毛布団の羽がくっついていたのだろう。


 男は女の家の近くの藪山に潜んでいた。

「待て、待てって! お前、悪様とかいう殺人鬼だろ! 俺を殺すな、俺はあの人を守ったんだって――」

 男は悪様に踏まれがら必死に言葉を紡ぐ。

 悪様の手には脇差しのような小刀が握られており、切っ先は男の首を捉えている。

 悪様はいつでも男を殺すことが出来るが、どうやら言葉に耳を傾けている。

 男は悪様のそんな意図を感じ取ったのか、ここぞと云うように、滔々と語り始めた。

「こ、子供部屋の死体は、俺がやった、間違いない。あ、あの男は人殺しなんだ。俺が家に入ったら、ソファに堂々と座ってやがったんだ。……俺は、あの人の為に、そして俺自身の為に、仇を討ったんだ」

 悪様の目がそっと細まる。

 静かに聞いていた悪様だったが、そこで一つ言葉を吐いた。

「……殺したのはお前の父親だろう」

 男の目が悪様とは対照的に大きく開かれる。

 何故お前が知っているのだという驚愕が見て取れる。

「ど、どこで聞いた」

 悪様は答えない。視線だけで男に続きを話すよう促す。

 男は舌打ちをして、続ける。

「……確かに、あの男は俺の父親だったが、あくまでも育ての親だ。俺だって本当は殺したくなんてなかったんだ! それでも、それでも反射だった。俺は、衝動的に父親を殺してしまったのは、この血がそうさせたと思っている」

 男は悪様の顔を伺う。

 悪様の表情には微塵の変化もない。男は悪様が全て知っているのだと悟った。

「あんた、親父と知り合いだったのか?」

 ここで云う親父とは、育ての親の方だろう。子供部屋で息絶えていた、あの男だ。

「まただんまりかよ。――あのさ、話が判ってんなら、俺が殺してしまったのも理解してくれるよな? 俺は親父に感謝していたよ。今でもしてる。だけど、――なあこれも言わなきゃ駄目なのかよ」

 男の首元で刀身が僅かに、より皮膚に切り込みやすい角度に変えられる。

 男は大きく唾を嚥下し、判ったよ、と言った。

「――親父は生真面目なところがあったから、今朝、俺にこう言った。お前は私の本当の子供ではない、と。まあ、俺はそれは確信に近い予感があったから、驚かなかったんだが、その次の言葉には驚いたんだ。なんて言ったと思う? 親父は、今からお前の本当の両親をどうにかしてくる、と言ったんだ。その鬼気迫る親父の顔に、これはただでは済まない何かをする気だと判った。別に育てられてなかったとはいえ、本当の両親が危ないかも知れないと思ったら、急に親父をどうにかしなきゃと思った」

 その時は全く殺すつもりはなかったけど、と男は目を伏せた。

 悪様は呼吸音さえ立てない。

「親父は予め俺に睡眠薬を盛っていたんだろう、その時俺は強烈な眠気にやられて、記憶が無い。起きた頃には親父はいなかった。時計を見ると四時間半経ってやがる。するとその親父から電話がかかってきた。今から言う場所へ来なさいってな。着いてみると男が既に死んでいた。俺は瞬時にそれが本当の父親だと判った。そして親父からもこれがお前の父だと言われた。――それから、母も同じようにする、と言われた。俺はそれを聞いた瞬間、親父を殺してしまう予感があった。親父はソファから立ち上がり、横の部屋の戸を開けた――」

 この時の男の顔はひどく恐ろしい形相であった。

「そして親父はこう言った。――この子はお前の弟だ、と。……俺はさあ、本当にそんなつもりはなかったんだ。なかったのに、なんだか、無性に本当の親に育てられたその子供が憎く思ってしまった。身体の中心で何かどろりとした熱いものが生まれた気がして、はっとした時には、親父からナイフを奪い取って、親父も、子供も刺しちまってた」

 男の目から色が失われた。

 男の自白は、男自身の戒めであったのかも知れない。男は自らしたことを今、言葉にして理解したのだ。

 彩りのなくなった目から涙が流れる。俺はなんてことをしたんだ、と男は呟いた。

 堰を切ったように男は嗚咽した。後悔の涙だった。

 一頻り泣いて、くしゃくしゃになった顔で、男は悪様に嘆願した。

「――あの人に、俺が血のつながった息子だと伝えて欲しい」

 悪様はそれにも何も答えず、ただこう言った。

「これはお前の母から頼まれた殺しである」

 悪様は淀みない動きで刀先を男の首に沈めた。



「やあ、見事に殺してくれたね」

 悪様が振り返ると高田豊がドアから入ってくるところだった。

「確実なのは君に頼むことだと思ったから、済まないね」

 高田は完爾として悪様にねぎらいの言葉を掛けるが、足元に転がった男の死体に対しては、明らかな敵意を滲ませて睨めつけた。

「酷い親だ。かつて芳典を保護した時に、どうにか一件落着したかと思えば、また子を作って、同じことを繰り返していたとは」

 高田はそう言って、子供部屋で眠る童子を布団の上から撫でる。

「この羽毛布団だけがこの子に優しいのさ。――この布団の下にはそれはおぞましい程の痣があったよ」

 高田の頬は既に濡れている。高田は童子を見ているようで、遠い昔を見ていた。かつて、たまたま通りかかった家の庭に放り出されていた子供の姿だ。最初は遊んでいるのかと思ったものだ。しかし、どうにも不自然な挙動だった。まるで右足を庇うように身体を引きずり、両腕には力が入っていないように見えた。

 合点がいき、気づいた時には高田は子供を腕に抱いて走っていた。

 暫くしても子供の両親は捜索の素振りを見せなかった。彼らにとってこの子供は排したい存在であったのだ。

 その子供は芳典と名付けられ、高田の元ですくすくと育っていった。

 高田の目下で眠るこの子は保護した当時の芳典よりは大きい。

「私はこの子も引き取ろうと思う。芳典もきっと歓迎してくれるはずさ」

 悪様は何も答えない。

 そのまま、この家には用済みだと言わんばかりに、悪様は男の死体には目もくれず玄関へ向かう。

 その背中へ、高田は言葉を掛けた。

「――ありがとう。私はここに残るよ。この男の妻の方にも話をつけないといけないから。それに、芳典にもここの場所を伝えているんだ。全てを話して、改めてあいつには人生を歩んで欲しいからね。大いなる巣立ちさ」

 悪様は振り返りもしないでドアを閉めて出て行った。

 残された高田はにべもない悪様に苦笑して、ソファに座った。

 目の前には確かに芳典に似ている男が転がっている。

 高田は鼻をふんと鳴らし、独りごちた。

「――芳典、私は血は繋がっていなくても、お前の本当の親だと信じているよ」


                                   了



 

 

 

 

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