ほんとうは何がほしい

 浩文のは、第一水曜日に割り振られている。

 二限目の途中から授業を抜け、保健室へ行く日だ。


「や、来たね」


 からりと開けた引き戸の向こうで、白衣を羽織った男がカルテを振る。

 彼は、浩文が唯一先生と呼ぶ大人だった。

 重苦しく口をつぐみ、あるいは目を背け、かと思えば気の毒そうにこちらを窺うか、笑顔の下に憐れみや嘲りを透けさせて近寄ってくる教師や研究者の中にあって、先生はふしぎな軽やかさで生徒に接した。とくべつ優しいわけでも慰めてくれるわけでもないので、浩文たちのような年齢から見れば冷たいと感じることもある。けれど、その恬淡てんたんとした態度が、浩文にはありがたかった。

「浩文、お前また顔青いぞ。あとでおやつやるから、食べて帰れよ。さ、脱いだ脱いだ」

「玄米が入ったやつがいいです」

 先生を取り巻くようにして立つ、白衣に薄紫色のマスクと手袋をつけた物言わぬ助手たちが、沈んだ目で指示を待っている。

 浩文は衝立の内側でジャケットを脱ぎ、制服のシャツを寛げる。

 薄紫色の手袋をはめた指が四方から伸び、胸と四肢には電極が、手首と足首には柔らかい布状の枷が取り付けられる。

 舌の上に載せられたフィルムが溶けて苦さが口腔に薫ると、ややあって、膚の内と外を引っ掻かれるような気配がじわりと滲む。促されて目を閉じると、衝立やカーテンの隙間越しにこちらを窺う視線が線となって自分へと伸ばされているさまが、よくわかった。

 咳払いをひとつ落として先生が丸椅子に腰掛ける、ぎいという音がした。砕けた口調が丁寧に、抑揚が平淡になった声が、いつものように浩文へ注がれた。

「特進科一年A組十七番、都筑浩文さん。今から私がする質問に答えてください。返答は端的なものでなくとも構いません。ただし、できうる限り率直に。ここでの会話は秘匿され、他に漏れることはありません。ゆえに、この場の回答によってあなたの生活が左右されることはありません。

 よろしいですか? はい、では始めます。

 ――あなたは被食者ですか?」

「はい」

「あなたの捕食者の名を教えてください。また、その人物について説明してください」

「特進科一年A組七番、鏑木かぶらぎちはやです」

「それだけですか?」

「いけませんか?」

「いいえ。今日は、どこか元気がありませんね。体温がすこし高い。からだはだるいですか? 何かつらいことでも?」

「朝、があっただけです。べつに、悩みも特にありませんから。いつも通りです」

 悩みなんて、うんざりするほどある。しかし、それを口にするかどうかは自分の勝手だし、言ったところで何になるというのだろう。

 ここにはもちろん、世界のどこにも被食者の味方なんていないことを、浩文は知っている。

 先生はあくまで先生であって、立場を越えて何かをしてくれるような人間ではない。

 ただしい意味で先生は大人で自分は子供なのだと、浩文は理解している。

 それに、と浩文は思う。

 ほかでもないちはやにだってどうにもできないことを、いったい誰がしてくれるというのだろう。


 その後も、お決まりのやりとりが続いた。

 生徒を守るための検診だと聞かされてはいるが、誰もそんな建前を信じてはいないだろう。こうしている今も、フィルムと電極によってからだの調子は数値化され、枷と人の目が設問への反応からこころを量ろうとしている。

 管理されることへの苛立ちがないわけではないが、もう浩文には反抗する元気もなかった。心身の情報を毎月取って何かしたいのならすればいいし、どうせ、秘匿なんてうそだ。ここで話したことが生家に筒抜けであったとしても、きっと誰も驚かない。部屋での会話だって録音されていたっておかしくないし、むしろ私室が放置されているとは考えにくい。浩文がもし管理する側の大人であったら、きっと見逃したとは思えない。

 だって、ここには機械の目や耳のない場所なんてほとんどないのだから。


「――捕食者を憎みますか?」


 最後の質問ですと投げかけられた問いに、浩文は首を傾げた。

 それは、いままで訊かれていないのが不思議であり、暗黙のうちに外されてきただろう問いかけだった。

 先生は、それまでの真面目な顔をやめ、口の端を吊り上げた。いかにも人が悪そうな、露悪的な笑みだ。

 つい、浩文も笑んだ。

「さあ……そのほうが楽なのだろうとは思いますが、どうなんでしょうね。わかんないです」

 ふうん、と呟いてしばらくモニターを見ていた先生が、助手たちに目配せする。

 電極と枷が外されるのを待ち、浩文は身だしなみをととのえた。

 常温の水で口をゆすぐと、それまで強烈に存在を主張していた苦さが少しだけ薄れた。

 背後で、ぱちぱちと錠剤が半透明のピルケースに仕分けられていく音がする。

 ピルケースと同じくポケットの中から取り出されていたタブレットケースを雑に開けた先生が、くるりと椅子を回転させた。

「浩文ー、タブレットきちんと食べてないだろ。一日何錠食べるんだっけ?」

「毎食後三錠ずつですっけ」

「そう」

 差し出されたチョコレートバーの封を切り、一息に半分ほどを噛みきった。玄米が入ったざくざくした触感を、気だるく咀嚼しながら味わう。口の中でほどけるチョコレートの甘さが、からだにゆっくりと広がっていくようだ。

「……ま、さすがに薬は飲んでるか。今度抜き打ち検査するからな」

 それにしても、と先生は笑う。

「ほかにもいっぱい用意してんのに、浩文はいっつもチョコだな。イチゴとかホワイトチョコとか、いろいろあるぞ。リンゴもある」

 引き出しにずらりと並んだカラフルなパッケージを見、浩文はすこしうろたえた。

「や、おいしいじゃないですか、チョコ……」

 数値を測られていないのをいいことに、言わなくてもいいことまで言ってしまったことに気づいたのは、先生の面白がるような表情を見てからのことだった。

「へーえ?」

「にやにやしないでください」

「じゃあ頬を赤らめないでください」

 浩文は無言でチョコレートバーを咀嚼するにつとめた。

 先生は、ふふと笑って掌を差し出す。

 その上に、細く折り畳んで結んだチョコレートバーのパッケージをのせた。


「高等部にあがって、卒業も見えてきただろう。何をしたい? 将来の夢は?」


 静かに差し伸べられた先生の声が、ふわりと辺りを漂う。

 将来の夢だなんてことを訊かれるとは思わず、浩文は困惑した。

 茶色の光彩が、不思議な穏やかさでこちらを見ている。

 自分を見つめる目は、いつもやたら輝いているか、とても静かなものかのどちらかだ。

 ちはやではない誰かの目に取り込まれるその都度に、そうか、人の目はふつうこうなのだと気づくし、気づかされてしまう。

 そんなふうに感じるたびに、あの暑い夏の日、自分を守る掌を失った幼い浩文の姿が遠のいてゆく気がした。


 先生はしばらくの間、黙って応えを待っていた。

 けれど浩文は、何も言わなかった。そのほうが、こころが平らかであると判断したので。



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