空耳

「そこじゃないよ」

 思ったより大きな劇場に安堵あんどして隅っこにコソコソ座ろうとしたのだが、先輩は僕の背を押して前の方へ向かった。下手側の前から五列目、角度によっては舞台からよく見える位置だ。

「もっと後ろでも……」

「招待席は割り当てられてんだよね。大手さんは真ん中の良い席」

 先輩は中央の座席を指差す。何席かまとめて囲いがしてあった。

「劇団美季って知ってる?」

 日本で一番有名な商業劇団の名前を知らない、というのは不自然な気がする。僕は曖昧にうなずいた。

「そこの古参団員で峠紫乃って女優がいたんだけど、退団後に若手を育てたいって演劇塾を立ち上げたんだ。全国巡ってワークショップとかもやってて、地方で頑張ってる劇団に東京遠征を持ちかけたらしいよ。趣旨に賛同する関係者も多かったんで、この演劇祭が実現したって話」

 パンフレットを見ると見覚えのある女優の写真が表紙にあり、それが峠紫乃だということを僕は知っていた。

「そのなかで彼女が見い出したのが青山泉って子」

「……へえ」

 僕はパンフレットを読むふりをして目を伏せた。

「手元に呼び寄せて育てるんじゃないかって噂。だから、どんな子か見てみたかったんだよね」

 先輩に聞くまで、僕は地元のあの町に市民劇団があることすら知らなかった。紹介文によると立ち上げから三年目らしい。主宰の名前には見覚えがあった。よく差し入れや指導に来てくれていたOBの大先輩に違いない。演者のなかにも演劇部で一緒だった仲間の名前があった。

 アオがそんなところで高名な女優の目に留まるほどの活躍をしていただなんて――心がざわついて今すぐ席を立って逃げたくなる。それでも僕は根が生えたように動くことが出来なかった。

 参加劇団の熱のこもった演目が続いたが、ちっとも頭に入って来なくて、やがてアオたちの出番になった。

 招待席の空気が微妙に変わったのを感じ、なぜか緊張を覚える。みんな、青山泉がどんな芝居をするか知りたがっている。好意的な興味ばかりではなく、鵜の目鷹の目で見てやろうという者も少なくないはずだ。

 客席が暗くなり緞帳どんちょうがゆるゆると上がっていくのを、僕は汗ばむ手を握りしめて眺めた。

 舞台セットは立方体の箱のようなものが不規則に置かれているだけのシンプルなものだった。ライトが中央の箱に当たると、細身の女性が背を向けて座っていた。

 一目見てすぐアオだとわかった。高校時代より痩せた気がするが、僕が彼女を見間違えるはずがない。


「記憶の旅を終えよう」


 第一声を聞いた瞬間、僕は頭が真っ白になり思わず立ち上がっていた。

「どうした?」

 先輩に声をかけられて我に返ると、怪訝そうに僕を見る周囲の視線に気付いた。慌てて座り直して先輩にび、舞台に目を戻す。

 そこではもうアオを中心とした劇が始まっていた。見たことのない演目で、今のセリフはなんだったのかと自分の耳を疑った。

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