さよならの時まできみには秘密

 繋がれていた掌を伝って、流れ込んできたものがある。


 どこかの空き教室で、皆木が椅子に腰掛けている。

 すこし先のことなのか、制服の生地が厚い。皆木のスカート丈が短く、靴下が長くなっていた。律儀に毎週持ち帰って洗っているのだろう、清潔そうな上履きを脱がした爪先に額をすりつけて、許しを請いながら傷痕の残る膚に歯を立てる獣の背中が浮かび上がった。


 かと思えば、制服を身につけた、今よりも幼い顔立ちの先生が、同じ年頃の少年と肩を寄せ合って笑う姿がひらめく。先生が自分たち同じ制服を着ていたことに驚く間もなく、次々にそれは切り替わる。


 光は、饒舌に浩文をもてなした。


 教科書やフィクションの中でしか見られない時代の出来事から年頃の少女が見るものとしては酷なものまで、ひとつ現れては連なり、ひとつ流れては消えてゆく。


 ちはやがはじめて屠ったのは、懐いていた乳母だった。

 捕食者に食い尽くされた人の行く末は、〈異形持ち〉によって様々だが、ちはやの乳母は目に見えぬ何かに圧縮されたように吹き飛んでいなくなった。血しぶきも肉片も残さないそれは、空気に溶けてしまったように見えた。


 自分もああなるのだろうかという感慨が湧く前に、記憶は切り替わる。


 ちはやが血をわけた兄にいじめられていたことも、父親に命じられるままに陰惨な事件の犯人を捜したことも、数年先のことから、世界が一度滅んでしまう時のことまで見つめていたらしいことも、すべて一瞬のうちに目の前を通り過ぎてゆく。


 その螺旋の果てに、浩文はちいさなちいさな箱を見つけた。

 浩文が思い浮かべる抽斗によく似た意匠の、白い箱だ。箱の四隅は虹色にきらめく金具で補強され、中央に、ちいさな箱に見合わぬ大きな鍵穴がついている。


 浩文が膨大な記憶を丁寧に整理して保管しているのに対し、それはたった一つきりだった。

 他にも隠れているかもしれなかったのに、何故だか浩文には、それ一つしかないのだろうことが分かった。この他に増やすことなど考えられていない、たった一つのものなのだと。


 浩文の意識は、箱を手に取った。

 はじめから鍵などかかっていなかったのか、箱は浩文の手の中でとくりと震え、ふわりと開いた。



 ――懐かしい、夏のにおいがした。



 幾つも電車を乗り継いで、深く目隠しをされて車で運ばれた。

 そんな遠出ははじめてだった。

 怖くないか、と大きな掌で手を握ってくれていた父が囁くのに首を振る。


 ――いいえ、父さん。

 ――そうか、浩文は強いな。


 そう声を歪ませた父は、しばしの沈黙の後、いつになく口早に喋った。

 幼い浩文は困惑しながらも、つたなく話の継ぎ穂を探した。


 ――父さんも、目隠しをされているのですか。

 ――そうだね、どうやら私も、まだ信に足る人間ではないらしいから。


 ことばをぽつぽつと落としながら運ばれていった先で目隠しを取られたのは、夏においが溢れんばかりに充ちる草原についてからのことだった。


 ――いいかい。怖かったら、やめてもいいんだよ。


 浩文は驚いた。皮肉なことに、父が浩文に対して、このように分かりやすいかたちで優しさを振る舞ったのは、その時がはじめてのことだった。

 幼い彼には、その優しさが憐れみから発されたものだと、時間に教えられずとも理解していた。

 平生は父の指さすほうにしか顔を向けないほど従順な母が声を荒げ、平生は母にだけ幾分か甘い父がそれでも許さないでいたのを覗き見ていたから、幼い子供の感情で左右されることではないと弁えていた。

 もう二度と日常に帰ることはないのだという落ち着きが、幼いからだを満たしていた。


 ぎゅ、と手を強く握られて、夏の、清々しいほどに明るい陽射しに照らされた父を振り仰ぐ。


 ――もう、いらしている。


 頭上から降る音に滲んだひそかな脅えと、畏怖にも似た気持ちを抱いてしまうことへの苛立ちとが混じった苦さが、浩文の視線を誘う。風が強くふきつけて、夏草の青さがつんと薫った。

 はじめは草の波にぽつりと落ちていたそれが、ゆっくりと大きさを増し、やがて真っ黒な影から麦わら帽子をかぶった少女の輪郭を備えていくのを、親子は黙って見ていた。幼いからだを伝い降りる汗と、風が揺らす緑だけが生きているようで、世界は静けさに濡れていた。

 永遠にも思われる沈黙を踏み分けて、さくりさくと軽快な音が近づいてきて、止まった。

 麦わら帽子がくすんと揺れて、大きな暗がりに潜んだくちびるが露わになる。

 ごきげんよう、発せられた声の始まりは、一人でいることに慣れているようにあえかな音だった。

 す、と宙を撫ぜた指先が、麦わら帽子のつばを摘まんで引き下ろし、また跳ね上げる。


「きっと、初めましてね? だってお目にかかったことないもの。あなたがわたしの、ご馳走なのね」


 乾いた父の手が強ばるのを知っていたように、ことばは紡がれた。

 幼い彼女の声はくちびるに乗せられた瞬間の、澄み渡った響きのまま耳に届いて流れてゆく。

 ねえ、暑いわ。ひとりごちる声でさえ、父と浩文を静かに圧していた。

 知らず、膚が脅えた。


「わたし、太陽とはちっとも仲良くなれやしないの」


 すべるように近づいたからだに、反射的に震えた父の手が離れたのを、遠くで感じていた。麦わら帽子のつばがぱっと上がって、ちいさな風が浩文の前髪を弾く。


 夏らしい白いワンピースの裾をゆらめかせ、二つに結んだ長い髪を涼しげな首筋にひと筋ふた筋はりつけて、少女はうっすらと笑った。

 麦わら帽子の影に潜んだ顔には、意志の強さを窺わせる眉、長い睫毛に通った鼻すじ、花びらの色を透かした頬に薄いくちびる――そういったものが、人ならざる者の繊細な指先で配置されたごとくにぴったりと収まっていた。


 そして、どこか痛々しいまでに整然としたかんばせの中、その目だけが、常人のものではなかった。

 やんわりと瞬いた瞼の下、夏のきらめく陽射しを受けて真っ白に輝くふたつの鏡――瞳のかわりに眼窩に嵌まった宝石に覗き込まれて、幼い少年は光に刺し貫かれる。

 鮮やかに瞼を射るかたちのない矢はあっという声すらも奪って奪って、溢れんばかりに充ち拡がる。


 白い光りの下、まろび出た少女の笑い声がやさしく鳴り響いた。




 ……それは、浩文がちはやの被食者としてはじめて引き合わされた日の記憶だった。


 手にした箱が溶け落ちる感触に、浩文は押し殺していた息をゆっくりと吐き出す。

 ゆるやかな安堵が胸を温めたが、それも高いところから降り注ぐ声に揺らいだ。


 ――懐かしいでしょう。まだちからもそう強くなかったけれど、浩文が気絶しちゃって……それからすぐ、あなたはコンタクトをつけるようになったんだったわね。


 涙がちな声が、微かに笑って囁いた。


 ――わたし、この記憶がすごくすき。何度も、何度も繰り返して見たの、知らないでしょう。……あのね、浩文が見るわたしが一番綺麗なの。ねえ、知ってた? 


 吐息が零れて、声が震える。だめなの、どうしてもだめなの、お腹がすいて、たまらない。疑似餌なんかじゃ、もう、到底間に合わせられないの。

 声は、今よりも少し大人びた響きをしていた。


「いいよ、食べなよ。苦しいだろ」


 そう返してやる声も、同じように子供らしい棘が取れていた。

 恥ずかしいくらい、やさしい音だった。


 ――でも。


 ほんの少しおとなに近づいたちはやが、泣いている。

 いいよと、ほんの少しおとなになった浩文が重ねる。

 声は、穏やかに笑っていた。今の浩文にはないものだ。


「俺はずっと、この日がくるのを知ってたよ」


 浩文は悟った。

 これは、ほんの少し先に――どのくらい先かはわからないが、そう遠くはない先にやってくる、「その日」のことなのだ。


 不思議と、脅えはなかった。

 そうかと思っただけだ。


「おいで、ちはや」


 泣きじゃくるのちはやを、の浩文が宥めている。

 いやだと言いつのりながらも抗えないでいる捕食者を促すのは、被食者ときまっている。

 ごめんなさいと繰り返す声に抑えきれない快さが滲んでいくのを、いつかの浩文がからかっている。もつれ合うようにして混じり合う笑い声は、やさしい温かさをしていた。


「もう拭ってやれないんだから、あんまり泣くな」


 ――うん


 浩文は、ふと、視線を感じて振り返る。

 知らない顔をしたちはやが、そこにいた。


 のちはやよりもうんと歳を重ねているだろう、紛れもないおとなのちはやだった。


 不思議な安堵が、浩文の胸に拡がった。

 ちはやは、生きたのだ。浩文がいなくなった後も、ずっと。


「抗えなかったことを、よく思い出すわ。あの時の灼けるようなこころも、ちょっといじわるだった、あなたのことも」

 浩文は、すこしだけ笑んだ。今の彼には、そのくらいが相応しい笑みだった。

「でも、俺が一番おいしかっただろう?」

 おとなのちはやが、ちいさく吹き出して頷く。

「ええ、もちろん。当然だわ」

「ならいいよ」

 浩文は、意識がふわりと浮き上がっていくのを感じた。

「あなた、三日も寝てたのよ。お寝坊さん」

「これに懲りたら、へんなものは食べないように。俺がいる間は、疑似餌なんていらないだろ」

 言いながらも、浩文には分かっていた。

 ちはやは、これからも浩文を少しでも生かそうとして疑似餌を食べるだろう。

 これまでにも、浩文の知らないところで摘まんでいたのかもしれなかった。

 おとなのちはやが、すべてを見透かして微笑んだ。

「そうね。ちはやは、あなたしか欲しくなかったの。あなただけしか、大切じゃなかったの」

 じゃあね、おとなのちはやが手を振る。

 もう、そのまばゆい瞳は泣いていない。

 それならきっといいのだろうと、浩文は思った。


 の浩文とのちはやの記憶が、目覚めようとしている今の浩文の後ろ髪を引く。

 だが、今の浩文は振り返らなかった。

 起きたら、一段と深いところに一つ、抽斗を作らなければいけない。

 知ってしまったことを隠すのだ。

 いつか来るその日まで、けっして見つからないように。


 そして少し、ほんの少しだけ、ちはやを甘やかそうと思った。

 そして、そうして……。


「さよなら、ちはや。俺の捕食者」


 ――さよなら、浩文。わたしの、わたしの……



 眠りから醒める最後の瞬間に、やがてくるいつかのふたりが交わすやさしい別れの声が、微かに届いた。






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さよならわたしの白い目見 七木香枝 @nanakikae

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