あなたの何がほしい
検診の後、そのまま教室に戻る気にはなれなかった。
購買でベーグルサンドと菓子パン、パックジュースを買って図書室へゆく。
図書室と呼ぶのが申し訳ないほどにゆたかな蔵書の揃うそこは、リノリウムの床がしんと冷たく午後の影に濡れていた。
司書は、常に不在である。
教師や先生、助手といった、生徒ではない〝大人〟を食べることは禁じられているし、もしうっかり食べてしまうと結構なペナルティが科せられる。とは言っても、生徒に食べられてしまう〝大人〟もまったくゼロにはならないので、政府から数年しばりで派遣されている教師たちや、研究のために望んで常駐している先生たちのほかは、常に人手不足なのが現状だった。食事の支度や掃除をする人間はとりわけ厳重に生徒たちの目に触れない場所やスケジュールで隔離されるが、まあ進んでやりたがる人間がいないのも頷ける。
きっと、誰も食べられたくはないだろう。
たぶん、ふつうなら。
埃のにおいのする図書室で、紙に並ぶ文字を拾いながら、浩文は行儀悪く食事をした。
本を読むのは嫌いではない。はじめはただ純粋に、食べられることの息苦しさから逃れるためのものでしかなかったそれが、いつしか自分にとってとても大切なことになって久しい。
本を繰ると、いつも同じことを考える。外から中を見つめるのは、自分のものではない視野を通して世界を味わうのはこんなふうなのだろうかと、浩文の疑問に微かに光りがあてられるような気がして――そして純粋に、知識を得る、その有意無有意を問わず、ひたすらに物事を
……書架の間で本を選んでいるうちに、うとうとと眠り込んでいたらしい。
食後に飲んだ薬のせいだろう。
先生の処方する薬は、ぞっとするほど穏やかに眠りを誘う。
冷たい指先があえかに触れる柔い花びらのような感触に、さまよっていた意識が浮き沈みする。
目を開けると、眼前に見慣れた白い脚がすんなりと伸びていた。
綺麗に塗られた指先が前髪を摘まんでは離し、摘まんでは離し、をくり返していた。
書架の間から見た時計は、随分進んでいた。思ったよりも長い時間放っておいてくれていたようだ。
襟元のタイとそれを留める校章は、身につけた生徒が特定の捕食者の専有物であることを示すと同時に、捕食者に被食者の居場所を知らせるものでもある。
捕食・被食関係にある者は、タイやリボンにつけられた校章ごしに、見えない糸で繋がれるのだ。捕食者の手でつけられたタイとリボンを無視して別の者がつまみ食いをすることは禁じられていたし、被食者が自分の捕食者から逃れることも許されない。
被食者が襟元につける校章は、それぞれの捕食者の生体認証を経なければつけ外しができないしくみだ。被食者は校内のそこかしこに設置されているデバイスにかざして購買で嗜好品を買ったりするくらいしか活用の場がないが、捕食者はいつでも校章ごしに被食者の居場所を知ることができる。
そんな、被食者にとってはどうしようもない、ただただ捕食者の食欲を守るためのしくみなのだった。
ちはやは時田のように、四六時中被食者の居場所を把握しなくては気が済まないといったような独占欲は見せないものの、時たまこうやって校章を使っては浩文を追いかけてくる。
――ほんとうに、タイとリボンは被食者にとって、ただしく首輪だ。
「ちはや?」
目覚めた浩文に気づいているだろうに、相変わらずひとの髪を指先でもてあそんでいるちはやに声をかける。
「そうよ、浩文」
彼女はいつも、空気を舌の上で転がすようにして、どこか甘さを纏わせた声を震わせて浩文を呼ぶ。
そう、そうやって、子犬を呼ばうみたいに名前を紡がれるのが、はじめは癪でしようがなかった。
「ちはやよ。聞いてる?」
「うん」
今もちはやに名を呼ばれると、皮膚一枚外側のところでふるりと何かが波立つような、そんな心地がする。
憎むだとか憾むだとか、そういうことはもう、考えてもしようのないことだった。
立ち上がると、差し伸べられた肉の薄い、温かな掌が頬を包む。
「ね、ちょうだい。わたし、お腹がすいてるの」
軽く押されたからだが、書架に並ぶ本の背にあたる。
「朝食べただろ。……勘弁してよ」
そっと寄せられるからだのぬくもりに目を閉じて、知らないふりを装った。
「浩文は、いつも脅えてるのね」
不思議そうな呟きが、二人の間にほとんど距離がないことを否応なしに知らせる。反射的に細る息を、制服越しに触れる柔さが許さない。
「まだ、いいって言ってない」
――そんなの、いいって言っているのと同じじゃないか。
浩文は自嘲する。
すべすべとした光沢を持つ、切りそろえられた長い髪の一房が、生きものめいた動きで腕に巻きついた。
からだの奥底を撫ぜられたように、胸の奥が震えた。
……昔は、こんなふうではなかったのに。
ちはやの髪は、いつしか彼女の意思に従って動くようになった。
生まれ持ったちはやの異形が、からだの成長に見合わぬ進度でちからを増したことで別の部位から滲み出た結果、本来とは異なる機能が備わったのだという。そう説明した先生が、とても愉快そうだったのをよく覚えている。
くちびるが、瞼に触れた。
「ねえ、わたし以外のことを考えてはいや」
瞼を通り、頭の奥を覗き込んだ光が、ゆっくりとかき回すようにさまよって揺れる。透明な川に差し入れた指が小石をさらうのにも似た軽やかさで、光が踊っている。
至極楽しげに。ちはやは囁く。
「ね、はやく見せて」
どうしようもないことに、浩文はちはやにねだられると、強く拒むことはできなかった。そしてちはやも、そのことをよく知っていた。
光りの粒で紡がれた指先がゆっくりと爪を浩文の中へと差し入れ、そっと引き下ろした――
抽斗を探し当てた指が、鍵穴をなぶる。
幾度となく触れられるくちびるの甘さを縫って、捕食される痛みが打ち寄せる。ぬるく温められた針を浅く抜き刺しするような、そんな痛みだ。
呻きを上げて身をよじるからだを、ちはやの髪がやさしく封じた。
だめ、となだめすかすように。
「……っ、痛っ」
ええ。
「ちは、や」
ええ、ええ。
ちはやが、浩文の目が見つめた世界の断片を食べている。
幾度となく繰り返されてきたのに、食事の度に浩文は捕食される痛みに苛まれる。
この頃は、声を堪えるのが難しくなっていた。
痛みが鈍く頭を揺さぶり、浩文を浩文たらしめている部分をひどく曖昧にする。浮きそうになる歯を噛みしめ、息を殺した。
たいそう始末がわるいことに、痛みが高じると、そのなかに快さが生じる。
そのごく微かな、慣れ親しんでしまっている感覚を、痛みから逃れたい一心でつかもうとする自分を、いつだって浩文は哀れんだ。
食べられていることが気持ちいいだなんて、そんなの、都合のいい存在に成り下がっているみたいだ。
睫毛をくちびるの間に挟まれたことで、涙が零れていたのを知った。
気兼ねなく開けられ、好きにいじられた抽斗がもとの場所へ戻される気配に、浩文の喉は呼吸を思い出す。魔法が解けたように瞼が開いて、両の頬から制服の胸元にすべりおちた掌が離れるのが、滲む視界に見えた。
脚の間にすっぽりと収まっていたからだが遠のき、長い睫毛に縁取られた瞳が気持ちよさそうに瞬く。
暗がりにあってもなお、ふたつの眼窩に嵌まったそれはきらきらと輝いていて、食後とあってはますますその光を強めていた。
――ごちそうさま。
くちびるが、笑んだ。
食後のちはやの笑みが、浩文は何より嫌いだった。
食らわれた後は、きまって物憂い。
自分ではない誰かを異物として受けいれる、その感覚がもたらす酩酊にも似たよろめきが、重たい
背で書架をこすって、からだが床にくずおれた。
「わたしね、」
投げ出した脚の間に佇むちはやが、ゆっくりとからだを傾けるのを、浩文はどこか、絶望にも似た気持ちで振り仰いだ。
どこか硬質なぬめりを帯びた黒髪がひとすじ零れて、さらりさらと頬を撫でる。
上履きに包まれたちいさな爪先が、今にも自分を踏みつけてしまいそうに思えた。
「浩文の世界がいちばんすき。いちばんおいしい」
そうして、一瞬のうちに浩文の頭に過ぎったいつかの記憶よりもずっと純に、ちはやは微笑う。
眩しくて、胸が痛い。
「……ちはやは、ひどい」
浩文が絞り出した声に楽しげに笑ったちはやが、チョコレートを取り出す。
ご丁寧に包み紙から剥かれた大粒のそれを、首を差しのべるようにして受けとった。
体温の高い指に摘ままれたチョコレートは、うっすら溶けようとしていた。
舌が舐めとった指先の熱の名残で甘ったるい一粒を溶かしながら、浩文は苦く笑う。
いつはじめたことだったか、まだふたりが出逢って間もない頃、慣れない「食事」に気を失う浩文を心配したちはやは、チョコレートを用意するようになった。互いに加減を心得ているいまとなってもそれは同じで、ちはやはポケットや鞄に、必ず食後に浩文にあたえるためのチョコレートを忍ばせている。
そんな随分前の他愛のないやりとりが、ふたりの間には降り積もっていた。
浩文にとってチョコレートの甘さは、どうしようもないほどに自分の捕食者である少女に紐づけられている。
身の内に眠る抽斗がことりと音を立て、ゆっくりと引き出されるのに、浩文は目を閉じた。
――まったく、捕食者に欲情する被食者だなんて、ばかげている。
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