さよなら、大宇宙

木嶋 邑楽

第1話

 宇宙に一番近い! 屋上の搭屋の上、大の字になって空を見上げてとある男子生徒はほくそ笑んだ。全校生徒六百二十四人、教員を含めて六百七十二人。今、その中で最も宇宙に近い男である。物理的に、というのが悲しい話ではあるが。

 男子生徒は知っている。宇宙に最も近い男の存在を。月本ソラ。同級生の彼は、成績優秀、授業態度もよし、教師また周りの生徒からの評価も厚い。将来有望を絵にかいたような彼の夢は宇宙飛行士。小学生からの夢だという。

 成績も容姿も平々凡々、普通を極めた男子生徒。加えて宇宙への興味は薄い。だから、男子生徒はこう自分を卑下するのだ。

「宇宙、遠いなー」

 図鑑や教科書、テレビで見る宇宙は闇。それなのに、空はさわやかにどこまでも澄んで、鮮やかに青くあまりに遠い。空は伸ばした手を拒絶するようにあまりに強く、呑み込まれてしまうような存在だった。だから、いつだってその名を持ったあいつにはかなわないのだ。と、男子生徒は言い訳する。


「あー! 屋上久々ー!!」

 びくり。突如空いたドアと大きな声に肩を跳ねさせる。少々、オーバーな反応であったかもしれない。高校で培ったものと言えば、この臆病さくらいだろう。


「騒ぐなよ。神田来るぞ」

 神田、生徒指導の強面な教師だ。痩せ型な癖に、その細身からは想像できないほどの怒鳴り声を見せる。本来ならば、立入禁止の屋上にいるのだから見つかったら大目玉では済まされないはずだ。騒がしいヤツらが来た。男子生徒は溜息をつく。自分も巻き添えをくらっては溜まったものじゃない。

 男子生徒は塔屋のへりに半ばしがみつくようにして下を覗き込んだ。よく見知った顔が五つ。クラスメイトだ。ひゅっと喉が鳴った。運よく声こそ出なかったものの、尻餅をついてコンクリートに臀部をしたたかに打ち付ける。その微かな、けれど確かな物音に屋上に集った彼らは気づいたようだった。

「誰かいるんじゃね」

 つま先から一気に駆け上がってくるような焦燥に、妙な汗が吹き出して一刻も早くそこから逃げ出したくなった。口に手をあてがって荒くなる呼吸を必死に抑える。


「……いるわけないだろ」


 五人のうちの一人が、男子生徒のもとへと続く梯子に手をかけようとする一人を制したようだった。安堵のあまり、ほとんど泣きそうになりながら男子生徒は息を整えた。救われた。けれど男子生徒はその声に憎しみを覚えるばかりで、感謝の心など微塵も湧いてこなかった。

__今、こうして屋上の搭屋以外の居場所がないのはお前のせいじゃないか。

小さなことにいちいち怯えていなければならないのも、嫌なことに抗う勇気がないのも、全部。全部、全部、全部。



 駄弁る彼らの馬鹿みたいにうるさい笑い声が耳に入った。楽しそうだ。世界はあまりに残酷で理不尽だ。男子生徒はおもむろに立ち上がる。きっかけがあったわけじゃない。けれど、いつもは足を引っ張る男子生徒の臆病さが今日に限っては不思議と背中を押す。

 男子生徒は駆けた。搭屋のヘリを蹴って、彼らと同じ目線に落ちる。足に鈍く、ずしりと重い痛みが走った。それでも、男子生徒は止まらない。

 驚きに目を見張る五人。フェンスに軽く背を預ける彼に男子生徒の手が伸びた。先のことなんて、考える気さえ起きない。ラリアットを食らわせてやる。男子生徒の視線の端で、その走りを止めにかかろうとする手が、空を切る。男子生徒はバイバイ、そう言って手を振り返した気になった。彼が体を打ち付けたフェンスが激しい音を立てる。

「注意!!」

 年中あるフェンスの張り紙はもうぼろぼろだ。ラミネートの中にしみた雨水でインクのクロマトグラフィーが起きている。このフェンスは修理が行われないまま何年経っているのだろう。そんなフェンスに男子高生二人の体重を支える力などあるはずもなく情けない崩壊の音をたてて、二人を空中に取り落とす。

__宇宙に一番近いあいつと、一番遠い俺。

でも今は違う。俺たち二人とも、きっと宇宙から一番遠い。


二度の不快な衝撃音。赤が男子生徒の視界を呑み込んだ。


 さよなら、偉大なる大宇宙。




 意識の先には異世界があった。

 様々な青の絵の具をまき散らしたような不自然な空。迫る得体のしれない何か。男子生徒は悟る。今いるこの場所が自分のよく知る日本ではないと。

「……っ」

 ずるり。奇妙な生物は這いずりながら男子生徒のもとへと向かってくる。形容するならばクッションサイズのわらび餅だろうか。地味な色のぽよぽよした物体だ。近づくことの真意は窺えない。だが、敵意がないとも限らないだろう。そして、おそらく。否、確実に向けられているのは善意でない。逃げなければ。動きが鈍いのがせめてもの救いか。男子生徒は踵を返して走り出した。が、その足を何かがくじく。

 派手に転んだ男子生徒はつい舌打ちしつつ、自分をつまずかせたそれの正体を確認する。それを視界に捕らえるや否や、男子生徒はその相貌をこれ以上無いくらいに歪ませた。

 月本だ。男子生徒がラリアットをくらわせ、屋上から自分ごと突き落として殺したはずの男が地面に横たわっていた。ちゃんと死んでるか、確認のためその傍らに座り込み、恐る恐る触れてみる。動かない。けれど、生きているもの独特の温かさと柔らかさが男子生徒の手を押し返した。気を失っているだけらしい。


 ずるり。男子生徒はハッとして顔を上げた。彼の生死に気を取られている暇など無かったのに。一歩踏み込んで突き放した距離は、すっかり詰められてしまった。座り込んだまま後退るが、横たわる背中に阻まれる。

 そのとき、微かに鳴った物音が男子生徒の耳に入った。酷く聞き慣れた軽快な音。あまりに小さなその音は極度の緊張状態になければきっと気づかなかったものであろう。先端だけ小さく顔を出すそれは愛用のシャーペンだ。いちかばちか、男子生徒はワイシャツの胸ポケットのそれを掴んで、迫るわらび餅に投げつけた。

「ぎぴぃ」

 わらび餅らしからぬ鳴き声だった。決定的な攻撃にこそならなかったが、十分に怯ませられたようだ。ありがとう、シャーペン。男子生徒は再び逃げ出す。……逃げ出そうとした。しかし、どうにもその足が思うように動かない。

__なぜ、逃げる気が起きない? 逃げねば、危険なのに。


 男子生徒は足元のそれを見下ろす。憎くて憎くてたまらず、道連れにして殺したはずの相手だ。ここに置き去りにすれば彼は間違いなく死ぬだろう。けれど、男子生徒の中にある思いが燃え上がり始めていた。ここでこいつを他の者に壊させてはいけない。今ここで他でもない男子生徒自身が殺すことが本懐ではないのだろうか。

 こいつの死は俺の勇気の道しるべ。そして、新たに手に入れた自由の証。誰かに奪われるわけにはいかない。

 心を決めて、再び進撃をはじめたわらび餅に向き直った。殴ろうと拳を構えるも、男子生徒は動きを止める。素手で戦うのは危険だという考えのもとだ。しかたなく辺りを見回して武器を探した。"ひのきのぼう"くらい落ちていればいいのだが。

 ……ない。棒きれの一本も、落ちてはいない。終わった。詰んだ。八方塞がりになって一歩後退るもやはりその憎い背中に阻まれる。そのときだった。キン、と軽い金属音。ぶつかった月本の腰に光る、革のベルトだった。

 あまりに心もとない気がするが、素手で戦うよりましだ。 横たわる彼の腰からそれをずるずる抜き取り、両手で構える。

「うわあああっ」

 威嚇のつもりで奇声をあげて、ベルトをぶん回す。そのとき幸か不幸か、奇声をあげたせいか、わらび餅は男子生徒の顔目がけて跳躍した。

「ひえっ」

 驚きはしたが、びびってはいられない。当たれ! きつく目を閉じてそう念じながら手元のベルトを今度はめちゃくちゃに振り回した。

水音が響いた。水面を叩くような小気味のよい音だ。そろりとその瞼を開く。危機は去った。わらび餅型の魔物はベルトによる一撃で破裂して地面に散らばったようだ。溜息をついて呆けていると、地面を濡らす魔物の体液は発光を始めていた。復活イベントなんてよしてくれ。男子生徒はその顔を怯えに染めて顛末を見守る。


「なんだ……?」

 ぽんっ。ゲームのサウンドエフェクトのような人工的な音が辺りに弾けた。現れたのは木箱。木目が目立たずつるつるとした加工が施されている。そっと触れば、それは蓋との二つに分かれた。

「っ……!」

 声にならない声がのどをついたのは、頭の中に何かが流れ込むような感覚に襲われたから。それは日本語のようで英語のようで、名前も知らないような国の見たことのない言語のような、何かしらの文字だった。

「三つの中から選べ?……か」

 男子生徒の目には文字がなぜだかそう読めた。三つ、とは箱の中身の球形の何かについて言っているのだと男子生徒は察する。それらはその形を柔らかく波立たせながら手を伸ばされることを心待ちにしているように見えた。

 取らないことには始まらない。それにひどく気を引かれた男子生徒はまず一番右の赤色のそれに触れてみる。その途端、先程のように頭に文字が流れ込んできた。

「権利」

 なんの? 男子生徒が心中で疑問をつぶやくも、その問いかけに答えるものはなかった。もやもやとした気持ちを抱えつつも、男子生徒は次の球体に触れる。三つのうちの真ん中、青い玉だ。

「力」

 ちから。力。チカラ。口の中で何度もその言葉を繰り返してみた。いいね。ゲームみたいで楽しそうだ。男子生徒は少しだけ笑って見せた。最後だ。一番左の黄色の玉。

「問」

 もん? とい? 最後に関しては意味がわからない。せっかく苦労して敵を倒した報酬を無駄にするわけにはいかない。男子生徒は安牌をとるべく、「力」を選択した。力の青い玉は手に取ると、その手のひらに吸い込まれるように跡形もなく消えた。その瞬間、残った二つの玉は箱の底板に融けてしまった。が、その代わりのように、新しい何かが箱の中に顕現する。それは何枚かの古びた紙切れだった。男子生徒は色褪せてしまったそれらをそっと手に取ってみる。羊皮紙だ。その上に踊る線は細く、ところどころ霞んではいるものの、文字はなく絵だけであるため理解は容易だった。

 剣と鎌、それにこの楕円はパン……だろうか? 引換券か何かだろうか。交換所でもあるのか、と男子生徒は首をかしげる。


 そのとき、

「ん……」

 魔物の唸り声よりずっと恐ろしい目覚めの声。瞬間、男子生徒は素早く振り返って彼を見下ろす。勢いよく回した首は小さく音を立てて僅かな痛みと熱をもたらした。けれど、構うものか。固い決意が男子生徒の体を満たして、全身の神経に殺せ殺せと囁いている。今度こそ、月本を殺す。

 そんな願いをくみ取ったように手の中の紙切れのうちの一つが、剣に形を変えた。あまりの重さに取り落としそうになる。一介の男子高生が持つものじゃない。銀色に光を反射させながら、それを横たわる彼の真上まで持ち上げる。筋肉が重みに耐えれず、悲鳴を上げて震えている。もう少し辛抱してくれ。やっと、終わらせられる。そして、ここで終えてやる。

「あ……」

 悪魔が目を開けた。

「ぽ」

 ぽ。言いかけてやめたようだが、男子生徒はその先に次ぐ音を知っている。え、と喉から声とも取れぬ何かがあふれてすぐさま消えた。なんで振り下ろせない。なんで殺せない。剣はひどく重くて勢いだけで彼を裂くことなどすぐなのに。大きく剣を掲げた両手がゆっくりと降下する。筋肉が言うことを聞かない。

「あ、あああ、ああ」

 男子生徒は落ちる。膝から崩れ落ちるように地面に座り込んだ。剣はそのまま男子生徒と一緒に降下して激しい金属を立て土の上に転がった。その瞬間、何を傷つけることもないまま、元の羊皮紙に代わってしまった。

 みなぎっていた全身の力は蜘蛛の子を散らすように皆逃げだして、そこに残るのは顔を両手で覆ってうめく男子生徒一人。たった一音。されどその一音は男子生徒の決心をくじくには最良にして最も簡単な手であった。 

 

「ごめん」

 琴線に触れる一言だと気づいたのだろう。顔を逸らして月本は呟いた。

 嗚呼、その言葉をもっと早くくれていたなら、何もかも穏やかに、何もかも始まらないで、終わっていたはずなんだ。

 今更、遅いんだ。ゆっくりと横たえていた体を起こして彼は言った。

「ごめん、ごめんなさい。……ほんと、ごめん」

 月本に悪意はない。そして、べつに男子生徒は月本がそれを言ってしまっても怒りはしない。ただ、それは男子生徒を示す記号で、彼にとっては名前を呼ぼうとしているのに変わりないのだから。

その単語を声にしないよう、口をつぐんでは幾度となく唇を噛んで謝罪する。繰り返されるごめんの声は、男子生徒に自身がどうしようもなく果てしなく自分が弱者であることを自覚させる。

 男子生徒の唇が緩やかに弧を描く。自嘲的に、泣きそうに微笑む。殺せない、そう自覚して自分の情けなさを呪いながら嗤う。



「ポチでいいよ。名前、覚えてないんだろ」


図星らしかった。彼は小さく息を吸いこんた後、うなだれて頭を垂れた。

「ごめん」

 嗚呼、気分は最悪だ。謝るその声色が、その言葉が、本物だから。お前が本当の悪者だったならどんなによかっただろう。それならば、恨み切ることができたのに。


「謝ってんじゃねえよ……!!どんなに謝られたって俺は、死んでもお前を許さない」


「わかってる。わかってるんだ。でも、ごめん。殺したいほど憎かったんだよな……」


 そう言って彼が落とした肩は震えていた。膝をついて座る彼の制服のズボンに雫が落ちるのを男子生徒は確かに見た。途端、男子生徒は息を詰まらせる。這い上がってきた感情の名を男子生徒はあえて知らぬ振りをした。だが、体は言うことを聞かず、その思いを顕にしようとする。

「……つ……」

男子生徒は慌ててその口を塞いだ。それを言ってはならない。それは、自分を熱くさせたあの決意が無意味であったことの証明になってしまうのだから。

さっきまでの激しい怒りはどこへやら。それは驚くほど一気に冷めてしまって男子生徒はふうと溜息をもらす。

「……もう、いいよ。月本。とりあえず、休むところでも探しに行こう」

男子生徒は地べたに足をついて座り込む彼に手を差し伸べた。涙で濡れた顔が上げられる。彼は二度三度躊躇った末、ようやくその手を掴んで立ち上がった。

「あ」

そう発したのはどちらが先だっただろう。彼のベルトの入っていない制服のズボンが、立ち上がった拍子にするると落ちた。彼は恥ずかしさに小さく声を出して笑う。

「ふっ」

男子生徒もつい笑った。

こんなふうに笑うこと。あのとき飛び降りていなかったら来なかった未来。もし、彼と仲良くできていたならあったかもしれない今この空気。それらに思いを馳せて。


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さよなら、大宇宙 木嶋 邑楽 @zuzuikio

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