第16話 海と心を開いて

「海開きだ」


 僕は神崎の部屋の玄関を開け、彼の、正しくは彼の両親の経済的豊かさを示す、大きなテーブルの上に6本入りの冷えた缶ビールを勢いよく置くやいなや、そう言った。


 暦は既に夏に入っていた。

 現代人が6月を春夏秋冬のうちどの季節として捉えるかは各々の価値観に任せるが、僕は神崎の部屋の季節外れの涼しさに戸惑っていた。ふと学務の毒吐きボスゴリラが頭に浮かぶ。


「なんでこんな涼しいんだ」


「このおデブちゃんが熱いっつって冷房を入れたんだよ」

 王子谷はテヅカに向かって指をさす。王子谷は薄手の毛布を被り、神崎は長袖のスウェットを被っていた。寒くもない部屋で暖房を入れろと無言でアピールする女子大学生のようだ。神崎の性格的に部屋着のまま他人を招き入れることはないはずなので、きっと寒さに慌てて重ね着をしたのだろう。


「人間には最低限文化的な生活を送る権利がある。今はそれを行使してるだけだ」

 テヅカはTシャツ1枚だが、至って快適そうな様子だ。腹の皮が厚いとなれば面の皮も厚い。この男に頭以外薄い場所はあるだろうか。


「最低限文化的なら、温度27℃くらいでも文句ないな」

 部屋のうす寒さにうんざりした僕はエアコンのリモコンに手を伸ばすが、光の速さでテヅカの腕が伸び、掠め取られる。テヅカは特に座ったまま動かないので無理やり剥がし取ろうとするが、異常なまでの腕力により諦めざるを得なかった。


「誰かの幸せは誰かの不幸せだ」

 見かねた神崎から薄手の毛布を受け取ると僕はそう吐いた。


「別に幸せじゃないね。当然のことだよ」

 テヅカはそう言うと指をポキポキと鳴らす。いっそ氷水でもかけてやろうか。

 今世界に現存している全てのアイスバケツチャレンジをこいつに集結させて終止符を打ってやりたい。ねずみ講的に広まっていったはずのアイスバケツチャレンジだが、僕の元には未だに何の音沙汰もないのは何故だろうか。




「ところで、海開きってのは?」

 海開きという言葉とはまるで疎遠な姿の王子谷が聞く。


「そのまんまの意味だ。今度、5人で海に行こう」

 それに答えるのもまた、海開きからは遠くかけ離れた姿の僕だ。


「海ねえ…」


「海ですか…」

 テヅカと神崎は悩ましげな表情だ。


 それは僕にも分からないでもない。

 海にはクラゲがいるし、ビーチにはガラの悪い人間も大勢いるだろう。しかし、失った青春を取り戻すためには、僕らは海に行かなければならない。そんな義務感に駆り立てられていた。いつまでも苦手意識を持っていてはならないのだ。


「泳ぐだけならプールでいいだろう」


「この辺にレジャーに行けるようなプールなんてねえよ。市民プールならあるけど、泳ぐためだけの場所だから、あそこ」


 王子谷は車を持っているだけあってか、この辺の地理に詳しい。


「まあ、まだ6月だし、そこまで人はいないと思うけど」

 


この辺りで人が泳げる場所というのは、かなり限られる。


 地形的に切り立った崖のような、海面が数m下にあるような場所が多く、その上、海流の都合で波も荒れやすい。毎年、他の土地から来たサーファーが流されて命を落とすニュースを見る。そのため、ほとんどの場所が遊泳禁止に指定されている。

 そういった事情もあって、この辺りで唯一の海水浴場はシーズンになると地域の海水浴客が集中するため、すし詰め状態になる。

 海開きして間もない6月であれば、暇を持て余した大学生かよっぽどの海好き以外はいないだろうという事で、シーズンとはとても言えないかもしれないけれど、あえてこの時期に海に行こうと思ったのだ。


 僕は海のない県で育ったわけではないが、人生の中で海に入ったことは一度も無かった。小さい頃に家族で海に行ったことは何度かだけあったが、当時の僕が海の中に他の生物がうじゃうじゃいるという事実を知り、これ以上ないほどに気持ち悪く感じていたからだ。

 同じような理由で、小さい頃は裸足で外を歩くことが出来なかった。あの頃の僕は、裸足で外に出たが最後、地中に潜む様々な微生物や虫に体を蝕まれてしまうと考えていたからだ。

 大学生となった今ではそんな恐怖感は半ば消え去ったが、完全に僕の中から無くなったのかと言われると、自信がない。でも、理想郷探検隊の仲間と一緒に行ければ、そんな苦手意識も克服できるかもしれないと思った。あと、鈴木さんの水着姿が見たかった。


「でもなあ」

 テヅカが深刻そうな表情を浮かべる。


「水着姿を見せられる体じゃないんだよな」

お前は好きにしろ。泳げないのかもしれないと一瞬でも考えた自分が馬鹿らしくなった。

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理想郷探検隊 @ankokuyami

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