たったひとつ、わかっているはずなのに
ぼんやりと窓の外を眺めている皆木を置いて、空き教室を出る。
結局今日はほとんど授業を受けないままだったな、と暮れなずむ空を眺めながら階段を降りた。
教員室のドアに備え付けてあるデバイスに校章をかざす。浩文は被食者なのでそれだけで済むが、捕食者の場合は承認が下りるまでにもう一段階認証がいる。
ロックの外れたドアを開け、担任の姿を探した。教員たちの机が並ぶ空間とこちらを隔てるように並んだ、腰あたりまでの高さの壁――対捕食者用の、目に見えない仕組みを備えた障壁である――をノックした。その音に、幾人かの教師がびくりと肩を震わせたが、浩文は見なかったふりをした。
「あの、」
そこで浩文は口をつぐんだ。
……担任の名前が思い出せなかった。
「ええと……なんだったけ」
「都筑、終わったか?」
うんうん唸っていると、向こうから見つけて貰えたようだ。
近寄って来た男の、ろくに櫛も通されていないような髪とくたくたになったシャツに、浩文はそうだそうだと思い出す。横目で、スーツのポケットにとめてある名札を見る。そうだ、足立というのだった。
「はい、つつがなく。これ、お返しします」
『被食者マニュアル』を渡すと、足立は何とも言えないような顔をした。
足立のような、捕食者とは何の縁もない一般家庭に生まれ育ち、しかたなく派遣されてきているふつうの大人は、時折そういう顔をしてみせる。
そういう大人にもいろいろなタイプがいて、足立のような不干渉を望む者もいれば、「かわいそう」ということばを盾に、眉をひそめて近寄ってくる者もいる。
どうであっても関係ないことだと、浩文は思う。
(どうせ彼らには何もできない)
「……悪いな。待ってろ、いいもんやるから」
「? はい」
ややあって差し出されたのは、やけに上等な紅茶缶だった。
――ああ、報酬か。
浩文は気づいて、ちいさく笑った。
「鏑木、紅茶好きだろ。飲ませてやれよ」
そのことばに、へえと思った。
嫌な思いをしたくないからひとに用を押しつけているかと思えば、存外よく見ている。
「購買の申請書、よく見ていらっしゃるんですね。いただきます。皆木にも何かやってくださいよ」
壁をはさんだ向こう側に立つ男を見上げれば、曖昧な笑みを浮かべていた。
そんな顔をしてもだめだ。そう浩文は思う。
そんな顔をした大人の気持ちを
寮へ戻ると、先に帰っていたちはやが電話しているところだった。
ちはやは、携帯を持っていないほうの手をひらひらと振る。
浩文も手を振り返して、紅茶を淹れることにした。
カップを温めている間に冷蔵庫を見ると、白いケーキの箱が入っていた。ぐるりと一本入った水色のラインが、購買のものであることを知らせる。中を見ると、ショコラタルトが二切れ、行儀良くおさまっていた。
「……いいえ。もう今日はおしまい。おやすみなさい、お父様」
きっと時田なら、詮索ということばが思い浮かばないくらい自然に問えるのだろう。何の電話だったの? と。
だが、いつも浩文は、ちはやに電話の内容を訊ねることができないでいた。
「おかえりなさい、浩文」
「ただいま。ショコラタルト、どうしたの?」
「水田くんが浩文に渡してって」
「ふうん。どんな風の吹き回しだろ。ま、いいか。ちょうど、いい茶葉貰ったし。おいしいよね、購買の」
「浩文、好きだもんね」
学校の購買では、日用品や嗜好品を購入することができる。申請書を出せば指定したものを取りよせてもらうことができるので、ちはやが好きな紅茶や菓子を時々申請している。申請書は月末でまとめられ、捕食者の生家に請求がゆく。その際に担任の署名が添えられるので、足立もちはやが紅茶を好きなのを知っていたのだろう。
ちはやは生まれが生まれであるので一切の家事をしないし、口が肥えている。生家にいた時のことはよく知らないが、乳母やねえやがいたという話を聞いたことがあったから、生活のほとんどを人に委ねていたのだろうなと浩文は思う。
そんなちはやであっても、食堂で作られているケーキなどの菓子は結構好んで食べている。ここで作っているということもあるだろうが、味が上品なのがいい。ショコラタルトは、つやつやのチョコレート部分が柔らかく、タルト生地がさっくりと焼き上げられていておいしいのだ。
「あのね、浩文がどこにいるかしらって校章を使おうとした時、うっかり目を開けちゃったの」
今日はろくに授業も受けず、図書室の食事の後は、寮へ戻る前に鞄を取りに寄っただけであったので、教室でそんなことがあったとは知らなかった。
「みんな無事だった?」
「ええ。ちょっと教卓に穴が空いただけ。夏はこれだから困っちゃう」
ちはやの異形の
「わたしがコンタクトにできたらいいんだけど……」
――ちはやの瞳は、純粋な球体ではない。
上からは六角形に見える中央部は、三角形の先端が集まって山のように突きだしている。宝石の、ローズ・カットによく似ている。当然のようにコンタクトはできないし、眼鏡も試してはみたのだが、ただでさえきらきら光っている瞳が夏の陽射しを受けて生む光りを遮断しようと思うと、レンズが随分な厚さになってしまい、到底顔にかけられたものではなくなってしまうのだ。
ショコラタルトは、いつも通り、いいものを食べ慣れた二人の口にもおいしく感じられた。
足立がくれた紅茶も、さすが老舗の定番銘柄といった香り高さだ。
「先生の御用事、何だったの?」
「被食者になりたての子に説明する仕事。うちの担任は毎回生徒にやらせるみたいだ」
「みんな、すごく泣くっていうものね。億劫なんでしょう。足立先生、見るからにそんな感じがするもの」
学校には、二種類のおとながいる。教員免許を持った文字通りの教師と、研究者や護衛といった、捕食者たちを管理する〝大人〟だ。
ちはやたちの担任は、ただのおとなだった。面倒事を避けようとするが、数学を教えるのは上手い。その程度の認識しか持ちようがないくらい、ふつうの。
じゃれついてくる指を、浩文は軽くはたく。
「食べ過ぎ。日に三度はやれない。前にも言ったろ」
「どうしても?」
「どうしても欲しいなら、俺は抗わない」
理性が押しとどめるより先に、声がそう言っていた。頭の動きとからだの繋がりが密でない証だ。
ちはやが悲しげに眉を顰めた。
(拒まれることに慣れていないお嬢様は、ほら、すぐそんなふうにしてみせるのだ)
頭と胸のふたつところに切り離したこころが、意地悪く呟く。
「……そんな言い方、しなくてもいいじゃない」
ひどいことをしたくなる年頃なのだと、浩文は思う。
ちはやにかかってくる電話がなんなのかまったく知らないわけではなかったし、父やちはやの家から、それとなく言われてもいた。
お前の役目はちはやのちからを最大限に伸ばすことなのだから、自分を惜しんではいけないのだと。
けれどもちはやは、浩文に何も言わない。生家から一方的にかかってくる電話をどう思っているのかも、時折しんどそうにしているのは何故なのかも、黙っている。自分は浩文を好きに食い散らかすくせに、他愛のない話の他は、なんにも浩文には言わないのだ。ちはやに自分のこころを分け与えるつもりがないのなら、進んで必要以上に食事をさせてやろうとは思ってやれなかった。
「わたしに秘密にしたいことでもあった?」
それはそうだ。人間なのだから。
からだが大きくなるにつれ、見せたくないと思うことがどうしても増えてしまう。思春期には、秘密が必要だ。
どうしてすべてを明らかにする必要がある? どこに、すべてをさらけ出さなければならない理由がある? 選択を許される時は、我慢せずに抽斗に鍵をかけてしまうことにしていた。一度破られたならもっと深いところへ、それでもだめなら、もっと奥へ……。
諦めたのか、ちはやは黙ってタルトの残りをつついている。
もう一杯紅茶を注いでやりながら、浩文はその、無防備で危うい瞳を見つめた。
ちはやの瞳は、それ自体は異様に低い視力しか持たないが、常ならぬ経路を通って世界を知覚するすべに長けていた。だから瞼を閉じていても扉の向こうのワゴンに乗った料理が何なのか分かるし、黒板の字も教科書も読める。そしてその最も優れており、かつ期待されている点は、完全ではないものの、遙か昔のことや未だ起こっていない出来事をも見通してしまうことだった。
ゆえに、鏑木ちはやは、今学校に通う〈異形持ち〉の中で、一等わかりやすいかたちで利用されるちからを持つむすめでもあった。
ちはやのからだが緩やかにおとなのそれへと作り変わろうとしはじめた頃から、電話越しに与えられる要求が増え始めたのも、当然と言えば当然のことだった。過去や未来を知ることは、人の根源的な欲望に直結しやすい。生家に都合のいい何かを見ろとでも言われているのだろうことは、想像がつく。
ちはやの異形は、そのちからと引きかえに、人間の目が捉えた記憶を食餌として求める。
はっきりとそう判じられたのは、既に乳母をはじめとする幾人かの記憶を根こそぎ食らい尽くした後であったという。
浩文は、幼さに不相応な脳の領域を買われてちはやの被食者に選ばれた。
だが、一体いつまで保つのだろうと、浩文は折に触れて考える。
せめてもう少し、卒業するまでは生きていたかった。けれどもちはやは日増しに
ね、もっと見せて。もっと、もっと……。
日を重ねれば重ねるごとに、浩文の内側には記憶をしまう抽斗がどんどん生まれてゆく。
彼がやたらと本を読んだり映画を観たり、勉強に打ち込んで知識を蓄えるのもすべて、たったひとつのためだった。
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