きみは知らなくてもいいはずのこと
チャイムが鳴り、うんと伸びをする。
歴史の授業はすきだった。知識と知識が結びついて、広がるような感覚がするから。
一息ついて、ちはやが友人と連れ立って食堂にでかけたのを見送る。
自分もいくかと腰をあげたとき、水田と視線が合う。
近づいて、昨日の礼を言った。
「そうだ。昨日はショコラタルト、ありがと」
水田は肩をぶつけるように身体を寄せて、にやっと笑う。
「お前検診から帰ってこないんだもん、せっかく約束したとおり、昼一で買って来たのにさあ」
「え、」
「ん?」
「あ、……ああ、そっか。うん、ごめん」
「こっちが借りた礼だぜ?」
――約束ってなんだっけ。
そう言おうとしてやめたことを、水田は知らない。
ああなんだ、そうか、またか。
浩文は、笑った。よくあることだ。
きっと、昨日自分は水田にノートやプリントを貸したりして、その礼としてショコラタルトを望んだのだろう。それだけだ。
(きっと、昨日図書室で食われたんだ)
ちはやの食事には、明確な規則性はない。
ただ、ちはやが気になったり、知りたいと思ったことから食べられるらしいということはなんとなく分かっている。学んだ授業の内容は、余程腹が空かないかぎり手つかずであることが多く、反対に、ちはや以外の誰かとなんでもない約束や会話をしたときなどは決まって記憶ごと食われた。
それを嫉妬と一口にまとめるには乱暴すぎたし、それを嬉しいと感じるには、人の心は複雑に出来すぎている。
水田と別れて、理科室へ足を向けた。
きっといるだろうと覗いたそこで、時田が行儀悪く椅子の上に足を上げ、もぐもぐとパンを食べていた。
案の定というべきか、今日の時田はいたく肌つやがよかった。
鉱石めいた硬さの歯も、いつになく尖って見える。制服とスニーカーに隠れた脚は獣のそれなので、さぞかし毛づやもよくなっていることだろう。
昼休憩になると、ときどき浩文と時田は人気のない理科室へ集まる。
何とはなしに、何かあるとそうやって待ち合わせるのが二人の暗黙の了解で、約束めいた儀式だった。
「疑似餌の申請、ちゃんと事前にしたのか皆木が心配してたけど」
浩文はカツサンドを頬張る。黒い机の上に積み上がっているパンの中から、勝手に取ったものだった。
時田は異形がもたらす空腹を誤魔化そうとしてか、よく食べる。
反対に、浩文はその中から二つほど失敬すれば事足りた。月日を重ねるごとに食欲は薄れていき、今では捕食された後にだけ、渇いた空腹感を覚えるようになってしまった。
「したした。でもたぶん、もう今月はストップ。先月食い過ぎたからさぁ……やべえな、我慢しなきゃ。おれの食事ってほんとに食事だから」
時田は獣めいた強靱なからだを持つ、戦闘能力に秀でた〈異形持ち〉だ。
〈異形持ち〉の中では珍しく、必ず同種のちからが受け継がれることがはっきりしている系統だった。時田家の異形は、生まれつき人に対する強い感情を食欲として認識するため、幼い頃は被食者候補の子供達と引き合わされては誰が好ましいかを訊かれていたという。
文字通り人を食べることがちからになる異形は、浩文が知る限りでは、時田くらいのものだった。大方はもっと間接的なもので、被食者の寿命は食べられる頻度や深度によって異なる。ちはやの異能も、後者にあたる。
「やべえよ。最近もう、腹が減って減ってしょうがないんだ。青い春まじやばい。有紀が女神に見えてくるもんほんとに。うまそうでうまそうで、たまんなくなる」
清々しいまでに次々と封を切られては咀嚼され、呑み込まれていくパンを見ながら、浩文は訊ねた。
「お前のそれってさ、皆木と寝たら落ち着かないの」
「わお。すごいこときくね、浩文」
「素朴な疑問。だってそれなら、疑似餌いらないだろ」
「あー、まあ……食べる前に疑似餌と試してみたこともある。まあ、それなりに食事にはがっつかなかったかも。事実、食欲は若干落ち着くんだよな。
でも、高校出るまではできるなら自分の被食者とは我慢したほうがいいって親父に言われた。早ければ早いほど、全部食べちまう可能性が高いんだってさ。長く一緒にいたいなら我慢しろって。親父はかなり頑張ってるほうなんだって。お袋、まだ足が残ってるもん。一人めだぜ、すごくね?
……叔父さんは、五人目がもうひとりじゃ歩けない」
「ふうん」
「まあ、有紀は有紀で、親からそろそろヤれって言われてんのね。早く子供をって。ほら、おれの家から生まれるの異形持ちだし、有紀ん家は昔っからうちに仕えてるとこだし……。だから時々誘惑してくる」
「誘いに乗ってみればいいのに」
「だってさー、好きな女の子が、自分が死ぬかもしれないってわかってて、あ、なんか興奮するあまり食べちゃうこともあるらしくて。ぎこちなーくすりっとしてきてさ、しましょう、って上目遣いで見てくんの。で、父から早くそういう関係になれと言いつかっています、とか言うわけ。震えながら。
ずるくね? おれそこで食べちゃだめじゃん、やっぱ。ああ畜生、据え膳食いてえ、でもだめだ。有紀だけは食べちゃだめだ。有紀には五体満足でいてほしいし、いなきゃだめだ。……だめなんだよ」
掌に顔を埋め、静かに息を吐き出す時田の横顔が、震えている。
空気を噛みしめるように一度開き、閉じた口の隙間に、鋭い犬歯が覗いて消える。うっすらと黒みを帯びた光りを纏う歯を隠して、唇が強く、頑なに合わされた。
この頃、時田はよくそうして泣くようになった。
「……捕食者は勝手だ」
捕食者も大変だなと言ってやれたらいいのにと、頭では分かっていた。
でも、こころが許さなかった。
被食者が己の運命を諭されるように、捕食者もまた説かれるという。
できうる限り被食者を愛せと。
優しさや慈しみとまで贅沢は言わないが、それがせめて憐れみからしたたる教えであればよかったのにと、浩文は思わずにはいられない。実情は、食餌となる被食者が献身的であればあるほど捕食者は充たされ、捕食者が被食者を大切にすればするほどちからが増すのだという統計に基づき、〝大人〟たちにとって都合のいい〈異形持ち〉となるように指導されているに過ぎない。
そういう点で、互いに執心し合う時田と皆木は、理想的な関係なのかもしれなかった。
時田はともすれば重たい程に皆木を好きなように見えたし、皆木は時田に身を捧げてもいいと思っているようだった。
「浩文は、食べられたいとか、そういうのないの」
「進んで食べられたいと思ったことはないね」
「有紀はさ、食べてほしいってせがむんだ。心底そう思ってるみたいに」
「……そうだろうね」
浩文はやるせなく相槌を打った。
いつだったか、それまで舐めたり甘噛みすることで堪えていたという時田が、ついにきちんと噛んだのだと包帯を巻いた足首を示して嬉しげに言われたことがあったのを思い出したので。
――みて、都筑! ついに、ついにあの子、歯を立てたの!
それからしばらくの間、時田の目が暗く沈んでいたことも、浩文は覚えている。
「……あいつをふつうの女の子にしてやりたいのに、一番それを許さないのは、おれなんだ」
思春期は、至極穏当に捕食者を苛む。
青い熱は、彼らの人間的な側面を鮮やかに浮かび上がらせる。
だのに、その身の内で暴れる欲求は人のそれではない。
捕食者と被食者は、時々不思議なほどシステマティックな不自由さで世界に繋がれている。
「それでも。やっぱり、捕食者は勝手だ」
時田の、赤みがかった光彩が昏く浩文を舐める。
菱形の瞳孔が収縮し、何かを逡巡するようであったが、それも瞼の内側に隠れた。
もしちはやがここにいたら、時田と皆木の「その日」を見通せるのだろうか。
ともすれば、もう知っているのかもしれない。
浩文には、ちはやの異形がはらむ不安定なちからのゆえんも、その行使にかかる条件や果てだってわからない。訊ねたこともなければ教わったこともないのだ、どうしてわかるだろう。
もしちはやのちからが浩文が認識しているよりも賢いものならば、深いところに沈めたはずの記憶も、記憶にとろけた彼のこころも、とうに啜り上げてしまっているはずだ。時田と皆木の関係を羨やむ気持ちも、ちはやに対して覚える小さな苛立ちや焦燥も、すべて。
この頃教室には青い嵐が静かに吹き荒れて、黙って椅子に座っていると、そわそわしてどこかへ行ってしまいたくなる。どこにも逃げるあてなどないのに。
ここは学校とは名ばかりで、どれだけ授業を抜けだしてもどれだけ悪い成績をとっても、何も、何も変わりやしないのだ。勉強だって、捕食者と被食者を囲い込む柵に理由を与えるために付されたオプションに過ぎない。どれだけいい点をとっても進みたい道をみつけても、被食者に対して与えられる時間が足りないことのほうが、ずっと多い。被食者には、あまり長い未来など与えられていないのだから。
浩文たちは、ただ大人たちに用意された箱の中で可愛らしく泳ぐことのみを期待されている生きものだ。
閉じ込められることに慣れきってしまうと、子供らしい未熟な自我が息苦しさに喘いでも、飼い慣らされた理性が冷静に押しとどめるようになる。
だって思い悩んで苦しむよりも、深く考えることをやめてしまうほうが、ずっとやさしい。それはどうしようもないくらい、明らかな現実だった。
時田が、何かに気づいたようにふっと顔を上げた。
色素の薄い髪の先が震え、ざわめいて揺れ動く。
「有紀!」
細く開いた引き戸から射し込んだ光が、明かりをつけていない理科室にひと筋の線を描いて伸びる。
初夏の昼下がりの色をしたそれをたどれば、遠慮がちにこちらを覗き込むちいさな顔がある。
「都筑、保健室から呼び出しが入ってる」
時田からそっと視線を外した皆木が囁く。
「はやく行ってあげて。あの子、苦しそう」
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