きみは知らないはずのこと

 ――捕食者の七%が思春期の情動に耐えられず、被食者の六十八%が思春期に息絶える。

 ――被食者の八十六%が捕食者に従順で、捕食者の〇.七%は被食者を失った悲しみに苛まれて狂い死ぬ。


 だから、生き延びたかったら捕食者を愛しなさい。

 そして、食われすぎないよう手綱たづなを握りなさい。


 被食者に選ばれた子供は、一番はじめにそう習う。


 からだのどこかに常人のものではない何かを宿した、およそ人に近い生きもの。その「何か」によって、ふつうの人には与えられないちからを振るう、〈異形持ち〉と俗に呼ばれる存在が、自分にとって絶対的な存在になると教えられるのだ。

 〈異形持ち〉は、人と同じようにをする。ただその食事には、からだを支える肉体的なそれと、異形のちからを支えるものとのふたつがある。後者の食事が求めるものは異形によって様々だが、いずれも生きている人間が備えるものということに変わりはない。


 ……搾取され続ける側だからか、被食者は他者に優しくすることを好まない傾向にあるという。

 確かにそうだな、と浩文はよるべない泣き声を聞きながら思う。

 空き教室に、しゃくり上げる声が途切れ途切れに浮かんでは沈んでいく。

 かれこれ二十分ほどになるだろうか。ちはやに食べられたあと、ひとりで廊下を歩いていたときに担任にいいつけられた用を果たすために、浩文はここにいる。

 だが浩文はとくに慰めのことばをかけるわけでもなく、手にした冊子をぱらぱらと繰っていた。つるりとした感触の紙にフルカラーで刷られたそれは、いわゆる『被食者マニュアル』である。丸っこいゴシックのフォントと時折挿入されているイラストが妙にシュールなしろものだが、奥付を見れば、なんと政府の発行物であった。こんなものがあったのかと思っていたら、なるほど浩文がとっくに立派な被食者になりきった後に出来たものらしかった。


 浩文の横で同じ冊子を手にした皆木みなぎ有紀がため息して、机の上に腰掛けて足を組む。

「どれだけ泣いたってあなたが被食者に選ばれた事実は変わらないし、助けてくれる王子様だって現れない。……ねえ、いつまでそうしてるつもりなの」

 皆木のことばに、クラスメイトがぐちゃぐちゃの顔を上げる。

 彼女がいくら切れ切れにことばを並べ立てても、皆木は小揺るぎともしない。そのやさしい輪郭につつまれた頬には、静かな笑みの気配さえある。

「ずるい言い方をするとね、あたしたちは七歳からずっと、食べられてるのよ。

 でも、あなたは違うでしょう。ここに入れられたのは春だったわね。きちんと分かっていたはずよ、被食者になる可能性があるって」

 何かを言いつのろうとしたクラスメイトの声を遮って、穏やかに皆木は重ねる。

「辛いね、悲しいね、って言って欲しいなら、ほかをあたって。あたしたちにはできないし、あたしたちに望むのは結構ひどいってことに気づいてほしいわ」

「そんな……ひどい。ひどい、ひどいよ……なんで、なんで、私がそんなふうに言われなくちゃいけないの?」

 呆然としたクラスメイトの声が、ひどく大きく聞こえた。

 皆木は優しく囁いた。

「冷たいでしょう? でもね、あなたを慰めてくれるような人は、あなたに生き延びるための智慧は授けてくれないの。……わからないかな」

 その囁きに、次々に涙を生んでいたクラスメイトの瞳が暗がりに呑み込まれた。

 浩文はそれでも、自分の代わりに言わせてしまった皆木に対して申し訳なく思う気持ちくらいしか持てなかった。


 いくつかの例外を除いて、〈異形持ち〉は現れやすい血筋の上をたどって生まれ落ちる。〈異形持ち〉はその異常性によってはじめは忌避されてきたが、そののために、時代が下るとともに一種専有的な社会地位を得るようになっていった。普通の人が持ち得ない《異形》がその希少性と圧倒的な威力から《特別》な存在になるまでにそう時間はかからなかったという。

 被食者は基本的に、捕食者である〈異形持ち〉との相性を考慮した上で、捕食者の生まれた家の分家もしくは下位にあたる家から選出されるという仕組みができたのも、自然な流れだったろう。

 皆木も浩文も、そのようにして選ばれた子供だった。皆木は時田の分家筋の出で、浩文は父親がちはやの家が経営する会社の重役だった。それだけのことだ。

 そうやって選定された子供に拒否権などあるはずもなく、七つの歳を迎えると否応なしに〈異形持ち〉に引き合わされ――捕食者のお気に召せば、世間から隔離された「学校」に入れられる。ご丁寧に、ふたり部屋の寮付きだ。朝起きてから眠りに落ちるまで、捕食者と被食者は共に過ごすものとされていたので、クラスが別になることだってない。


 けれども心身共に不安定な思春期の〈異形持ち〉は、その身に宿す異形が突き動かす欲求に従って、自分に用意された被食者を食べ尽くして・・・・・・しまうことがある。

 そのために、「学校」には毎年一定数の生徒が送り込まれてくる仕組みが設けられていた。それは大抵が何か目的があるか、行き場のない子供だった。そういったリボンやタイの無い――特定の捕食者に選ばれていない生徒は、捕食者が飢えてしまわないために用意されたや空腹をごまかす疑似餌ぎじえとして、新たな被食者候補として校舎に放たれるのだ。


 学校は〈異形持ち〉が生まれる特権階級の家が共同で作った施設で、あくまでも〈異形持ち〉が安定してちからを振るえる年齢に育つまで、餌と共に隔離する場所に過ぎないのだと知らなかったのだろうか。

 この様子だと詳しくは知らされていなかったのかもしれないなと、浩文はクラスメイトの丸い頭を見下ろした。


 担任の話によれば、いま目の前で呆然と床にしゃがみ込んでいるクラスメイトは、先頃被食者を食い尽くしてしまった中等部の捕食者に、次の餌として選ばれたのだそうだ。そのため、彼女は自分の捕食者が卒業するまで学校に留め置かれ、卒業を許されない。それまで生きていればの話だが。……一度被食者を食い尽くしてしまった捕食者は、箍が外れやすいものだから。

 クラスメイトは、しゃくり上げるのを止めようとしてか、頑なにうつむいている。

 その襟元には、今朝までは結ばれていなかったリボンが揺れていた。



「……どうせ、あの子も立派な被食者になるんだから」

 一通り『被食者マニュアル』を読みながら説明を聞き終わったクラスメイトが、迎えに来た捕食者に手を引かれて出て行った後、皆木は呟く。

「いつか、近いうちにきっと、平気な顔して、捕食者はずるいって言うようになる」

 白い脚を組みかえる皆木の、その危ういスカート丈は彼女の涙ぐましい努力の一つで、わざわざ仕立て直されているのだが、それを知っているのは浩文くらいのものかもしれない。危うげなスカートを身につけていても皆木はどこか清潔で、幼い頃からよくよく躾けられたのだろう挙措の上品さと相まって、不思議な雰囲気を醸し出していた。 

「被食者は、捕食者を嫌いになれない」

「一度食べられたら、許してしまう。……ほんとにね」

 時田の被食者である皆木と、ちはやの被食者である浩文は、こうやって時々どうしようもないことをことばに表して確かめ合う仲だった。


 膝を抱くようにして机の上に深く腰掛けた皆木は、窓の外を見つめる。

 視線を辿れば、時田がリボンの無い女子と親密そうにしている姿が目に入る。時田の整った顔を寄せられ、くすぐったそうに肩を寄せる女子の様子に、皆木が抱え込んだ己の足首をぎゅっと掴んだ。

 皆木の黒い、柔らかそうな前髪の影で、わずかな瞬きに睫毛が揺れた。

 明日は、あの生徒が文字通りいるのだろう。時田の異形は、そういう性質のものだから。

「皆木は、卒業したらどうしたいの」

「そうだなあ。なんか、ふつうのことがしたいかも。映画館に行ったり、ウィンドウショッピングがしてみたい。あれかわいーっとか言って、でも買わないの。あと、行儀悪いこととか?」

「なにそれ」

「スタバでフラペチーノ買って、歩きながら飲むの。他愛ないでしょ」

 胸が痛むような気がして、小さく笑う皆木から目を逸らした。

「時田は、大学に行くつもりらしいね。そんなこと言ってた。いいんじゃない、同じとこ行けば。いくらだってそういうこと、できるだろ」

「都筑は害のなさそうな顔して、けっこう嘘つきだ」

 言いながらも、皆木のことばに棘はない。

「ほんとは夢みてるなって思ってるでしょう」

「うん。それに、皆木はもっと別のものが欲しいんだろうなと思ってた」

「うん……」

 皆木は脚をひらめかせて机から降りる。僅かに開いていた窓を、細い腕が閉めた。

 学校の窓に使われているのは、どれも特注の厚いガラスだ。鋭い刃物も銃弾をも防ぎ、かつ〈異形持ち〉の物理的なちからにもそこそこ耐えうる選び抜かれたものであったから、当たり前のように遮音性も高い。

「疑似餌はしっかり食べるのよね」

 皆木はしばしの間、窓の外から目をそらさずにいた。

 初等部に入学した頃は、暑い季節には裸足で過ごすこともあった皆木の足首はいつしか短い靴下に覆われるようになり、今ではふくらはぎまでが慎ましく隠されるようになった。

 皆木はもう、夏でも素足をさらさない。

「あの子、あたしを食べたいって、泣きながらねだるのよ。なのに……」

 振り向いた皆木の、顎の下で切りそろえられた黒髪が揺れている。

「ねえ、ちはやに食べられるって、どんな感じ?」

「疲れるしやたらめまいはするし、とにかくだるいよ」

 それだけ? と皆木の目が問うていた。

 大人びた線の細さと柔らかさを持つ皆木は、ひそかに人気がある。リボン付きであったとしても、手を出したいと思っている捕食者がいることを、時田も浩文も知っていた。もっと純粋に、恋愛対象として見ている生徒もいるのかもしれなかった。すべての捕食者が時田のように、食欲を越えて被食者に執心するわけではないのだから。

「痛くていやなんだけど、嫌いになりきれない。これが自分の幸せなんじゃないかって感じることもある」

 どうしようもないところまできているのだと、浩文にもいい加減わかっていた。

 いつかは、終わりがくるのだろう。

 時田の異形ほど明確なはないが、食べられ続けることで一部の身体機能が低下していると、浩文は先生に聞かされて知っている。

 十五を過ぎるまで生き延びた被食者には、おしなべてそういう歪みが生じるのだという。

 たった十五でそうなのだ、いつまで持つだろう。

 一生のほとんどを一人の被食者と添い遂げたという捕食者のためしもあるが、大方は件の統計が知らせる通りである。


 七つの時から、依然として浩文はちはやに捕らわれたままでいる。きっとこれからもそうだろうし、ほかの生き方を今更得られようはずもない。



 いつか突然、必ずその日はやってくるのだ。

 被食者はその瞬間を懼れ、焦がれながら待っている。




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