きみがほしいものすべて

 保健室の引き戸を叩くように開くと、安物のパイプ椅子に腰掛けた先生がひらひらと片手を振る。


「ひろふみ」


 幼げな音に引き寄せられて、視線を巡らせる。

 部屋の中央、十重二十重に白い布で作られた衝立で囲われた空間に、細い管を幾筋も纏わせたからだがぽつんと佇んでいる。

 行き所を失ったちからが内側に留まりきらず、膚の上に滲み出しているのだろう。瞳だけでなく全身が淡くきらめいて、朝に編んでやった髪がほどけてふわふわと波打ち、昨夜寝る前にアイロンをかけた制服のスカートがはためいている。

 むきだしになった細い手首と足首に、白い枷が嵌められていた。浩文が検診でつけるものとは違う、〈異形持ち〉を拘束するためのものだ。

 室内で悠然としているのは先生だけで、助手たちは壁に張りつくようにして警戒している――と思っているのだ。ばかばかしい。


「ちょっと目に余ったんでね」

 浩文の視線を追った先生が低く笑う。青ざめたちはやの頬に、輝く瞳から涙がぱたぱた落ちた。

。手当たり次第に疑似餌を食べて、中毒を起こしてる」


 ……捕食者ちはやは、いつもいつも、自分だけが苦しそうな顔をする。


 胸にぽつんと滲んだ苛立ちが鋭く尖り、喉から外へとほとばしりそうになる。奥歯を深く合わせ、一度だけ、ゆっくりと噛みしめる。

 浩文は捕食者のもとへと足を踏み出した。縋るような心細さに充ちていた顔が、一歩距離が縮まるごとに期待を浮かべてゆくのに、いびつな苦さが胸を舐める。

 白い枷を繋ぐ鎖がしゃらしゃらと立てる可愛げな音が耳障りだった。


 ちはやは、どんどん幼子のようになる。

 どんどん、人ならざるものへと化してゆく。

 この頃、ちはやの髪は先へなればなるほどすべらかなぬめりを帯びて、彼女の意思通りに動くだけでなく、針のように尖るようになった。髪と同じように溢れたちからが滲んだ爪が七色に色づいて波打つように光るので、毎日マニキュアを厚く塗り重ねて隠してやらねばならなかった。


「ねえ、怒ってる?」


 そして瞳は、どんどん光りを帯びて瞬くようになった。

 もはや正視するのが恐ろしくもあるそれを、あえて間近に覗き込んでやる。浩文だけがそうしてやれるからだ。


 こつり、額が合わさった。


「なぜ?」

「あなたが怒っていたり悲しんでいる程、おいしそうに見える」

「……へえ」

 先生が肩を震わせる気配がした。

 腹立たしくてならないのは、彼女に一番おいしく食べられる餌でありたいと、実はどうしようもなく自分こそが願っていることだ。


 ちはやだけが、純粋に浩文を欲しがる。

 それは捕食者としての本能であるのに、ただの浩文という人間が必要なのだと言われているように、錯覚してしまう。


 ちはやだけが、浩文のこころをかきたてて惨めにする。


「疑似餌はおいしかった?」

 傷ついた顔をするちはやを、浩文は憎んだ。


「……ちはやなんて、嫌いだ」


 まるで告白みたいなことを言わせる、ちはやが嫌いだ。


 ちはやの足下に跪き、両の掌に触れる。

 その瞬間、ちり、と膚を光りが刺激し、目眩がしたたかに浩文を殴る。

 頭の中をかき混ぜる乱暴な痛みが、きらきらと燐光を振りまきながら様々にひらめいて、浩文に切り取られた切片を覗かせる。


 それは、知らない記憶だった。

 律儀にタイとリボンのない生徒を選んだ歯を立てたのだろう。ちはやが食べた記憶が次々に現れては消えてゆく。浩文が見知ったクラスメイトや、知らない生徒たちの記憶だ。小テストでいい点を取ったささやかな喜びや、淡い恋心の甘酸っぱさがない交ぜになって伝わってくる――その中に、生家の命ずるままに覗き見たのだろう景色が、ちらほら混じる。


 あまりに膨大で長い時間が、ちはやのちいさなからだに渦巻いていた。


 こんなことははじめてだったから、浩文は戸惑った。

 ゆるりと首を振って意識を整える。

 二重に揺らいでいた視界が、ややあって、今そこに立っているちはやのみを映し出す。

 振り仰いだちはやは、食事の予感に瞬いていた。きらきらした瞳が、はやくとねだっている。浩文が彼女の内側を覗いたことには気づいていない。気づかないままでいい。あんなに分け与えてほしいと願っていたのに、何故だかとても強い気持ちが浩文を突き動かした。


 ……最後に胸の奥深く、真新しい抽斗に鍵を幾つもつけて沈めた。


 浩文は、軽くちはやの手を引いてやる。

 倒れ込んできたからだを抱きしめて、目を閉じた。なんだ、と思った。

 やっぱり、目で見た視界には、こころが滲んでしまっているらしい。とっくにこの気持ちもばれているのだと思うと、ばかばかしくなってしまった。


「ねえ、食べていい?」


 答えなんて聞く気もないくせに。


「……どうぞ召し上がれ、ちはや」


 すでにちはやの光りは瞼の隙間から浩文の内側へと射し込んで、喜色を浮かべて走り回っていた。

 光りは概念の及ばない速さでくまなく浩文のすべてを照らし出そうとし、深く深く潜っていく。


 おいしい、すてき、おいしい。

 嬉しそうなちはやの声が、しんしんと響いている。


 ――ねえお願い。もっと、ほしい。


 捕食者は、いつも勝手ばかりでずるくて、けっして自分が悪いとは思わない。

 自分の欲しいものを満足するだけ欲しがって、奪い取ってゆく。

 でも彼らは、とてもとても純粋に笑う。

 被食者たちが忘れてゆく清らかさで、そっと、世界にはとても大切なものばかりで充ちているみたいに、笑うのだ。

 時田の朗らかな笑みを見ると和んだし、ちはやの機嫌がいいと、それだけで幸せだった。


 ああもうここで死ぬのかもなと、ふと思った。

 浩文は、胸の内でゆっくりと唱える。



 ――ちはや、きみのことがとても嫌いで、とてもすきだと。



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